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第8回《ふるさとと文学2022》「開高健の茅ヶ崎」に行ってきた。

12月下旬一枚のハガキが家に届いた。

ハガキは、往復ハガキの返信用で少しでも市役所の方に上手く見せようと、若干細目に書いた見栄っ張りな字がバランス悪く中央より若干下に書いてしまっていた。

僕は、そのハガキが何を意味するかは知っていたが、裏を捲る心の準備をしてからハガキを覗いた。

入場整理券〈売買禁止〉
ふるさとと文学2022~開高健の茅ヶ崎

と目に飛び込んで来た。

 

当選に胸の高鳴りを覚えていたが、公に喜ぶことは当選しなかった人に対する配慮が足りないだろうとサッカーのW杯で見習ったスポーツマンシップを自分なりに実践した。

「ほう」

このリアクションが正解なのかはわからないが、僕は中年男子が出せる喜びの中に哀愁を漂わせる「ほう」に成功したと思う。

僕は本棚から開高健を取り出し「歩く影たち」を読むことにした。

開高健の文章は、やはり生きている。ああ、生きてるなと感じる熱さが必ずある。

むつかしいのは文字じゃないんだよ。何をいってるのかよくわからない文章ほど日本では尊敬されるんだよ。わかるところとわからないところをかきまぜる技術がむつかしいんだよ

開高健/歩く影たちより

この作品の中で、一瞬だけ文学についての記述に触れているこの台詞が物凄く頭に残った。僕は開高健の時代に生きていない。その時代の本当の文学を知らない。今回のイベントに行ったら開高健の文学とその時代の熱が少しは分かるかも知れないと心が弾んだ。

公益財団法人開高健記念会が主催で行うイベントは、茅ヶ崎市民文化会館大ホールにて開催された。会場は、コロナ禍のため人数を制限しているとの事だが、それでも入れるギリギリの人数目一杯だったのだ。見た目にはほぼ満員に見えた。

舞台は3部制で
映像ライブ
朗読劇
シンポジウム
で構成されていて、それぞれ約1時間だった。

1部の映像ライブでは、活動写真弁士の片岡一郎さんの語りと佐藤久成さんのヴァイオリンの生演奏だった。開高健の生い立ちや文学への目覚め、戦場での在り方など、僕が知らなかった事を知れてとても感じ入った。

2部の朗読劇は、作品「掌のなかの海」を俳優の中村敦夫さんと竹中直人さんによる朗読劇を三咲順子さんのピアノ演奏ともに聞き入った。朗読で感じる開高健の作品はやはりどこかしみじみと心に入ってくるものだった。

3部のシンポジウムでは、より身近に開高健を知ることが出来る貴重な話を聞けた。ドリアン助川さんの司会による話の中で、永山義高さんが実際に開高健との仕事のなかでのやり取りを話してくれたりした。

永山さん自身が学生の頃に、大江健三郎と開高健。どちらが先に芥川賞を取るのかの話題で盛り上がっていたそうだ。

僕は同じ時代に生きていた人の生の声を聞くのは初めてだったのでとても興味深く感じた。開高健が純文学からのスランプでノンフィクションを書くようになり、それでも純文学にまた戻って「輝ける闇」を書いた事を知った。

当時の純文学は、安部公房の時代だったと話された時に僕は、今は読むことでしか知らない、文字でしか知らない、作品だけしか知らない時代の体感から来る本当の声に真っ直ぐに感動出来た。

何より、開高健は書けないという事実から逃げずに行動した結果がノンフィクションだったという変遷はそれでも書くこと書き続ける事で文学を信じていたのだと感じた。

日本ペンクラブの会長の桐野夏生さんの話した言葉で開高健の文学を

「文学が現実をどう描くか」を文体として表現した方と評した時に物凄く感銘を受けた。実際に行動している作家が描く物語はフィクションとノンフィクションの境目にいるようなものなのだと僕は解釈した。

だから、熱いのだ。と納得した。

また桐野夏生さんが学生の頃は、開高健を読まずは文学人に非ずだったと、それだけ文学は現在より力を持っていたと話した。

僕が今熱中している近代文学は、その時代の熱さが関係しているのかも知れないが、時代の熱さも戦争というものに人生が翻弄され、皆が生きる事に必死でいたからこそ、そのために、生きるために書いて、必死に人間というものを表現したのだと考えた。

生きる意味に文学が必要だった。人間のどこかの拠り所だったのではないだろうか。

残されたものを読むことしか出来ないが、それを体験出来る限り開高健は僕の中で生きているという事になると思う。

開高健は、言海(げんかい)という辞書を愛読し、「言葉に出来ないものはない」と表現と闘っていたらしい。

イベントに参加した僕は、程よい幸福感と疲労感の間でロビーに出て自分にお土産用のクリアファイルを購入した。

並べる事に意味がある気がする

「悠々として急げ」

僕の文学への道しるべになる言葉だと思った。
「楽しみながら。でも時間は少ない」

急がないと。

楽しい時間でした。今後もこのイベントがずっと継続し、触発される若い世代が溢れ地域も文学も活性化して欲しいと思う。

存命だとしたら92歳。開高健が今なお止まない戦争や、環境破壊をどう捉えてどう書き残したか知りたいと思うが、それが叶わぬならせめて考える事で自分の思考を繋げていきたいと思う。

最後になるがクリアファイルの横のフィギュアは、僕とUFOキャッチャーの戦いの証である。半月分のお小遣いが消えたが満足している。

無駄をおそれてはいけないし無駄を軽蔑してはいけない。何が無駄で何が無駄でないかはわからないんだ。

開高健

そういうことである。ね。

なんのはなしですか

私と開高健はこちら。

連載コラム「木ノ子のこの子」vol.18
著コニシ 木ノ子(名言をいつか生みたい)


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