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『イエティを待ちわびて』(シロクマ文芸部×珈琲と)

「珈琲とってくるか」

暖炉の前に腰かけていた老人が、大仰な素振りで立ち上がった。10数年雪山の友として履き古したヘラジカの皮で編まれたブーツの紐がきちんと結ばれている。それは老人の性格を表したものだった。

老人の妻は焼きあがった干しブドウのパンケーキを暖炉の前の老いたテーブルの上に載せ、時計を見た。

「もう、そんな時間なのね」

「うん、年を取ると、まず時間の感覚がぼやけていくから厄介だな」

老人は、何気なしに室内を見渡した。
暖炉は古びた船のようにそこに停泊しながら、あの豪華な人々を吐き出す客船のように、室内を温かい炎の光で満たしている。

炎の命の音と淡い影が老人と妻の足元で、まるで二人が出会った際に月の下で踊るように、くっついては離れ、互いの熱を確かめ合うように環を作り続けた。

老人は、室内を見渡して、最後に妻を見た。
この40年という刹那と永遠の時に流れた二人の黄金の海原を漂った時を見た。

老人の視線に気がついた妻は、全ての動作を止めて、皺で満たされた手をエプロンの前で重ね、頷く。

「珈琲の準備はできましたか?」

「おそらく、万全だ、さて今日も行ってこようかな」

「イエティはきっといますわ、きっと、貴方が毎朝イエティのために珈琲を淹れているのですから、招かれて一口でも飲んでくれないことには不義理ですわね」

「そうだな、もう何十年この朝を繰り返したことか」

「イエティによろしくお伝えくださいね」

「うん、今日こそは伝えてみよう」

『イエティは、きっといますわ』
妻の柔和な見送りが、なぜか今朝の老人の胸には特別な星の光を宿した。

ーー運命が我々に干渉しようと試みているのかもしれない。だが運命という何色にも反射しない光の光芒の前に、我々は一体何を思えばよいのか。

老人はブーツと同じ動物の皮を鞣して縫い合わせてもらった上着と珈琲を淹れた魔法瓶とリュックを持って戸口に立った。

妻は暖炉の前の毛羽立ったテーブルの前に座り、鼻歌を歌っていた。
老人にもよくよく馴染みのある曲で『イエティを待ちわびて』という曲だった。
1900年、実に良い時代だったと老人は思う。

ーーもう昔のバンド仲間の誰一人として生きてはいない。
あの眩しいばかりの照明、我々と呼べるだけのグループで奏でた懐かしの青春、CDは何枚売れたのかも覚えていない。
ただ、もういないのか、あの懐かしい顔たちは。
まるで睡蓮のようではないか。
ただ、もういないのか、あの懐かしい彼らは。


老人は暖炉が織りなす天井までも伸びていく紫色の影が、老人の妻を数百年前に描かれた絵画のように切り取っていることに気がついた。

瞬間、老人は妻の胸の中へと駆けだしたい気持ちが、夜明けに合わせて打ち寄せる波が砂浜と一体化するように沸き上がった。

老人が走れば走るほど、萎びた足には無限を思わせる活力で回帰し、しわがれた心臓には若く熱い血液が壊れるほど流れてくる。

全人類が旅する深遠な時の大海原を遡行していく老人は見る見る若返る。
視線の先にいる、妻もまたあの頃のままだった。

ーー何をバカげたことを、妄想だ。時は我々から奪うだけで、決して与えることはない。そうやって、ワシを含めた多くの人間が、時間を扱いたがえる。わしはしがない老人で、もう子供でもなければ、青年でもない。
もう誰かの胸ですべてを忘れて眠るには、自分に残されたものがあまりにも少ないのだ。

「それじゃ、行って来るよ」

「はい、気を付けてくださいね」

「うん」

戸口を開け、老人は間断なく降る雪のカーテンを押し分けるように外へ出ていった。

老人は暫く進んで、自らの家をふり返った。

全ての音を食べ漁る雪の行進のなかで、少し離れたところにある小さないえのなかでは、妻の命がしとしとと脈打っている。

辺りには枯れた背の高い木と、雪に覆われた山があるだけで近くには民家もない。
電話は通じるが、食事は1週間に1度、歩いて2時間以上はかかる麓の村の青年が運んできてくれる。

ーー今日こそ、その姿を現してほしいものだな

老人はこの数十年、『イエティ』を待ち続けた。

『あなたは私なんかよりも、イエティにずっと夢中でしたね』

ーーそうかもしれない、そうでないかもしれない。
わしは、ムキになっていただけで、もうイエティが存在しないことなんてわかっている、それでも体が動いてしまうのだ。

1887年イギリスのウォーデル大佐が巨大な足跡を発見したことを皮切りに、世界中にイエティの存在が知れ渡ったとき、老人はまだ10にも満たない子供だった。

老人の父はつまらない煙突掃除人で、酒癖の悪さと怠惰な働きぶりで評判が悪く、仕事が入る際は月に数回程度だった。
家族は毎日飢えていたが、老人の人生は、奇妙な線で歪に結ばれた出来事の連続によって一変した。

父が長年の煙突掃除が起因した癌に侵されて亡くなったこと、それから身寄りを失った老人は孤児院に送られ、また別な煙突掃除人の見習いとして働きだしたこと、教会へ通ったこと、それから、ある貴族の家で『イエティ』に関する記事を読んだこと。

これら全て定められた因果の思惑によって老人は、信仰心と教育を受け、そしてイエティを知り、それまで希望1つなかった胸中に冒険という感情が熱を持って籠りはじめた。

いつしか孤独な幼少期の砂のような自我を『イエティ』が支えていたのだ。

ーーいつか、僕だって世界中を冒険して、必ずイエティを見つけて本を書いて見せる、僕はそのために生まれてきた、そのために孤独になった、そうでなければ、僕の信仰心にはどれだけの価値があったというのか。

それから孤児院の仲間たちと楽器を覚え、ついでにドラッグまで覚えてしまったが、メンバーの一人を除いて、誰もが暗いなか招く手を握ることはなかった。

そして1900年、老人と仲間たちの『ご機嫌な夕餉』というバンドは『イエティを待ちわびて』という曲をリリースし、一つの時代を形作った。


【イエティを待ちわびて】作詞作曲:ご機嫌な夕餉

今朝コインを拾ったんだ。
それで掛けてみたのさ。
僕の運命を。

どうしようもなかった
煙突掃除はもう店じまい。
煤とはおさらば

アルコールだって、7月の風だって、
とっくの昔に壊れた鉛筆削りだって、置いてきた。

父に殴られた頬は、もう痛まない、だって
とっくの昔にパン1つ残して、僕一人逝っちまった。

僕は
イエティを待ちわびて
煤を払って

僕は
イエティを待ちわびて
煙突から出てきた

イエティを待ちわびて
イエティを待ちわびて

いつか、彼と飲むのさ、
イエティを待ちわびて
珈琲を。


ーー今となっては、我ながらこれだけの生活が出来るほど売れた理由がわからない曲だ。しかし、そういった成功の運で人が開く傘の大きさは異なるもので、不可思議だ。

陽が差し込まない、細い道を辿ると、やがて木々が切り倒された開けたばしょに出た。

そこには白く、丸いテーブルとニ脚の椅子が置いてあった。
老人はその椅子に座り、珈琲を取り出して、カップに注ぐ。

二人分の珈琲の湯気が真空に似た冬空を辿ってどこまで立ち昇っていく。

『あなたはとうとう私に一度も愛していると言ってくれなかったですね』

どうしてか、今日はよく、昔のことを思い出す。
記憶のなかの妻は冗談めいた表情で老人をからかっていた。

ーー愛か。君も意地が悪い、真剣には思ってもいないことで私を戸惑わせる。出会った頃から、如何なる時の試練を受けても、どこかの宵闇にその無邪気さを手渡さなかったのはなぜだろうか?

老人はまた思索の道を辿っていった。

ーーやたらと愛が足りないだの、愛で世界を救うだの、やかましい世界になった。

『愛とはなんですかね、もちろん私はあなたを愛していますよ』

ーー人は昔から『愛』というものを何かの万能薬と勘違いしている。
愛によって生まれた宗教は政治に利用され沢山の命が奪われ、愛というなのもとに沢山のいざこざも起こる。我々は愛を限定的かつ、普遍的にそして独善的に用いているだけの都合の良い獣に過ぎないのだ。
愛とは誰かが口にするそれではけっしてないのだ。
なぁイエティ、お前はどう思う。
まぁ、お前は存在しない架空のものだから、知る由もあるまい。
だが……愛とは……

老人の後ろから雪が散らかっていく音が聞こえてきた。
足音だ。
老人ははっとして、息を飲んだ。
音の方向を見ると、食事を運んでくれる麓の青年だった。

「た、たいへんです、奥さんがっ」

老人は無言で立ち上がり、淹れたばかりの珈琲も眼に入らずによたよたと歩き出した。
古い獣が傷ついたような、足を引きずるような歩き方だった。


老人の妻は心臓の病で亡くなった。
それから2日後には、心優しい村の人々が老人の家の裏に埋葬してくれた。
山を二つ越えた先からは、神父までかけつけ、老人の妻を神の身許へと送り出だした。

全てのことが経ったの数日で済んでしまうと、老人の家にあった一時の賑やかさはどこかへ霧散していき、老人は一人になった。

ーーこの何十年もわしの勝手な都合に付き合わせて山に籠りっ放しだった、それはわしの夫たる義務を放棄し続けたことに他ならないのではないだろうか。

老人は暖炉の前に座る。
暖炉はすっかりと冬じまいした島の港のように閑散としていて、周囲の海は氷、波はどこまでも後退していくようだった。

部屋の寒さは老人の心に馴染んだ。

ーー覚悟はできていたがな。どうしても手放せない最後の一つまでも、わしの手からこぼれるというのは、これ程なのか。

テーブルの上には、食べかけの干しブドウのパンケーキが寝息もなく眠っていた。
老人の世話をしてくれた村の住人たちが、食べかけのパンケーキに手を付けない老人を見て、片付けようかと親切を焼いてくれたが、老人は首を横に振った。

それは、妻が食べていたパンケーキだというと、誰もそれ以上何も言わず、一人一人が、老人の肩を、薄暮の海面に漂うヨットの帆へそっと風を合わせるように撫でていった。

ーー本当にバカげたものだ、イエティなど。確かにわしの人生を変えてくれたのはイエティだった。だがそれ以上に多くのものをわしに与え、教え、慈しんでくれたのは妻だった、わしはそれに気がついていた。そして、ただ気づいていなかった。妻は、何を感じてこの家にいたのだろうか。

『愛とはなんですかね』

ーー愛とは……愛とは……ある朝目が覚めてみると、ベッドにはすでに君の形をした跡だけがあって、厚い窓の向こうでは雪が絨毯のように降っていて、わしの首には掛けなおされた毛布があって、わしは、君のいた場所に手を当てて、君が確かに残した僅かな温もりを感じて、キッチンから君が口ずさむ『イエティを待ちわびて』が聞こえてきて、珈琲の匂いがしてきて、そして、そこにしか存在しない永遠だけを愛と呼ぶのだ。それ以外を愛と呼ぶことは何人も断じて許さない。

老人は翌朝、思い出したようにイエティを迎えるために、切り開いた場所へ向かった。

数日放置した珈琲とリュックを回収するためだった。

ーーもうイエティなど、どうでもいい。私も静かに終わりを迎えよう。

老人は雪を掻き分けて、目的の場所へたどり着いた。

「まさか……」

テーブルの上にあった珈琲の入ったカップの一つが空になっていて、
大きな、大きな足跡が、遥かな白い山の頂に向かって、長く確かに残っていた。

ふと、老人の耳に
妻が歌う『イエティをまちわびて』が聞こえた気がした。

老人は妻からの伝言を思い出した。

『イエティによろしくお伝えくださいね』

老人の周りを子供のイタズラのような風が雪を攫って、舞っていった。

ーーそうか、君か、君が祝福しれくれたのか、確かに、確かにイエティはいたよ

老人はもう一度、白く静謐で厳かな自然の高ぶりをなす山を見た。

「イエティ、妻が……イエティへよろしくって言っていたよ」

ーーああ、随分と待ちわびたものだ。



【イエティを待ちわびて】
1900年12月23日 作詞作曲:ご機嫌な夕餉 

今朝コインを拾ったんだ。
それで掛けてみたのさ。
僕の運命を。

どうしようもなかった
煙突掃除はもう店じまい。
煤とはおさらば

アルコールだって、7月の風だって、
とっくの昔に壊れた鉛筆削りだって、置いてきた。

父に殴られた頬は、もう痛まない、だって
とっくの昔にパン1つ残して、僕一人逝っちまった。

僕は
イエティを待ちわびて
煤を払って

僕は
イエティを待ちわびて
煙突から出てきた

イエティを待ちわびて
イエティを待ちわびて

いつか、彼と飲むのさ、
イエティを待ちわびて
珈琲を。


家を飛び出した君は
ぶつかって転げた
僕のリンゴを

拾って齧った
いたずらな笑みで
お転婆な君さ

干しブドウのパンケーキって、君が好きだって
僕は甘いものを食べないって、君は不満げ

月日は僕らの間で、ワルツを踊って
いつのまにかって、僕ら飛んで行って

君と
イエティを待ちわびて
山で二人

君と
イエティを待ちわびて
過ごすのも悪くないね

イエティを待ちわびて
イエティを待ちわびて

いつか、食べようかな
イエティを待ちわびて
君のパンケーキ

僕ら、愛って言葉に負けないんだ
たまにはお酒だって飲んでみよう

二人ご機嫌に、
二人のためのスキップをしなかがら、
二人であるためのステップを踏んで

僕ら
イエティを待ちながら
永遠に妬いて

僕ら
イエティを待ちながら
添い遂げる

イエティを待ちながら
イエティを待ちながら

暖炉の前で
イエティを待ちながら
思い出を語り合おうよ

イエティを待ちながら
僕ら二人だけの



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今回もお世話になります。



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