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身体を啓(ひら)く。

 最近、身体(しんたい)が強く啓いている人と出会った。

 彼女は、いわゆる共感覚というものを持っていて、たとえば、聴覚的な経験に具体的な色や形を感じたり、影や光が眼に映るだけでなく、音として聴こえるのだという。彼女の話を聴いていると、普段から世界、環境と深く親和し、一体となっているのを強く感じる。感覚器官が融通無碍(ゆうづうむげ)に融け合っていて、もやのように世界を知覚しているのだ。その啓いた身体の自由さと、豊かさには大変に驚かされ、とても羨ましく思っている。

 初めて会ったときに話した、僕の声には"きみどり色"を感じたそうで、僕の名前は、青木萌(あおきもゆ)というのだけれど、それは春に生まれたことにちなんで"青い木が萌ゆる"、つまり、植物や生命の萌芽を意図して名付けられているのだが、その色合いとの正確な一致には、とても驚かされた。

 ぼくは言語の皮膜が世界に対して厚く張っていて、それに邪魔されて普段生活の中でうまく世界を感受できないことが多い。目の前の対象を観るときに、すぐに言語が立ち上がり、目に映る対象を言語が説明し出す。これはコップだ。これは鉛筆だ。これは机だ。事物を直感するところに、容赦無く言語の膜が張っていて、言語の記号性がいつも五月蝿く、大体いつも疲弊している。

 身体のよく啓いた人、例えば彼女は、そういう記号的な意味と説明の束縛から、おおきく自由なのだろうと、とても羨ましく思った。

 こういう出会いもあって、最近、自分の身体を啓くことを強く意識している。

 ぼくは、普段、詩を作り、書を書き、絵を書いているのだが、しかし、よくよく振り返ってみれば、その最中に限っては、普段のうるさい言語の皮膜から開放されているのを感じていたりもする。その最中、確かに身体は啓いている。そういう創作活動の経験が、生活空間においても働き、徐々にだが、自身の身体を少しずつ啓いていっているようにも思われる。

 たとえば、詩作は言語表現のようで、言語を超えたところのものを言葉によって表象するというか、言葉の奥にある海なのか、宙なのか、そういうところから言葉が発露するのをある意味で待つような体験をする。言葉の持つ意味や、イメージ、音の響き、文字の造形性、そういうものが渾(こん)然と一挙に漂(ただよ)い、定形をめがけて濾過され、調律され、彫刻され詩が立ち上がる。そういう"もや"から”液体”、そして”固体”になるような、不可思議な結晶化の運動が内的に起こっている。それは頭で考えるというより身体的に言葉を体験している。

 また、書は、8年ぐらい続けているのだけれど、最近段々と、文字という決まった記号形式から逃れられるようになってきているのを感じている。文字には造形上の、社会的な約束があるが、そこから遁(とん)走することを意図して、筆を自由に遊ばせるようになってきている。これが中々難しいのだが、書の表現は、文字という不自由な絶対法則の中で、如何に自由を筆致で立ち上げるか、その緊迫性を問うもののように感じられる。それは現実と創造の拮抗そのものでもある。これも頭で文字を捉えるのではなく、筆致の運動、身体的に言葉、文字に切り込んでいく過程を経る。

 そして、絵は特に、言葉からはほとんど離れていて(といって、僕の絵の主題は言語なので離れきってはいないのだが・・・)、それは全く意味ではなく、光と影、色と形、物質性の大小を平面的に、美的に調和させる仕事だ。それまでは絵とは、頭の中のイメージを描写するものと思っていたところがあったが、違った。自分にとって絵とは、平面として描き、立ち現れる、物質としての美、ひとつの外在化した身体の成否を問うものだった。

 そんなことをかれこれ数年ほど、日常的に続けていたからだろうか、意味や言語に強く束縛されながらも、徐々にだが、それらから身体が自由になりつつある自分を感じている。たとえば、このブログのような散文的な文章を書く際にも、以前と比べると、身体が優位に働いて文章を綴れるようになってきている、と思う。

 文章を書くときに、頭を使って書くという意識で、文を書いている人は実のところ、多いのではないだろうか。思うに、成人の多くは、言語中心的な思考をしているのではないか。そういうとき、論理や説明性などが、文章を書くときの第一義に優先され、そのせいか、意味や論理は正確だとしても、どうにも生硬な文章になることが多いのではないか。

 確かに、頭を働かせて、ものを考え、言葉を紡ぐのだけれど、その前に全身の感覚から言葉が溢れるようにまず書く。頭での思考をしながらも、その前のところで、つまり身体で思考して、それが発露されるように文を外に出しているのだが、これが中々、大切なことではないかと最近、感じている。ここには、以前よりもずっと大きな自由を感じている。

 しかし、身体で思考するためには、言葉が、血と肉になっている必要がある。つまり、言葉を情報として捉えるのでなく、もっと言えば、言霊(ことだま)として触れ合うとでも言おうか。言葉には霊性があるという実感を、肉体的に感じているかどうか、そういう深い意識が、肚に落ちているかどうか。現代は、霊性みたいなものに懐疑的な人が多いように思われるが、霊性とは、眼に見えないミストのようなもので、全身が開放的に気化されたようなものとでも言おうか。自身がそういうものに包まれているような意識、または、そのような拡張された空間的な意識が、最近の自分にはどこかある。

 頭でなく身体で感じ、考える。身体で言葉を書く。思考を頭からでなく身体から発露させる。言葉のインスピレーション(in+spirit)のままに書く。出す。

 そして、身体で感じる直感を第一に大切にし、頭でなく身体で考えるようにすると、大抵のことは上手くいくのではないか、と最近そのように思っている。頭での思考は打算に陥りやすい。

 ある身体にまつわるワークショップに参加したときに体験したこと。その中である医師が登壇されていて、"身体は間違わない、誤るのはいつも頭での判断だ"というようなことを述べていた。ゲーテもこのようなことを言っていたように思うが、医師は、そのことを強く実感できる例を示してくれた。

 二人一組で、向かい合って立ち、一人の人が片手のひらを差し出し、もう一方の人がその掌を覆うように、上からタッチするように手を合わせる。そして、下の手の人が、掌を自由に動かし逃げ、もう一方がそれを手で追いかけてタッチをする。逃げる手を手で追いかける。それを繰り返す。しかし、これがなかなかどうして、思ったように追いかけられない。あっちこっちへ逃れる手を、目で追って判断するとスムーズに追いかけることが出来ないのだ。どうしても、ぎこちない動きになってしまう。

 今度は、追いかける側の人が目を瞑(つむ)って手を合わせ、追われる人がタッチされる手から逃げ続けるのだが、するとどうだろう、先ほどよりもずっと正確に、瞬時に手を追いかけ続けられるのだ。目を瞑った方が、手が、自然にかつ素早く、瞬時に逃れる手に追いつくのだ。

 ここには、頭での判断を挟まずに、身体の感じるままに動くことの正確性と自然さがよく現れている。目を開けて、頭で判断すると中々反応できないことが、目を瞑ると滑らかに身体が反応し、正確に捉えることができる。ひとつの感覚を遮断することで、身体が啓いたのだ。僕たちは頭で考え過ぎて不自由になっている。

 頭で考えると、あれこれ意味付けしたり、物事の価値の有無をついつい見てしまうが、身体というのは、単純に自然であって、そのまま、生(き)のままなのだと思う。身体の経験それ自体に意味の有無はない。身体には、生のものがそのままに現れている。頭というのは、多く言語による判断で、いつも現実と自然を、すなわち身体の経験、生のままのものを取りこぼしている。

 たとえば、頭で考えると、どうにも、直線的に、グラフで言うと右肩上がりの図を直ちにイメージとして描いてしまったりするけれど、身体は多分、上がって下がっての浮き沈みの波形状の流れの中を生きている。身体はゆったりとした流れを生きているのだ。根が生え、枝葉のついた樹々のように身体はどっしり、ゆったりとした流れの中を、言うなれば生きているように思う。

 我々はついつい頭で判断し、右肩上がりな上昇を急ぎ、時に、下降する流れを否定したりする。しかし、上がって下がって、それが自然な運動だ。自然であるということは、こういう身体の尺度で感覚を微細に嗅ぎとり、その流れに逆らわずに、生きるということだろうと思う。身体の反応は自然であり確かだ。時にスムースで時にとてもぎこちない。頭の判断とは流れが異なる。

 そして、身体のスケールを超えた、つまり自然を超えた、頭での考えというのは実はとても危ういものである。大切なことは、この身で感受できるもの、この身の限界のところで、世界をしかと感受しながら生活を営んでいくことなのだろうと強く思う。身体はいつも生のまま、自然であって誤らない。頭だけで考えると、大抵の場合、誤る。

 いつも身体のままに直感し、身体が望む方に向かって、しなやかに生きていきたい、とそう強く思う。


身体を啓(ひら)く。


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