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【#創作大賞2024 #恋愛小説部門】『制服にサングラスは咲かない』10章

いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
ただ眠りは浅かった。
僕の全神経が緊張を知らせる。

納屋の扉が開く音がした。
細い朝陽が太くなっていく。

「誰だ」
扉の先で誰かがそういった。
目を開くことができず、扉を直視できない。
うっすらと目を開けてみても、逆行であることも相まって声の主の姿を捉えることはできなかった。

しまった、まだ誰かが使用していた納屋だったと僕は思った。
もちろん、その可能性も考慮していたが、昨日は他の選択肢を考える余力がなく、無理に排除していた甘さが裏目に出た。

「誰だおまえら」

もう一度声の主。
しわがれた低い、けれども芯のある声だ。

「ごめんさない」

開口一番僕は稚拙に謝ることしかできなかった。
アジサイはまだ眠っている。

僕は毛布から出て、声の主の元へ行き、
もう一度深々と頭を下げた。
今僕にできることはこれくらいしかない。

「勝手に納屋に侵入し、あげく備品を無断で使用して大変申し訳ありません」

「お前ら、何やってるんだこんなところで」

僕は事情を話すために外にでた。
僕らの声でアジサイを起こしたくなかった。

納屋の外に行き、僕は声の主の近くに正座する。

「俺は、聞いてるんだ、お前らは誰で、何やってるんだと」

低く威圧感のある声。

「実は、昨日乗ったバスで寝過ごしてしまい、市内に向かうバスを待っていたのですが……来なくて、山を下っていたらこの納屋が見えて侵入していまいました」


「もう一人の女は誰だ、制服を着ているようだが」

僕は言葉に窮した。どうしたってこの事態は好転しない。
ならばどうするべきか、謝り続けて何とか許しを請うか。
とれる手段が少なすぎる。
金銭で解決するしかないかもしれない。
この先のことを考えると手痛い出費だが、ここでトラブルを起こして警察沙汰になるよりはずっと良い。

示談という単語が頭に浮かんだ瞬間にアジサイの声が聞こえた。

「お兄ちゃん?」

僕の聞き間違いではなかったらしい。
アジサイが扉から頭を出している。
そういうことか、と僕は思った。
昨日の老婆を思い出す。

『今時随分と仲のいい兄妹だと思ってね』

いつの間にか起きていたアジサイの機転に救われた。

「お前ら兄妹か」
鋭い眼光、短く刈り上げられた白髪の頭、まるで僕らの全てを見透かしているようで、やり場のない気持ちになる。

それで、と納屋の主は続ける。

「それで、兄妹揃って、こんなところに何しに来た?こっちに親戚でもいるのか?」

親戚がいる、そういおうと思ったが、僕はまた考えてしまう。
田舎の世間は狭い。
親戚がいると言って誰だと言われて答えても、すぐにバレるか、もし僕が挙げた苗字の住人がいても、家族構成を把握している可能性もあるし、そもそも連絡をとられてしまうかもしれない。どちらにしろバレるリスクのある賭けだ。

アジサイが僕の横にたった。
僕は見上げる。

アジサイが、服を捲り、お腹の痣を露出させた。

「私たち逃げてきたんです、お父さんがいつも私に暴力してきて、見かねたお兄ちゃんが二人で逃げようって」

初老に差し掛かった老人は、腕を組んで、ため息をついた。
「しまえ」

アジサイは何も言わずに服を降ろした。

「お前たち、腹は減っているか?」

僕とアジサイは顔を見合わせてから、納屋の主に揃って向き合って頷く。
そういえば、昨日のサービスエリアから何も食べていない。

状況が状況であったために、空腹を感じることもなかったが、こうして明るくなった健全な広がりを持つ森の景色と、一見強面だが、どうにも悪いことにはならなそうな納屋の主の顔を見ていると、安堵で腹の音が鳴った。

納屋の主が僕らに背中を向けて歩き出す。
白いTシャツの上に薄い青色のシャツに作業用ズボン。

ーー乗れ
と顎で指された車は軽トラだった。

ーー1人は後ろだ、何、そんなスピード出しやしねぇよ、荷台に乗るなんてここいらじゃ普通の事だ

転落する危険性を考慮して、僕が手をあげた。
すぐにアジサイが僕の前に立つ。

ーー私が乗ってもいいですか?

納屋の主は何も言わなかった。

そうして僕は見ず知らずの人が運転する軽トラの助手席からバッグミラー越しにアジサイの安否を逐一監視するはめになった。

「大した妹さんだな」

「そうですか?」

「毎年、短期間だけ大学生がアルバイトで手伝いにきてくれるがよ、女の子で荷台に乗るなんて言い出した子ははじめてだな」

「少し、お転婆なんです、僕の妹は」

荷台のアジサイは、森から降りてくる夏の風に満足そうな表情で鼻先を預けていた。

確かに、大したものだ。

僕は昨日からの疲労と寝不足で頭が痛かった。
納屋の主の真意もわからずに警戒を解けず、未だにすり減った神経を更に摩耗しながら、僕は会話の中で、彼がこれから僕たちをどうするつもりなのか探るしかないと思った。

納屋の主を横目で見ると、彼もまたバッグミラー越しにアジサイの状態を確認しながら速度を調節したり、慎重な手つきでカーブを曲がっていた。

悪意はなさそうだ。では善意だろうか?
この世に善人と言えるような人間はどれだけいるのだろ?

僕は誰かの見せかけの優しさや、借り物の綺麗事の裏で、誰かに利用されたり、搾取されたり、バカにされたりするのは、もううんざりなのだ。

悪意の反対は善意なのか?僕は違うと思う。
悪意の反対は無関心だ。善意というのは悪意と無関心を超越したところにある、一種の聖域のような場所に住んでいる人々が持ち合わせた生まれながらの性質のことだ。

大抵の人間は、無関心に過ぎない。
関心がないから放っておけるけれど、良い意味でも悪い意味でも自己に影響があるとなると、関心を持ち、自分の利益を最大限にしようとする。
そこには競争という意味が含まれていて、競争というのはつまりは、健全性の欠如だ。

だから、納屋の主の言葉の裏を掻い潜って、僕らに及ぼすであろう幾つかの危機に対して、対応策を立てておく必要がある。

「ゲンジだ」

軽トラは唸り声をあげて、坂道を上っている。
昨日僕らがバスを待った、青い色のベンチがあった。

「はい?」

「俺の名前だ」

「はあ」

「腹、減っただろう、大したもんはねぇし用意も出来ねぇけど、握り飯くらいはすぐにできる、食ってけ」

「どうして、僕らに親切を?」

ゲンジさんは、僕の質問に妙に黙った。
目のシワが優しく微笑んでいるように見えたのは僕の気のせいだろうか。

「寝覚めが悪いからだ」

「寝覚めですか」

「そうだ、いくら人の納屋を勝手に使いやがったからといって、お前らみたいな若い奴を放っておいたら、そら寝覚めがわるいだろうよ」

「すいません」

「俺がお前らの尻を蹴っぽって、他所に追いやることなんざ、それこそ朝飯前だ、警察を呼んで保護してもらったっていい、普通に考えりゃ世間はそれを最善というだろう」

「あの、どうか警察だけは……」

ゲンジさんは僕の声を遮った。

「そんなことしねぇよ、見てみろ」

ゲンジさんは軽トラに乗れと言ったときみたいに、顎でバックミラーを刺した。
心地よさそうに風に揺られる黒髪が、アジサイの心の自由の象徴に思えた。

「警察の保護ってのはあくまで一時的な状態に過ぎん、悪くなるか、もっと悪くなるかの違いに過ぎないんだ、政府と癒着した児童施設や孤児院もざらにある、表面だけ反省を見せる狂気な親だっている」

「すいません」

どうして、警察や児童施設の内部事情に詳しいのかはわからなかったが、警察を呼ばないという配慮に、僕は自然と頭が下がっていた。

「このまま捨てておいたんじゃ、俺はその日の夜にお前らは今頃どうしているか、と考えるだろう、いやでもな、だが飯を食わせてある程度街に近いところまで送っていけば、もう俺に出来ることはすべて全うしたってもんだ」

「ありがとうございます」

ようやく、僕は深々とシートに体を沈めた。
疲れたな、と思った。
何に疲れているのだろう?
昨日からの怒涛の展開か、もしくは、人を疑い続けることだろうか。
この疲れの質は後者だ。
親からでさえも殴られたり、借金を負わされたり、あげくの果てには捨てられたのに、親以外の他人を信じる道理なんてあるわけがない。

母親も男を作って出ていった。
中学生の頃、僕は既に人との距離感を掴めなくなっていた。
当たり障りのない対応。
クラスメートとなかなかうまいことやっている実感。
けれども成人式に行ってみると、僕はかつてのクラスメートの誰の輪にも入れなかった。
成人式の数年前に行われたクラスメートの結婚式にも僕は呼ばれなかった。
そのことを2次会で知った時、上手いこと人付き合いしていた気になって、のこのこと出席したことが恥ずかしくなった。

そういう記憶もあってか、僕は帰ってきた故郷に感慨を抱くこともなく、古傷のようなものが痛み続けていたのか。

「もう着くぞ」

軽トラはメインの道路から逸れ、畦道を走る。
やがて、畦道から整備されたアスファルトの道路になり、細い十字路になった。
水田が夏の日差しの照り返しで、光がじゃれあうたまり場のように見えた。

十字路を右折して数分走り、また右折した、道路はより細くなり、反っていく。
急勾配を昇っていくと、もはや車が通れるだけの幅は確保されていなかった。
ゲンジさんは坂道の途中で岬のように突き出ている平坦な砂利道に車を進ませ、停車した。
どうやら、駐車場として利用するために雑草や木を切り開いて人工的に作られた小さな広場らしい。ここが駐車場の役割を担っている。
そしてそれは同時に、ここからは歩かなければならないことを意味する。

「よし、降りろ」

車から降りて、アジサイの乗る荷台までいった。
アジサイは何かに心を奪われたようにどこかを眺めていた。

いつかの遊園地のときも、心がない状態のアジサイを見たが、今は雨も降っていないし、辺りは暗くもない。
たった数日で事態は変わった。
アジサイの上を覆う、木々の葉擦れの音と甘い木漏れ日のなかで、彼女は初めて世界から祝福されているように見えた。
彼女の心は、今だけでも彼女の心が収まる場所にゆだねられている。

「……きれい」
アジサイが呟く。
僕は荷台から自分とアジサイの荷物を回収しながら、アジサイの視線を追った。

視界が開けている。
何も遮るのはなく、前景に民家もなく、自然の浸食に困ったような細い道が眼下に申し訳程度伸びている。
向こうの山まで手を伸ばす永遠の緑が、瑞々しく僕らを待っていた。

セミの鳴声。

「田舎の景色も悪くないだろう、冬になるとよ、いささか不便だが、夏はうんといいもんだ、街ほど熱くはねぇし、空気はうまい」

ゲンジさんはそういうと、どこから取り出したのか、アジサイの頭に麦わら帽子をかぶせた。
夏の少女だった。

「ありがとう、おじいちゃん」

澄んだ横顔に浮かぶ穏やかな笑みが、何も背負っていないただの女子高生にように見えて、僕は複雑な気持ちになる。
それをごまかすように僕はアジサイに手を伸ばす。

「ほら、アジサイ降りるよ」

「うん、ありがとう」

ゲンジさんが、訝し気な顔をした。

「ん?今なんて言った、妹の名前か」

アジサイって名前としてどうなのだろう?
いそうでいなそう。綺麗な名前にも思えるけれど少し尖っている?
無難な名前の方がいいか、もっとありそうな、いかにも名前って感じの。

「ああ、言いました、紫っていうんですよこの子」

「ムラサキか、良い名前だな、そうかそうか」

アジサイだけが驚いた顔で僕を見ていた。
そんなに変な名前だったかな?
アジサイの色が紫だから、紫。
紫式部だって、紫が入っているのだから、1000年の時をこえて、誰かの名前になったっておかしくはないだろう。
それならアジサイでもよかったのか。
僕にはわからなかったけれど、もう今さらどうすることもできないから、
僕はそのまま

「ほら、紫、行くよ」
と言ったら、アジサイは肘で僕の脇を軽くうった。

コンクリートで不器用に道として整備された斜面はボコボコとしている。
どうして田舎の人は、苦労するような場所に住んでいるのだろう?
見渡す限り、スーパーもないし、コンビニもない、娯楽なんて1つもない。
電波が通っているのかすら怪しい。

同じ惑星、同じ国に生きているのに関わらず、きっと都会と田舎では訪れる時間の長さが全く違うのだろう。

僕が小学生だったとき、夏休みの一日の時間の長さに狼狽していた。
僕はとっくに遊びつくしているのにも関わらず、地球はまだ日にちを捲らないで、僕を観察している、そんな感覚になっていた。

けれども、年を重ねるごとに、僕の若さが失われていくたびに、地球は僕への興味を失ったみたいに、躍起になって日にちを捲る。

もしも僕が今この場所に住む子供ならば、きっと僕は地球と夏の真ん中にたって、永遠の暮れのなかを歩いていけるのだろう。

それが良いことなのか悪いことなのかはわからないけれど、今よりも寂しくはないのかもしれない。

「お兄ちゃん、しっかり」

「だらしない奴だ」

螺旋階段のような斜面が続く。
額からの汗がガタガタなコンクリートに吸い込まれていく。
どうか100年後も僕の汗を覚えていてくれよ。

アジサイはゲンジさんと同じくらいのペースで上がっていっている。
僕は片手を挙げた。大きな声で話す気力まではない。

ゲンジさんはそんなに熱くないって言っていたけど、それは嘘じゃないか。

「ああ熱いな」

独り言。
麦わら帽子を押さえたアジサイが、少し先で僕に手を振る。
僕は挙げていた手を左右に振る。
アジサイは満足げに頷くと、また向き直って、何やらゲンジさんと話しながらグングンと昇っていく。

くそ。
アジサイならともかく、ゲンジさんの足腰以下なのか僕は。
これはきっと明日筋肉痛だ。
こんなにも汗を掻くって、夏を感じるっていつぶりだろう。
僕の人生はいつから、腐っていたのか。
逃げてみて、腐っていることに気がついた。

数年前に故郷から逃げたときはそんなこと考えもしなかった。
過去の僕と今こうやって逃げている僕の違いは何だろう?
なんだって、こんなに、爽やかな気持ちにもなれるのだろう?

僕は二人の後をついていった。
僕の感情ってこんなに忙しなかったか。
社会から離れるというのはこういうことか。
随分と自分を構成するはずの感情や気持ちや考えを押し殺して生きてきた。
僕の不遇や不幸は社会と地続きだったからこそ伸びてこれた影なのかもしれない。

僕の視界から先を行く二人の姿が消えた。
僕は杖として扱えそうな木を拾って、体を支えながら歩く。

ふと、気がついたけれど、荷台から荷物を降ろすときにアジサイの分まで降ろしてしまい、何となくそのまま、彼女の荷物まで持ち運んでいる。

だから、こんなに負荷がかかっているのか、と合点。

僕は売れる売れない関係なく、アジサイのことを小説として書くから、この恨みは書き連ねよう、なんて。

「おーい」

頭上からのアジサイの声。

どうにもアジサイが今いる場所が頂上らしい。
一歩一歩踏みしめて歩いていくと、景色が開けて、二階建ての大きな家と蔵が見えた。
車を10台は止めれそうな庭の広さに、どうしてここまで車で走れるように道を整備していないのか、と不満に思った。

僕はアジサイの荷物からインスタントカメラがはみ出ているのを見つけた。カメラを取り出して坂の上にいるアジサイの写真を撮った。
荷台から外の景色に見惚れているアジサイのことも撮ればよかった。

「お兄ちゃん、おそーい」

お兄ちゃんと言われることに、まだ不慣れ。

「全く、本当にだらしない奴だな」
と何故かゲンジさんもうれしそうな顔だ。
僕が坂道相手に悪戦苦闘している間に、二人は何を話したのだろう?
道中、軽トラで助手席に座っていた僕よりも打ち解けているように見える。

なんなら、アジサイがゲンジさんに

ーーありがとう、おじいちゃん

と言ったときのため口に僕は内心びくびくしていた。
結末として、どう転ぶかわからないが親切を働いてくれようとしている初対面の人間に対して、無礼に当たらないか心配だったが、杞憂だったようだ。

「ほら、あがれ、飯くわせてやる」



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