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6 空白は人生の最後に

 前回は人生は不可避な恐怖に満ちていて、恐怖にドライブされていると書きました。怖い話だったと思いますが、いかがでしたか? しかし、恐怖はこれで終わりではありません。恐怖にドライブされている人間の人生はオカルト映画と同じで最も怖いシーンはエンディングに設定されているのです。

 最も怖いもの、それが何かわかりますか? 死ですか? エンディングと言ったので死と思われる方は多いかと考えます。ですが、答えは死ではありません。

 恐怖にドライブされていた私たちにとって最も怖いのは、私たちをドライブしていた恐怖が突然消えて無くなる事の方です。

 私の母は80代半ばです。数年前に父が亡くなり買っていた犬も亡くなりました。(私はずっと以前から同居していません) その地域で区画整理があり、顔見知りの多くが別の場所へ引越して行ってしまいました。家から外に出ても人はあまり歩いていません。私の知っている母は何につけても「ちゃんとしなければいけない」という人でしたし、他人からどう見られるかが重要でした。ですから、足腰が弱くなって行動の範囲が狭まった今現在、母の周囲には視線を気にしなければならない他人がほぼいなくなってしまったのです。そしてどうしても面倒を見なければならない家族もおらずひとりぼっちです。

 どうなったかは誰にでも想像できるでしょう。かろうじて外から見える家の雨戸は毎日開けます。ですがそれも起床する時刻が遅くなった時にはかなり遅れて9時頃という事があります。そもそも起床せずに布団の中に昼まで寝ていたとしても誰にも何とも言われないわけですが。朝食に時間は朝から昼までの間の任意の時刻になりました。当然お昼ご飯は午後に早かったり遅くになったりバラバラです。起床してから何をしているかというと、まずテレビをつけます。新聞を取りに出て裏返し、テレビ番組欄を表にしてテーブルの上に置き拡大鏡でワイドショーをチェックします。そのまま座椅子に座ってお腹が空くまで立ち上がる事はありません。お腹が空くと多くの場合、買っておいた菓子パンを食べます。甘く煮た豆が混ざったパンか柔らかいカステラのような生地のパン、それと安いロールケーキです。ご飯は時々炊いておいて冷蔵庫に入れています。電子レンジで温めて食べるのです。調理はあまりしません。買ってあった塊のベーコンを少し切って、小分けになったインスタント味噌汁にテーブルの上のポットからお湯を注ぎます。キャベツ1個を茹でて冷蔵庫に保存しておいて少しづつ食べます。後はヨーグルトにジャムを乗せます。その繰り返しです。別にそれで全く構わないのです。一人暮らしなのですから。家の掃除だって布団を上げる事も不要です。お風呂に入る事も別に必要ではないのです。高齢で代謝が低いですし他人に会う事も無いのですから。

 つまり、母には今、何の恐怖も無くなったという事です。

 これは母ばかりではありません。私が最近、確か20年ぶりに会いに行って話を聞いた以前一緒に仕事をした方も同じような生活になっていると言いました。定年、延長雇用を経験した後で仕事は無くなり、奥様は施設に入ってご自分では「何も」する事が無くなったとの事です。自分でしている事と言ったらテレビを観て新聞を読むだけ。ずっと家にいるそうです。私はもちろんその方が仕事をしていた時の事を知っていますから断言できますが、会社員として能力が低かったとは言えません。むしろその逆で、思考力はがとても高い人です。それも関東地区では皆さんが使うある物をほぼ独占的に扱うほどの大企業の社員に勤められていた方です。この方ばかりではありません。他でも同じ話をよく聞きます。

 多くの人は高齢になった時に何もする事が無くなります。つまりお小遣いがあって宿題の無い夏休みの小学生に戻るわけです。これが人生最後で最大の本当の恐怖なのです。

 えっ? 何かに駆り立てる恐怖が無くなったのだからそれは恐怖ではないだろう、ですか? 本当にそう思いますか? よく考えて見てください。実はこの恐怖はこうなるずっと以前から始まっています。何時でしょうか? それはたぶんあなたが小学生位からです。それは、あなたや私が、自分自身で自分自身の人生の課題や嗜好や方向性について考えられなくなっているという事です。私たちの目の前には子供の頃から課題がぶら下げられます。私たちはそれを解けば褒められます。解けないと叱られます。そうして与えられた課題だけに集中するように育てられるのです。逆に、自分自身の事は放っておけという事になります。そして人生の最後に近くなった時に、年齢を理由に、つまりは生産性の無い人間だと判断されて課題を与えられなくなるのです。

 その時に私たちに残ったものは何ですか? ほんの少しの残り時間、そしてテレビです。誰の何のためにもならない、そしてそれは自分自身のためにすらならない空白の時間が訪れるのです。これが恐怖と言わずして何と表現すれば良いのでしょうか?

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