将来の私、
大学4回生。就活。将来。
私はこれからどうなるんだろう。
目先の将来に対して不安を抱えたとき、深呼吸してみると
将来の目標がいっぱいみえてくる。 人生の中で起業もしたいし、何カ月も旅にでたい。ヨガも極めたいし、ゾウとも暮らしたい。子どもは7人ほしいし、愛する人に囲まれて毎日幸せを感じたい。たくさんの夢がある。
そのなかで今、掲げている大きな人生の目標は、自由に暮らすこと。 困らない程度のお金と人に何かをできるぐらいの余裕を持ちながら。 そしたら、子どもや愛は不確定だが、大抵の目標は叶う。
この一番の目標を叶えるためには、自分で稼げるようになる力を身につけることが近道だけど、勇気も時間もなく、みえる目標をこなしていたら、今目の前に就活。
・・・今はお金も心も貧困な大学生なので、一旦就職しようと思う。
また、今学んでる福祉についてはすごく興味があるし、一度仕事に就きたいと思っている。
理由は、世の中誰もが生きやすい社会になってほしい。困っている人の手助けをできる人になりたいから。
これらの理由は、一見いい人のように思えるが、しかし、私はきっといい人間ではない。人のためではなく、むしろ自分のための理由でもある。
それは前述した``将来の目標は、愛する人に囲まれて毎日幸せを感じたい‘‘に関係しており、根底を掘り下げると、幼少期の話になる。
幼少期、私はひとり親家庭で育ち、一人の時間が多く、多分寂しかった。母は必死に働いて仕事、家事、育児をしてくれていた。私は、母が私のために頑張ってくれていたのは伝わるが、母は愛情表現が苦手で、本心で思っていないことも言ってしまう節もある。さあ、母が毎日お風呂から上がってくれば、今夜も怒鳴られ人格否定大会の始まりだ。
福祉を学んだ今だから分かること。親の本心に愛があった場合でも、人格否定は立派な虐待。「産まなきゃよかった」つい言っていたこの言葉は10年以上経った今でも状況を鮮明に覚えているし、「お前なんか」から始まる口癖で、自分自身を肯定して生きていくことに必死。
今でも人一倍愛がほしいのは幼少期愛が足りなかったからかもしれない。 愛がほしいのに、人を信用することができない。人を愛する余裕がない。生きていくことだけに、自分を肯定することだけにいつも必死。なんて面倒くさくて嫌な性格なんだろうといつも思う。
しかし、世の中には、たまに本当に愛をくれる人がいる。 親友と呼べるくらいの仲の友達に困ってたら何円までお金貸せる?と話していた時、想定もしていない額を言って「お金なくなるよりこの関係壊れるほうが嫌だ」と。そんなこと言ってくれる友達がいる。
他にも、彼のありのままをさらけ出しても受け入れてくれる言葉や表情、 精神保健福祉士とお話をした時「大丈夫ですよ」の言葉と笑顔。 これまでたくさんの愛に触れながらここまで助けられてきた。
でも、それでも未だに人を信用することがなかなかできなくて、 自分が生きていくことに必死な私は消えない。
福祉と愛は近いような気がする。というか、福祉には、愛が必要である。
困っている人の手助けをできる人になりたい。そのためには、知識や技術も必要であるが、 ``愛を持って人と接していけるような人になりたい。‘‘ が私の真意としてあると思う。
まだまだ、人間的に未熟である私、人と自分を愛することができるようになることが第一の目標である。
福祉にやりがいを持って楽しく過ごしているのかな。病んでいないかな。 分からないことは考えても仕方ないな。これまでの通り、やりたいと思った本能に任せて生きていきたいな。
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