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【#創作大賞2024 #恋愛小説部門】『制服にサングラスは咲かない』9章

クラクションで目が覚めた。
運転手が慣れた手つきでハンドルを大きく回しているように見える。

ここはどこで自分は一体だれなのか、と考えた。
あと一歩で僕という存在の自我は何者かの介入によってバラバラにされてしまうところだった。
つまり、それほど深い眠りの底に横たわっていたというわけ。
一つ一つ思い出す。

自分の名前がツリバリで肩にもたれかかった新しい温もりはアジサイで、僕らは警察に追われていた。どうやら二人で眠ってしまっていたらしい。
バスロータリーまでの人ゴミで警察をまき、行先もわからないバスに乗り、やがて意識を失ったのだ。

昔から僕は深い眠りから覚めた瞬間に恐怖を感じる。
一番最初に意識が戻っても、自我がなく、自分が誰なのかもわからない、まるで酩酊状態に陥ってしまうからだ。
それは換言すれば僕が生きるためには必ずしも僕が僕である必要もないということに他ならない。
実は僕らは朝起きる度に外部の存在から昨日とは違う人格をアップデートされていて、脳は前後の事実関係を強制的に繋ぎ、修正し、昨日と全く違う自分でも生きていけるようなコンバーターみたいな役割をしているのではないか。

僕は、いつもそう考えてしまう。
だってそうだろう?眠って完全に自我を手放して、どうして次の日に同じ自分でいられる?
昨日と大体同じような自分でいられる奇跡を、何十年も続けられるわけがない。
そこにイカサマディーラーがいなければ死ぬまでコインの表を出し続けられるわけなんてないんだ。
もしかして僕らは一生錯覚の上で生きるために、常にイカサマディーラーと何らかの勝負をしているということなのだろうか?

生まれや育ちもイカサマディーラーのせい。
僕の借金や不遇や親がいないことも、アジサイの親が酷い人間で、彼女が親を殺してしまったのも、結局はイカサマディーラーのせい。

明るいバスの車窓からは外の景色が一切見えない。
反射して映る僕らはずっと前から遭難しているみたいに見えた。

まずい。街灯がない。
どこまで来てしまったのだろう?
僕はいつでも降りられるようにアジサイを起こした。

「ここは?」

「僕もさっぱりわからない」

アジサイはまだ寝ぼけ眼だ。

車内のアナウンスから次の停車場が流れる。
聞いたこともない地名。最初の頃から眠ってしまったから方向感覚も失っている。
スマホだけは眠りについたまま気楽なやつだ。
注意して見ると時折、あぜ道を入った先の方にぽつんと街灯が見える。カメラのフラッシュのように一瞬だけ顔を覗かせる暗い段々畑。遠く離れた民家の寂し気に滲んだオレンジの灯が、大きな海原に預けられた夜の貨物船のように見えた。

道路は細くうねり、緩やかに山を登っている。
これ以上登っていったらどうなるのか。
終点か循環か。

僕は一度アジサイに避けてもらい、走行中で不安定な車内を歩いて運転手に話しかけた。

「すいません」

「はい?」

「このバスは循環しますか?」

「あーいえ、このまま終点まで行き回送して別路線を運行します」

「寝過ごしてしまったのですが、終点通過してもそのまま、街の方まで乗せて頂けないでしょうか?」

「えと」

運転手はたどたどしく答えた。

「自分はまだ、一年目でありまして判断できる立場ではないのですが確か禁止事項です、申し訳ありません、お客様には終点で降りて頂くしかできないのです、なんでしたら近くに街まで戻るバス停がありますのでそちらをご利用ください、本日はご利用誠にありがとうございます」

僕としてはこんなところで降りたくはなかったが、引き下がる他なかった。
きっとこの手のタイプには何を言っても無駄だ。
それに寝過ごした僕が悪いのだから彼の無理解を責めることは出来ない。

氷が熱によって溶けるように、彼は決まった法則に従って運行しているだけなのだ。

「アジサイ」

「何を話してきたの?」

「次で降りるよ」

「え、でもこんな山のなかで?」

「近くにバス停があるらしくて、それが街の方に戻るから、少しだけ戻ろう、もちろん駅前のホテルにはもう寄れないから、どこかのコンビニでもどこでもモバイルバッテリーを買って、素泊まりできるホテルを探そうかなって」

車内の電気が一瞬だけ消えてまた点いた。
アジサイは僕の服の袖を掴んでいた。

「うん、わかった、降車ボタン押すね」

「ありがとう」

2人とも毛羽立ったベンチみたいに疲れているのがわかった。
早いところ、ベッドのあるところで落ち着きたい。

シャワーを浴びて、ホテルの入り口で煙草を一本吸って今日を締めくくる黄昏。ささやかな僕の楽しみだ。
ただ、本当に街まで戻るバスなんて来るのか。

やがて、バスは止まった。
僕らはお金を払って、降車した。
降りる間際、運転手が反対車線のバス停を指さして教えてくれた。
その表情は一つの上質な仕事を全うした職人のようだった。

バスは僕らを残し、テールランプを光らせたまま夜の帳のなかへ走っていく。
バスが小さくなると、その分だけ僕らのいる場所が暗くなる。
自然が醸成してきた暗闇の静けさは僕らを心細く、怯えさせるには十分だった。

自然と僕らは手を繋いでいた。
道路を渡る。

ひび割れたアスファルト。
どこからか飛び出してきた蛙が一匹。
蛙を発見すると、僕らは蛙の大合唱に囲まれていることに気がついた。
僕らは手を握り合ったまま消えかけた白線の上で空を仰ぐ。
山の影はまるで月までの滑走路のように長く生い茂っていて、その先にある鬱屈とした月は僕らを軽蔑しているように思えた。

こんなにも冷たく眠った寡黙な道路を見たことがない。
今僕にユーモアを引き出す余裕があったら、くすりと笑わせてやりたいくらいだ。

「ツリバリ、バス停あったよ」

「時刻表は」

「って今何時なの?」

「しまった」

「え?」

「スマホの充電がなくて、時間がわからない」

「うそ」

「本当」

「それに見て」

「これは更にまずい」

19時以降、今日のバスはなかった。
翌朝は10時30分までバスはこない。

僕らは時間に見放されているのか、否か。
ところどころ欠けた青いプラスチックのベンチに僕らは腰を下ろす。
とりあえずそれ以外にすることがわからなかった。

僕らのすぐ後ろに控えている、大きな森の気配がおどろおどろしい。
振り向く勇気もない。
せめて危険な動物がでなければいいが。
僕の本能に呼応した神経が最大限の警戒を呼び起こし毛穴の隅々まで広がっていく感覚。

唐突にアジサイは声を出して笑い始めた。
僕はアジサイの笑い声が何か良からぬものを引き付けないか心配だった。
気配を消して山の夜に同化した方が安全を担保できるのではないか。

「アジサイこの状況でよく笑えるね」

「だって……もう……笑うしかない……逃避行一日、散々すぎて……」

暫くアジサイはそのまま笑っていた。
落ち着くとアジサイは人差し指で目の端を拭った。

「涙出てきちゃった」

「正直、僕はこの状況怖くてたまらないんだけど」

「そりゃ私だって怖いよ、こんな人のいない山奥なんて来たことないし、でも、なんか」

「なんか?」

「自由だね、私たち」

「ここまで来たんだから自由じゃないとやってられないよ」

「そうだね」

自由の正体は空漠であるということがわかった。
わかりきったことだけれど、自由がないということはどんな形であれ、定まったレールの上を走り、なおかつ逃れるすべがないという状態のこと。
僕らが手にした本物の自由には果てがない。
昨日まで縮小していた世界が今度は指数関数的に広がり続けていく感じ。

「ねぇ」

完全に笑い終えたアジサイが僕を見ている。

「うん?」

「小さい頃さ、暗闇こわくなかった?」

「こわかったよ、なんなら今だって足が震えているよ、僕の足が炭酸のペットボトルならあけるときは注意した方がいいくらい」

「また変な事言って、それでも小さい頃の方が怖かったでしょう?」

「まあ、言われてみればそうかな」

「やっぱりそうなんだ、私も怖かった、私さ小さいときに、悪い事するとおしおきとして、狭い押し入れに閉じ込められたんだ、長い時で数時間くらい、トイレだってそこでするしかなかったんだよ?」

「それはまた、酷い話だなぁ」

「でしょう?それからね、おしおきがない日も外が暗くなると、なんだか閉じ込められているような気がしてね、なんていうのかな、私がいる世界は偽物で、私の家の周りは開封した段ボールを逆さにして、被せられてるみたいに」

「アジサイもなかなかに独特な感性だね」

「それは誉め言葉?」

「アジサイが僕に言ってるのと同じ意味だよ」

「それなら誉め言葉だね」
アジサイは足を交互にパタパタと動かしながら話し続けた。

「だから夜になると、あー全部作り物なんだ、映画のセットみたいなものなんだって考えると、殴られたり、閉じ込められたりすることも作り物に思えて、やり過ごすことができたんだ、でもね、今はね、不思議とその感覚が一切ないの」

「へぇ、それならどんな感覚を持ってこの状況に向き合っているの?」

「生きてるなぁって」

「生きてるかぁ」

「そうだよ、生きてるよ、夜も森も、箱でもないし作り物のセットでもない、私の人生って感じがする」

いつの間にかアジサイは真剣なまなざしで僕を見つめていた。それは何かを確かめるような。

「ツリバリ、正直に答えて、私ってやっぱりおかしいのかな、人を殺して逃げて、こんなに笑ったり自由を感じて、まるで私の過去が他人ごとに思えるの」

それは、君の心が君自身を守っているからではないか、と思ったけれど口にしなかった。
聞いてしまった瞬間に、知ってしまった瞬間に、その前の状態には戻れなくなることだってたくさんある。

どこかで転んで膝を擦りむいて、誰かが指をさして「血が出てるよ、怪我だ」と言った瞬間から痛みを伴って、傷になる。

心だって同じで、知らなければ、保たれるのに、無理に知らせたり、向き合わせようとする人が多すぎるような気がする。
立ち向かう事だけが正解なのか?
それなら立ち向かった結果散っていった命にはどう説明をつけるのだろうか。

僕はそのことで、自分の中の多くの知らなくて良い、消えない傷を見つけてしまった。

「アジサイは変じゃない、僕だって自分の過去が他人みたいに思えているよ、でもそれでいいんじゃないかな?」

「そうなの?どうしてそれでいいの?」

「煙草みたいなものなんだよ、きっと」

「ますますわからないけど、ツリバリも私と同じなんだね、ちょっと安心」

僕は煙草を取り出して、くわえて火を点けた。
そこで、ちょっと配慮が足りていなかったと痛感した。

「ごめん、自然に煙草吸っちゃった、向こうで吸ってくる」

「一口」

「え?」

「どうやって吸うの?一口ちょうだい」

「いやいや未成年でしょう」

「いいからいいから」

僕は、まあいいか、これも社会経験と思いながら、吸い方を教えた。
きっとむせて、嫌な思いをしてそれを機に煙草を吸いたいなんて言い出さないだろう。

案の定、タバコを肺にいれたアジサイはむせた。
「こんな苦しいんだ」

「最初はね、はい、もう十分でしょう、あとは僕が吸うから」

「もう一口、なんか胸がすっきりした気がしたの」

僕の視線はアジサイの控えめな胸元へ。

「変態」

「いやいやそういう意味での視線じゃない」

「とにかく、もう一口」

何度吸っても僕には返ってこないので、おかげで僕は貴重な煙草をもう一度取り出して火を点ける羽目になる。

むせながらもいつまでも吸い続けるアジサイ。

僕らは夜の山で、来るか来ないかもわからないバスを延々と待ちながら煙草を吸った。
欠けた青い田舎特有のプラスチックベンチ。
制服を着た女子高生と22歳の男が並んで煙草を吸う歪さ。
アジサイは背伸びをしてまで、世界に反抗したいのかもしれないと僕は思った。
それなら、気が済むまでするといい。
もう誰もアジサイを、僕を縛るものはない。

「楽しい」とアジサイ。

僕はやれやれ、と思った。
先ほどより自然に対する畏怖というか、純然たる恐怖が和らいできた。

それからおそらく今日のバスはもう行ってしまった。
車どおりが一台もない。
もし人類が滅びたら、どれだけ都会であろうと、こんな夜が訪れるのだろう。

「肌寒いね」

「着るものないの?」

「パーカー一着くらいなら、着ようかな」

「それでも寒かったら言って、僕も羽織るものは一応持ってきたから」

「あれ、そういえば、来るときに持ってたもう一つのバッグは?」

「警察から逃げているときに、手放してしまったみたいなんだ」

「え、うそ、ごめん」

「いや、アジサイのせいじゃないよ、必死だったからね、手放したという感覚もなかったくらい、とりあえずパーカー着な、風邪でも引いたら本当に大変だよ」

「うん、バス来ないね、どうしようっか」

アジサイはリュックサックからパーカーを取り出し、被りながら言った。

「そうだね、別な方法でいくしかないね」

「別なって?」

「うーん、僕が今考えているのは、ちょっと下ってみて、民家とかあれば頼み込んで、泊めてもらう」

「うわーすごい、こんな夜に青年と女子高生が戸口に居たら腰抜かしちゃうんじゃない?」

アジサイは楽し気に声を漏らした。

「下手な幽霊よりリアリティーのある幽霊だし、そういうの信じてなくてもとんでもない事情を抱えているなとは想像するよね」

「なんていうの?」

「シンプルにバスで寝過ごしたって」

「苦しいね、それ」

「まぁでも一応、事実だからね」

「じゃあもう下る?」

「うん、もし下ってる途中でバスがきたら、手を上げて止めるしかないね」

僕らはベンチから立ち上がった。
鳴りやまない雨のような蛙の鳴声が一層大きくなった。

夏の夜気に触れて、体が冷える。
僕も持ってきたパーカーを着る。

「アジサイ、手を繋ごう」
「え」
目を見開くアジサイ。

「いや、違いますよ?セクハラではありませんよ!一本道とは言え、一応はぐれないようにですね、ほら、連絡手段もなければ人気もないし、すぐに遭難しちゃうかなって」

「えー怪しい」

「怪しくない、怪しくない」

怪しいってなんだ。
それに結構僕ら手を繋いでいるじゃないか。
今さら何を。
まあでも僕は結構恥ずかしいのだけれど。

道路自体は整備されていて、歩道までもが設けられている。
昼間はこの道路を利用してどこかへ行く人もちらほらとはいるのだろう。
だから迷う心配もあまりないけれど、何が起こるかわからない。
こんな山が隣接したところで何かあったら、もう取り返しがつかない。
神隠し。
余計なリスクは避けたい。

アジサイはうつむきながら僕の手を握った。
女の子は大変だ。
手を繋ぐ理由が違うってだけで、あれほど自然に、そしてこれほど不自然に繋ぐことができるのだ。

人の多い公園で歩いていたら、いきなりズボンのお尻が破けてパンツが見えてしまったかのような気まずさ。

僕らはそのまま何も話さずに山を下る。
夜風にそよぐ山が巨人の手に見えた。
お腹が減っているに違いない。
時折激しく動いて、僕らを捕まえようとしている。

「民家ないね」

「うん、ない」

暗闇に目を凝らして見ても人家は見当たらない。

でも遠くに薄らと街灯が見える。
人工的な光に安堵。

「あそこに行こう」
僕は街灯を指さす。

「何か光ってるね、わかった」

10分くらいだろうか、歩いてみると街灯の目の前まで行くことができた。
道路から逸れてしまったけれど、街灯の奥にぼんやりと建物がある。

「背に腹は代えられないね、しょうがない多分もう寝てるけれど、起こして道に迷ったとか、バスで寝過ごしたって言うしかない」

「そうだね、さすがにここに野宿はちょっと無理かも、寒いし」

灯のない建物に近づくと、僕は思わずため息がでた。
脱力感。
来た道を戻る体力も、希望をもって他の民家を探す気力もない。

「納屋だ」

試しに扉を開けると鍵がかかっていなかった。
田舎特有の警戒の無さに救われた。

「アジサイ、今日はここで寝ようか」

「そうだね、もうくったくた、外より全然いいけど、勝手に使っちゃっていいのかな?」

「それはよくないけど、もう他を探す体力もね、それに大分年季も入ってるし、もしかしたら、既にこの納屋は使われていないかもよ?農家の数も減っているわけで」

「そうなのかなぁ、結構整理されてるようにも思えるけれど」

アジサイが僕の後ろから恐る恐る忍び寄ってきた。

何かを入れる箱や、米袋、鎌や鍬といった農具、大きな手持ちハサミ、トラクター色んなものが詰まっている。

床はなく地面のままっだったため、僕は何枚か少しはましな米袋を敷いて、荷物を置き、座った。

「どう?まぁいい感じじゃない?アジサイの分を敷くからちょっと待って」

一応は横になれるだけの範囲の米袋を敷いた。
ある程度寝床を整えたところで、アジサイが納屋の奥からブルーシートを引っ張て来て、僕らは議論をすることになった。

ブルーシートを地面に敷きなおすか、それとも寒いから、僕らの上に被せるか。
話し合いながらも、それぞれまだ何か使えそうなものがないか探す。
すると、散々砂が被ったような毛布がでてきた。

アジサイは
「かゆくなりそう」
と言っていたが、寒さには耐えられなかった。
結局僕らは、地面にブルーシートを敷いて、小汚い古びた毛布を上からかけるようにした。

荷物を置いて、できるだけ厚着をしてから横になる。
毛布は一人分の大きさしかないため、アジサイに譲った。

さすがに、二人で包まるとなると距離が……いただけない。

僕らは横になる。
見慣れない納屋の天井に、僕らは本当に逃避行しているのだ、という実感がふつふつと湧いてくる。

毛布がないと寒いが仕方がない、と思ったら、寝返りを打ったアジサイが僕に毛布をかけてくれた。
物凄い距離の縮まり方に、心臓が脈打つ。

「僕はいいから」

「だめだよ、寒いもん、それに風邪なんて引いたら大変だって言ったのはツリバリだよ?」

僕はそのまま天井を見ていた。アジサイの体が僕の体にくっついた。
アジサイの話す言葉から漏れた息が首筋にあたる。

僕はなんというか申し訳ない気持ちになった。

「ねぇツリバリ、疲れたね」

「疲れたね」

僕は平静を装って返す。
時間が経つごとに、服越しにアジサイの温もりと僕の温もりが混ざり合って、それが毛布全体に波及する。

「あたたかい」

そう言われた瞬間に、僕の心臓はまた穏やかではなくなった。
なんて日だ、と僕は思いながら、アジサイの方を見た。

アジサイは見上げるようにして、僕の目を見て、微笑んだ。
「アジサイは眠れそう?」

「うん、眠れそう、眠れそうというよりは気絶かも」

「それじゃあもう眠ろうか、明日のことは明日考えるとしますかね、すぐに破綻する計画を拵えないと」

「計画通りって難しいんだね、だって私たち本当は今頃ツリバリが予約してくれたホテルにいて、私はベッドに、ツリバリは床か、浴室でしかも寝袋で寝る予定だったもんね」

アジサイはおかしそうに笑っている。

「そう考えると、僕は全部を失ったわけだ」
僕もつられて笑った。

「本当にありがとう」

僕は首を横に振った。
僕は自分が逃げたくて逃げてきた。
アジサイはそのきっかけに過ぎない。
僕は優しい人間ではない。
利害関係の一致のようなものだ。

「おやすみ」
とアジサイ。僕も
「おやすみ」と返した。

納屋の外では夜がどんどん深まっていくのを感じた。
時期にアジサイの安らかな寝息が聞こえてきた。
僕はアジサイを見る。
儚げだと思った。

朽ちかけた納屋の天井の隙間から見える月は相変わらず僕らを軽蔑するような咎めるような表情で僕らを見ている。
もしかしたら監視しているのかもしれない。

風が草木を撫でる音。
次第にうなされていくアジサイ。
囁くように何かを言っている。
僕はあえて、その言葉を聞かないようにした。

きっとアジサイの心の奥底には本人が眠ってから決壊するダムのようなものがあるのだ。

さきほどまで、疲れていたのに、今日、僕は眠れなそうだ。





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