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マジックマッシュルームには気をつけろ(ショート)

バンクーバーシティセンター駅から地上にあがっていくと、まずダウンタウン特有の匂いが立ち込めていて、鼻腔にまとわりつく。

そう、まとわりつく、という表現が最適。

人の排泄物、マリファナ、ホームレス、香水、飲食店のダクトから流れる作業途中の匂いが、空中で絡み合って質量が重くなり、おまけに粘着性まで会得して、さらには行きかう人びとの鼻をシャボン玉が包むように抱き込み、
そうか、これがバンクーバーのダウンタウンの匂いだったと思い出させる。

日本との違いはたくさんあるけれど、割と顕著におや?と思うのは匂いだ。
人がこの街で生活して落としていく匂い。

汚い水たまりの濁りのような街だと思う。
けれど僕はそれが気に入っている。

不思議だと思う。
大人が作り出した煙草の煙みたいな世間の常識で言えば、何でも綺麗な方が気分がいいはずだ。
頭では理解しているけれど、なぜだろう。

僕はなんでも少しくたびれたものが好きなのかもしれない。
それが子供ってやつなのかも。

子供は直感で物事を選ぶ。
くたびれているものは、優しい。
優しいものは誰かを許している。

僕も何かに許されたいと思っているのだ。
だから僕は子供ってやつを、いまだにやっているのか。
たまにウイスキーが僕を大人だと騙そうとするけれど、
彼にはそれを決める権利がない。

ロブソン通りを西に下る。
なんで西に行くことを下ると言ったのかはわからない。
太陽が沈むからだろうか?

ロブソン通りを西に行くと、昼間は乾燥した植物みたいに静かな飲み屋街があって、その端には息を殺したスターバックスがオープンしている。

近くで素人ジャズ集団が演奏していることがある。
ひ尿瓶そっくりな形状の容器に通りすがりの観光客がチップをはずむ。
ユーモアなのか、ひ尿瓶を見たことないのか判断がつかない。
社会的なメッセージの表れなのかもしれない。
もっとこう、なんていうか、ひ尿瓶に人権をみたいな。


その隣には、膝と頭を地面につけ、それより高い位置に伸ばした両腕には日焼けした紙コップをもった物乞いがいたりする。
誰も彼を見てはいなかった。

ジャズ集団が演奏するとき、目の前のベンチは必ず葉巻を嗜む人で埋まっているのには何か意味があるのだろうか。
ジャズと葉巻のあいだには密接な関係があるのか、怪しい香りがする。
きっとそうなのだろう。

生まれる前に、母親のお腹のなかでジャズのパッケージを見たことがある気がする。
黄色を基調としたパッケージには茶色いピアノやチェロやアコースティックギター、それからアルバム名と、その横に葉巻みたいな。

葉巻は吸ったことがない。
煙草は日常だった。
なんで吸っていたんだっけ。

そうだストレス発散だ。
発散しないといけない類のストレスが多すぎた。
ストレスを感じるといつも頭が真っ白になる。
バンクーバーにきてもそのメカニズムはかわらないらしい。

一時、残酷な禁煙生活を続けていたのに、
バンクーバーにきてから祈るように煙草を吸っている。
僕の周りには砂浜に打ちあがったイルカののように無数の吸い殻。
バンクーバー私立図書館前の広場には、一面地面が見えないくらい煙草の吸殻が落ちている。


観光客は上ばかり向いて、コロッセオに似た堂々たる図書館のたたずまいをシャッターに収めようと夢中だ。

美しいものの下には、いつも誰かの吸い殻がある。
しけもくを拾って誰かに売ろうとするホームレスがうろうろしている。

僕も一度声をかけられた。
「MDMAはやるのかい?」

彼の埃や土や薬物で浅黒く変色した手からは、数本のしけもくと、何かを包んだアルミホイルと、数個の薬物が出てきた。

「やらないよ」
僕は首を横に振った。

「マジックマッシュルームには気をつけろ、グランビル駅の近くで売られているけれど、あれはだめだ、マジックマッシュルームには気をつけろ」

「わかった、ありがとう」

「マジックマッシュルームには気をつけろ」

人の糞尿の刺激臭にも、マリファナ独特の香りにも慣れてきた。
この街はいつもどこかのダクトが食べ物の疲弊した匂いをはきすてる。
それから限度を知らない香水。

マジックマッシュルームの匂いは、まだ嗅いだことがないな。
どんな匂いなんだろう。
混じっているのか、それとも混じらないところでやっているのだろうか。

「マジックマッシュルームに気をつけろ」




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