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おいで北京(連載小説②)

「アヘンか?」
スタッフが毛羽立ったカウンターから身を乗り出して、私を引き留めた。
視線は私に背負われた若い女に預けられている。品定めをするような、何かを正そうとするようなどちらとも取れない細い眼差しだった。
「いや、アヘンではない」
「なら、なんだ、なんにせよ女を操るにはアヘンってやつは気の利くもんさ、けどうちはダメだ」
私はもう一度、今度はゆっくりと確かな活舌で同じことを言った。
受付のスタッフは左手の短い指で自分の眉毛を撫でながら考える素振りをした。
「拾ったな?」
「ここからすぐ先にある橋の中腹で倒れていたんだ、意識がなくてね、部屋へ通してもらってもいいかな、休ませてあげたいんだ」
「もっと駄目だな、その女は山掛けから逃れてきた娼婦かもしれねぇ、うちのバックだって一端のヤクザなんだから別の派閥につけいる隙を与えちまう、そうなったら俺らだって無事ではいられないんだよ、そういう街なんだよ」
彼は後ろに隠していた手を私の方へ向けた。右手には人差し指と小指がなかった。その2本の欠損が何を表すのかはわからなかったが、堅気の世界にいるべき人間でないことは理解した。
彼は手を裏表にして見せると、自分の顔の前に持っていき、粘着質な笑みを浮かべた。顔には暗い影が茂っていた。
「元あったところに捨ててきな、お客さん、指二本で済んだ俺はラッキーなんだぜ、指二本で幸運の女神がついてくださったのさ、そいつは山掛けにちがいねぇよ」
彼はどこからか、どぶ川に晒したような異臭のするハンカチを取り出し、野性味を感じる眉毛の汗を拭いた。
指がない手でハンカチを握っているさまは、猿が人間の文明社会に紛れ込んだぎこちなさがあったが、彼は指を二本失くしてから、ずっと文明というものから離れているのだろう。
「その山掛けとはなんのことなんだ?」
「お客さん、そりゃまずい、そんなことも知らずこの商売女を拾っちまったのかい、あんたは日本人か?」
「そうだが」
「そうかい、日本にだって沢山あるだろう、組ってのかな、そういうところに首輪をつけられた色付きの女てのが」
山掛けってのは、と彼は続ける。
「引き取り先のいねぇ女の売春宿のことさ、ここいらにあると、縄張り争いに発展するから、それぞれ山の奥の屋敷みたいなところに住ませて管理してんのさ、客がそこまで足を延ばす、ただ、たまにいるんだよ、そこから逃げ出すやつがよぉ」
彼は覗くように女を伺った。
「私にはそうは見えなかったな、つまり、街にいるような引っ掛けの女には見えなかったという意味だけれど」
ホテルの入り口から数人の男が互いに体を支えるようにして入ってきた。それぞれカラフルなシャツに身を包んでいる。
遠慮のない陽気な話声が、私と受付スタッフの間を木立を吹き抜ける新しい風のように通り抜けていった。
「ごゆるりとお過ごしくださいませ」
受付スタッフは私越しに完璧な微笑をたたえ、宿泊客を見送ると、私に向き直った。その表情は隙のない爬虫類のように鋭かった。
「山掛けには、痣がある」
「痣?」
「もっとわかりやすく言うと焼き印さ、どの派閥も山掛けにはそれぞれのブランドがわかるように特徴的な焼き印を入れてるのさ」
「まるで古代ノルドの羊だな」
「なんだっていいのさ、夕方に帰ってくる羊の数が今朝放たれた数通りだったらな、正確に帰ってくりゃあな、なんなら痣を組む位置だって統一されてるぞ、確か、そうだ、女の肩だ、降ろしな確かめてやる」
「確かめてどうする?」
「山掛けなら捨てる、そうでないなら、お客さんが二人分宿代を払う」
「わかった」
背中で意識を失っている女を柱にもたれかかるように降ろした。熱を失った背中の汗は薄暗いラウンジから吹く風で幾分か冷えた。ラウンジの声は遠い船の汽笛のように微かにしか聞こえてこない。乾杯とグラスを合わせる音だけが夜の輪郭を帯びて鮮明に響いた。
「どれどれ、失礼する、お、上玉じゃねぇか」
日本で言うところの着物なのだろうか。橋よりも照明の効いている場所で女を見てみると、サイズの合わないおさがりの様な青い着物を着ていた。
微かに空いた唇は、物憂げに湿りを帯び、血色が悪いとはいえ頬の張りは鋭利なもので刺せば途端に水が溢れそうなほど若く見えた。
「こんなに漆黒の髪は珍しい、艶も悪くない、都落ちしたどっかの国のお姫さまってところだな」
彼は女の胸元に手を伸ばし、生地の重なりを高草をかきわけるように慎重に開いていく。隠れていたものはただ白く、男を惑わせるには十分な大きさの膨らみを持っていた。それは柱にもたれた左側に圧迫されるような形をとってはいたが、蜜のような香りが熱を帯びて私の鼻まで立ち昇ってくるのがわかった。それが人工的な香りなのか、女としての鮮度が醸し出すフェロモンのようなものなのか判断がつかなかったが、男が女に対して上玉といった意味がここにきてわかった。
私は彼の腕をつかんだ。
「わかってるよ、お客さん、こんなとこで剥きやしねぇ、ただ服を緩めたかっただけだ」
そうかと、私は頷いた。
男は高級な魚を捌く、料亭の職人さながらに女の肩から慎重に着物を解いていった。
次第にきめ細かく目を離さない肩が露出した。月の光でさえ女の肩を溶解していまいそうなほど幻想的で、美しさの命を彷彿とさせた。
「ねぇな……」
男は一言そういった。
確証はなかったが、なんとなく予感していた結果だ。
それは楽観的というよりは、運命に近い。
私は根っからの運命論者ではないが、人間には抗えない別の次元の時間と言うものがあるような気がしてならないのだ。
私は再び女を負ぶった。
「悪かったね、お客さん、変に勘繰りをいれてよ、ただそれだけ繊細なものなんだよ、失礼したね」
「いや、何も失礼は受けてないさ」
恐らく中国の歌だろう、ラウンジではいつの間にか楽器が持ち込まれていて、演奏者を囲むように手に酒を持ち、歌い、踊っていた。遠く暗い海の光景に見えた。
私は負ぶった女をもう一度背負いなおして、豪華な装飾が施された螺旋状の階段を昇る。
「お客さん」
後ろから呼び止められた。
男は階段わきに設けられた受付のカウンター内に戻っていた。こちらを見上げている。階段の柵がカウンター内にいる彼を閉じ込める檻のように見えた。
「そういや、あんた北京語うまいね、どうしてそんなに話せるんだい?」
「君も私ほど練習すれば上手くなるよ」
男は声を漏らさないように笑った。
「違いねぇな、お客さん冗談も言うのかい、それじゃおやすみ、いい夜を」
私は彼に向って君も、と言い、自分の部屋へ向かった。
重い荷物の負担はあったものの部屋は3階で階段から見て左手すぐにあったから苦ではなかった。
私の隣の部屋は今病院で治療を受け安静にしている上司の部屋だ。
今になって思えば、誰にも言わず上司の部屋に女を寝かせればいいという案が浮かんだが直ぐに考え直した。
私は自分の部屋の鍵しか持ち合わせていなかった。
鍵をあけ狭い室内に入る。女をベッドに寝かせた。
私は北京の路地裏の匂いが染みついたネクタイを外した。
女を見る。とんでもない出張だと思った。日本に帰ったところで良くて懲戒免職、最悪は私も会社から訴えられるだろう。学生運動の際に世話になった大阪の弁護士は昨年亡くなってしまったし、あの上司のことだから、私に濡れ衣を着せるかもしれない。信頼とは崩すために積み上げた幼子の積木と何も変わらないものだ、と思った。スーツの胸ポケットから煙草を取り出し、上着はそのまま椅子に掛けた。ブラウン管のテレビはひび割れていてつかない。テレビの前に灰皿があった。スーツの掛かった椅子をそこまで引き、煙草に火をつける。体の節々が痛かった。
「誰……」
ふり返ると女が目を覚ましていた。女は着物を着ているというのに、薄い掛布団で胸元までの体をすっぽりと隠し、怯えている様だった。
そしてまた、言葉を探しているようでもあった。
「あなた……どちらさま?」
久し振りに思い出した言語を試しているような雰囲気が伺えた。
「日本語か、君は日本人だったのか」
「いえ……私、……私の母が日本人でした」
それで日本が話せるのかと合点がいった。
「少し、待ってくれ、今日はまともな気分で煙草を吸えてないんだ、一本分でいいから待ってくれないか、そしたらきちんと話す、どうせ覚えてないだろうからね」
女は頷いた。こちらに気取られないように先ほどよりも高い位置に掛布団をあげた。女は外を見た。
私も釣られて外を見た。
北京の街は、まだ更けきらない夜のなかで、遠く近くからクジラの鳴声のような音があった。
女も私もその音にしばらく時間をあずけた。








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