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猫との生活でもらったもの

猫派・犬派論争は後を絶たない。
最近は若干の猫ブームが来ているが、基本的には犬の方が優勢なのではないか。わんちゃんと生活している同級生はたくさんいたし、留学のホームステイ先でも犬を飼っていた。猫かと思うくらい懐かなかったシーズー。

って思っていたけれど、どうやら猫の方が飼育数が少し多いみたい!これはびっくり。猫だらけの日本もそう遠くないと思うととたんにハッピーな気持ちになってきた。

2021年 全国犬・猫 推計飼育頭数
全国の推計飼育頭数 犬:710万6千頭、猫:894万6千頭。
一般社団法人 ペットフード協会 より

わたしは生粋の動物好きで、小学生の頃にハムスターを飼ったり、中高生の頃はセキセイインコを飼ったりした。ハムスターは私の掌の上で寝てくれたし、インコは自分の名前の他にカワイイと喋れるようになった。学校で嫌なことがあっても、家に帰ると私のことを大好きな動物がすりすりしてくれることは、思春期の私にとってあまりにも大きな心の拠り所だった。

でも賃貸の私の家では犬や猫は飼えなかった。大人になって動物が家にいなくなると、心がどうしても荒んだ時に癒してくれるのは新宿の茶色くてレンガ色の猫カフェだった。現代のフォトジェニックさを全面的に無視したその猫カフェは、猫思いの店員さんと漫画ばかり読む常連であふれていて大好きな空間だった。失恋した時はいつもの猫カフェに行って、毛繕いする猫を見てはぽろぽろと泣いた。

新宿の猫カフェ きゃりこ の「しじみ」

そんな大きな心のよりどころだった「きゃりこ」の新宿店はコロナウイルスの影響で閉店してしまった。常連の他には噂を聞きつけた外国人でにぎわっているのもきゃりこの特徴だったのだ。写真のしじみには兄弟のあさりがいて、二匹には武蔵野店・吉祥寺店でまだ会えるのでみなさまぜひ。

そんなこんなで生活範囲にはキラキラした女の子が猫型のキャンディで猫たちを魅了する、「映え猫カフェ」しかなくなってしまった。しまった。私が求めているのはみんな猫を眺めるだけ、猫と同じ空気を吸うことを目的として集まるコミュニティだったのに。

そんな風に途方に暮れ、同時に私生活もなんだか荒み、もう何でもよくなっているときにたまたま出会った今の恋人は、猫を飼っていた。

ゆきちとの出会い

おむつを付けたロシアンブルーはあまりにも滑稽で、初めて見たときは思わず笑ってしまった。ゆきちはまだ1歳にもならない子猫で、野生を、人間の怖さを知らない、人懐っこい猫だった。
こちらが手を出すとくんくんと匂いを嗅いだあと、ためらいもなくすり寄ってくる。もしかしたらこの人はおやつをくれるのかな?とキラキラした目でこちらをのぞき込んでくる子猫にメロメロにならない人間はいないんじゃないんだろうか。

わたしが出会う前の本当に子猫のゆきち
いまもまだ赤ちゃんともてはやされるゆきち

とはいっても、最初のうちはわたしはやはり訪問者で、プイっとされることも多々あった。おもちゃであやしていても、彼がその横をあるいていくと、彼の足にすーっと引っ張られていっちゃうような。

ただ、生活を少しずつ共にしていくうちに、猫との生活がいかに素晴らしいものか伝えなくては気が済まなくなってきたのでここに残しておこうと思う。

わたしを飼っているつもりの猫

しばしば言われているのは、猫は飼い主のことをパパやママだとは思っていないということだ。猫は飼い主・人間のことを「自分より大きな猫」「敵意の無い猫」だと思っているらしい。

大きい猫の腕の中でぬくぬくするゆきち

聞けば聞くほどおかしい。
だって私は、ご飯の時間になったらカリカリを皿によそってあげ、その皿を洗い、彼が汚したトイレを片づけたり抜け毛を掃除したりする。
膝の上にゴロンと寝ころばせていつもより固く閉じた口を少し無理やり開いて歯磨きをしてあげたりする。
なのに彼は私のことを自分とおんなじふわふわで、一日の半分は寝て過ごしている生き物だと思っているのだろうか。
彼がお布団に粗相をしてしまったときは、もうこのねこちゃんめ!!と言いながら掃除をしている私や恋人。
私たちが口喧嘩をしているときも、このねこちゃんたちうるさいなあ、と思われているのだろうか。

ありえないようで本当の話。つかみどころがあまりにもなさすぎる。
でも私は猫のそんな他人行儀なところも本当に大好きだ。

気まぐれが功を奏して

猫って本当に気まぐれだ。ゆきちも例外なく驚くほどに気まぐれ。

基本的には一日の半分は寝て、四分の一はおしりをフリフリしながらお家を探索して、四分の一は走り回っているゆきち。ロシアンブルーは他の猫に比べても活発的で、運動が大好きでたまらない。

ぽっちゃり体系に鋭い目つきの猫ちゃんも愛くるしいのだけど、やっぱりスリムだとより美しいロシアンブルー。自分の体に鞭をたたくように家じゅうを走り回る。

そして動き疲れると冷たい床の上に溶けてねむる。まあ大体はこちらが遊びに付き合わされているので これで満足か、よかった と作業に戻ったりするのだけれど。

あーあそんだあそんだ!の顔

そして少しすると足元にすり寄ってきてゴロンと上目遣いをしてくる。なに!?あーかわいい。。と仕事中でも一人で騒いでしまうほどかわいい。そして大体そういう時は小腹が空いていて、おやつをくれにゃんの合図である。あざとい。

こうやってたくさんコミュニケーションをとれていて調子がいいな、と思う日ほど、こちらから頭をなでにいったり猫吸いをしようとするととことん断られたりする。

そんなふうに右に左に猫に振り回されながら生きていると、「何考えてるんだろう」「それは"たのしい"の顔なの?」「もっとくつろいでもらうにはどうしたらいいんだろう」って四六時中猫のことを考えている気がする。

これこそ私たちを飼っている猫の気まぐれの思うつぼなのだろう。

無の表情だっていとおしい

愛しいことと、困ったこと

愛しいことも困ったことも挙げたらきりがない気もするのだけれど、愛しいことと困ったことが紙一重だということは、猫との生活で初めて知った。

基本的にゆきちに話しかけるときは、「どうしたの?(ハート)」とか「にゃんだ~たのちいの!(ハート)」とかこちらまでバブバブしてしまう。ほとんどわが子だもん。

遊びモードのギアがハードに切り替わってしまって、わたしや彼の足をおいかけに追いかけてがっちり噛んでくる時などは、やめてー!と言ってしまいたくなる。
でも猫は、ゆくゆくは人間として成長する子供や家を守るワンちゃんとは違って、怒っても何もわからないのだそうだ。なにこの人怖い・・・と近づかなくなったり余計に警戒心からダメなことを繰り返してしまうらしい。

遊びたいモードのゆきち

思い切り遊んでゆきちにサイコーにハッピーな猫になってほしい気持ちと、こちらが怪我したり、家具がボロボロになったりするのは話が違う。
いくらかわいくても、じっとりとした梅雨の日の夜、残業を終えた私たちの前にきゅるんとした瞳の猫とおしっこのお布団が現れたら、とたんにわたしのHPは底をついてしまう。

でもすごいのが"ホンモノの猫飼い"ことわたしの恋人だ。
おしっこを見つけたわたしがどうしよう・・・と狼狽えていても、「そっか、それちょうだい!」とすすすとお風呂場にもっていってくれて洗ってくれる。「トイレがなんか気分じゃなかったね~」とか、「お布団の上って気持ちいいもんね~」などと話しかけながら引き続き猫を吸ったりしている。

すごい。すごすぎる。そんな彼の口癖は「まあ飼わせてもらってるからね」である。私に対してももちろん穏やかな彼だけど、特に猫に対してはベロベロに甘い。

でもわたしもだんだんとその血を引き継いでいて、うわ・・・と思った3秒後には澄んだグリーンの瞳に吸い寄せられたりしている。

きっと自分の子供ができてもこんな感じなんだろうな、と思う。

とてつもなく愛しいことの一つとなりには、どうしても困り果てて上向きになってほしいことがあって、でもそれはとてつもなく深い愛ゆえのことだからこそすべてを認めてしまったりもするんだろうなと。
掌でねむっていたハムちゃんや、元気のない私の肩に飛んできてくれたインコへの深い気持ちも久しぶりに思い出した気がした。

わたしとかくれんぼをするゆきち
出張前日にこうなられてはどうしようもないの図

おわりに

一緒に生活するまでは、「猫ってかわいいし癒されるよね」なんて漠然と思っていたけれど、その正体はとんでもない大きな太陽のようなものだった。
陽が昇っても沈んでも、毎日を紡ぐ中で手にするあたたかなふわふわは、息をして、感情を持って、私たちに向き合ってくる。

猫との生活でもらったものは、わたしの毎日がハッピーになるということだけじゃなかった。今日が幸せであればあるほど、この子には明日も明後日も幸せになってほしいと思う。たとえ私の幸せをすべて与えたとしても。

おわり

ずっと元気でいてね


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