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マスメディアが標本化した宗教二世像に不信感を募らせる二世たち

旧統一教会問題が加熱するなか、いわゆる二世たちの声に昨年の夏から耳を傾けてきた。これまでの情勢と被害者救済新法に二世たちは何を思うのか、メディアに登場する二世と立場や考え方を異にする彼らの見解を紹介する。たとえばある二世は、信仰している二世には人権はないが被害者を名乗ると立場が変わると言った。別の二世は、救済を考えるのが悪いのではなく家族問題が政治に利用されているのがおかしいと共産党の強い関与について語った。なお当記事は途中経過の報告であり、取材と論考をさらに続けるつもりだ。
■まだ世の中が知らない多様な実態や意見があるはずです。当事者の声を下記問い合わせフォームまたは筆者TwitterアカウントのDMまでお寄せください。

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構成・タイトル写真
加藤文宏

私の存在は消されたままと語る二世たち

 安倍晋三氏暗殺事件に端を発した旧統一教会(世界平和統一家庭連合)追及の流れを追う中で、信者の家庭に生まれた人たちの証言を集めてきた。こうした人たちは一般的に「二世」と呼ばれるが三世代めも数多く存在し、親と共に信仰する人、信仰を捨てた人、信仰をめぐって親との確執を解決できなままでいる人といった類型に分類される。これだけでも多様だが、それぞれが置かれている現状や考え方はさらに多様であった。そして彼ら自身もまた「報道されている二世像は、二世を代表するものではない」と言う。

 信仰をめぐって親との確執を解決できないままでいるAは、「家庭連合が取り潰されても、自分の両親と信者の人たちはまた集まって信仰するだけだ。解散命令が問題を解決しないだけでなく、私の悩みも法律でどうかなるものではないし、すべての家庭が多額な献金をしてきたのでもない。このような自分と家族について誰も知りたがっていないと言えばそれまでだが、では皆が知りたがっている二世の主張だけで法律がつくられたり、解散命令が出されてよいのだろうか。皆が知りたがっているというのは、それほど強い力を持っているということなのか」と困惑している。

 Bは「親は親、自分は自分なので信仰していない。信仰を捨てたことになるが、特に嫌がらせはなかった。自分と親との関係は冷めてしまっていると思うが、報道されている二世たちの家庭はもっと冷え切っているみたいだから、割り切って別の人生を歩むほかないのではないか。残酷な意見に聞こえるかもしれないが、親たちにも人生があり、それをおかしいと思うかもしれないが信仰や考え方がある。信仰や考え方を否定するのは自由だが、奪うことはできない。しかし、こういった意見はまったく取り上げられない。また、親との断絶は家庭連合だけの話ではない。いまの教会追及の様子は根本の問題をわかりにくくして弊害が大きい」と断言した。

 Cは親と共に家庭連合の信者で「ぜんぜん不幸ではない」と言う。だが、このように語ると洗脳されている、カルト信者、「壺」などと揶揄されて「誰も話を聞いてくれない。テレビが同じ人の証言ばかりを伝えているのは一方的過ぎないか。信者に人権はないが、被害者の二世になると立場が変わる。アイドルグループを二世信者と決めつけて晒し者にするのはよくても、被害者二世を疑うのは許されない。信者を拉致監禁してもよいと言う人が、自分は教会に襲われそうで怖いと警察に相談する。このようなおかしなことが続いて新法や解散命令の議論につながっていった」と不満を漏らした。

 親とも教会とも曖昧な関係と語るDは、宮根誠司がスタッフの信仰調査をすると言ったとき、拉致監禁して脱会させても問題ないとされたとき、解散命令の話題で盛り上がったときと例を挙げて「コメンテーターや政治家から無視されていると感じた。一度も自分の境遇や意見が反映されたと思えることはなかった。それなのにテレビなどで『これが統一教会です。二世です』と決めつけられた。私のような二世はいないことにされて、なにもかもが進められていた」と教会追及がはじまってからの半年間を振り返った。

 「彼らは彼らだが、私は私」と立場を明らかにする姿勢は、マスメディアに登場する二世の存在を否定するものではない。また誰が二世を代表するか異議申し立てをしているのでもない。彼らはあまりに単純化された画一的な二世像に懸念を表明し、信者家庭と二世、三世の多様性を無視する報道姿勢に疑いの目を向けている。


それは宗教の問題なのかという問い

 Aは「親との関係をはっきりできないのは自分が悪い」と考え、理想とする親子関係への強い執着があるから感情的になるのだと自己分析をしながら両親について語った。彼の両親も教会に献金しているが、収入の10分の1を基準または暗黙の了解にするキリスト教の献金と比較しても常識はずれの額ではなく、布教などでも特に過激な活動をしていない。

 「ひどい親と思ってきたが、何が嫌だったのか今となっては曖昧になっている。もしかすると友だちの家は無神論なのに、うちだけが信仰を持っているのが恥ずかしかったのかもしれないし、世の中で悪口を言われる家庭連合だったからかもしれない。学費を払ってくれたから大学に行けたし、殴られるようなこともなく大人になれたのだから、親が悪いと言い続けてばかりではだめだ」と思うようになった。「テレビなどに出てくる二世は、こんなふうには思えない育ちかたをしたのだろう。同じ家庭連合の信者なのに、私の家族と彼らの家族は何が違ったのか」

 Aはつらい思いをした二世が解決を求めて声を挙げる気持ちは理解できるとしながら、彼らが必要としているのは家庭連合からの救済ではなく、親からの救済ではないかと感じる。「あの二世たちが訴えている通りなら毒親問題だ。家庭連合があるから悲劇が生まれるとされているが、ここにもやもやしたものを感じ、教会問題の追及に彼らが利用されてしまっていないか気になる」

 Bは家庭連合は未だにクリーンとは言えないとする立場だが、「完全にクリーンな宗教、誰も困っていない宗教はあるのだろうか」とキリスト教の幼児洗礼を例に挙げ「物心つかないうちから信仰を強制されて、親や教会とだいぶ揉めた人を知っている」という。「家庭連合を棚に上げる気はまったくない。しかし揉めた人のキリスト教の教会は、家庭連合より体裁が整っていて世間体がよいだけではないかと思った。しかし揉め事の原因となると、かなり両親側に問題があった。両親が子供の気持ちや立場を理解すればトラブルになることはなかった。子供の信仰しない権利を認めないのは、教会ではなく親が悪いのだ」

 Bが仏教信者の家庭問題に関心を示したので、お布施や戒名にまつわるトラブルのほか、先祖代々の墓に入るのを拒否した息子を足蹴にした父親がいた例を「これは檀家としての習わしに関係した家族観と、暴力をふるった人の問題だろう」と紹介した。

 Bは「家庭連合の問題も宗教の問題だけでなく、親の問題、その子自身の問題といろいろある。ここだけ切り取らないでほしいが、子供が原因になっているケースもある。親と子の問題がさまざまなのは仏教徒の家庭と同じだ。献金や信仰のほか、家族関係に国がどこまで介入してよいものだろうか。いままで家族の在り方を押し付けるなと言ってきた人たちが、ここに疑問を抱かないのが不思議だ」と、教会追及に政治的背景が濃厚なことを暗に示唆した。

 Cは「家庭連合はおかしいと言われるが、私に言わせれば神社に石でできた狐があるのも、お葬式のとき頭を剃ったお坊さんに手を合わせてお金を渡すのも全部おかしいと感じる。教会を通じて紹介された人と祝福式(合同結婚式)で結婚するのが気持ち悪いことなら、昔の結婚はどうだったのかと言いたい。顔も知らなかった人と結婚したら優しい人だったので幸せに暮らしたというお年寄りの話が、いい話として伝えられている。それなのにうちの両親が幸せで私も幸せなことはマインドコントロールと決めつけられている。信仰している人は全員異常者として、テレビの二世たちの話だけが信じられている」と家庭連合が槍玉に挙げられるのに納得がいかず、「いま、そんなに献金トラブルを抱えている人がいるというのが変だと思う」と疑問を呈した。

 信教の自由の観点から家庭連合と関わる中山達樹弁護士によれば、2009年のコンプライアンス宣言以前に教会が抱えていた献金訴訟は165件あったが、同年から2016年で4件に、2016年3月以降は1件も提訴されていないと言う。献金トラブルが改善されて行く家庭連合を見て育った20代のCにとっては、この点ばかりを取り上げる報道姿勢が異常なものに感じられるのだ。

 Dは「私のようなかなり適当な立場でも、報道されている二世の発言は実際と違っている部分があるのではないかという声が聞こえてくるし、私も疑問に思う点がある。だからといって、親や教会が何か言ったところで話は聞いてもらえない。あの二世たちが望む通りになったら、その解決策は親の何もかもを否定して、親を犯罪者や禁治産者の扱いにするものになると思う。ほんとうに、こういう問題なのだろうか。あれほど大変なら、テレビに出たり会見をする前に親や教会を裁判で訴えるべきだった」と言う。

 だが法的トラブルとして解決しにくい悩みであったから、いままで訴訟を起こさなかったのではないか。このため被害者救済新法が施行され、それでもまだ救済が難しいとされている点を筆者はDと話し合った。

 Dは納得できない点が残ると言う。「たとえば寺は宗教ではなく葬儀屋のようなものになっている。教会を結婚式場くらいに思っている人もいる。葬儀屋や結婚式場が普通の宗教だと思っている人に、宗教を語る資格はない。信仰している人と家族のこともわからないはずだ。わかっていない人たちが、騒いだのが教会追及問題で、たった5日審議して決まった新法だった。さまざまな意見を除け者にしたほうが話が早いから、報道や政治の場で特定の二世の意見だけが都合よく取り上げられたのだろう」


国は家族の関係に介入すべきか

 宗教がからむ複雑さがあるものの、いわゆる宗教二世問題は信者ではない家庭の家族問題と構造が同じで、他人が簡単に立ち入れない関係のなかで、縁を切ろうにも切れない親子ゆえに発生していると言えないだろうか。紹介した四名以外の証言からも、報道されている二世像を起点として理解される様子とはだいぶ異なる実情と考え方が語られた。どちらが正しいか間違っているかではなく、標本のように扱われている二世像はだいぶ稀なケースらしく、マスメディアが単純化させた二世像は家庭連合の異常さを強調しすぎている。

 稀な例であっても困っているのが事実なら、救済策を考えなくてはならない。報道で取り上げられている二世たちが求めるまま問題を解決するなら、何者かが親子間に割って入らなくてはならない。しかも二世の願いをかなえるのが目的なので、両者を調停するのではなく児童相談所が親子を引き離すように、強権的に子の意思を尊重しなければならない。現在どうにもならないのなら、更に制度や法をつくらなくてはいけなくなる。家族の問題を解決する制度や法をつくるのだから、家族はどうあるべきか考え、こうあるべきと定めることになる。これは国が家族の関係しかも宗教をめぐる関係に介入するのを意味する。

 だが家族とは、国や公権力が口出しすべきではない国家以前の私的領域と見なされている。それでも家族はどうあるべきかを国が規定しなければならないのだから、この矛盾をどうするか旧統一教会・現家庭連合と宗教二世をめぐる論議で真っ先に見通しを立てておかなければならなかったのだ。また望ましい家族像と宗教の関係を問えば、これは統一教会にかぎったものでなくなりあらゆる宗教に関わりが出てくる。これまで左派およびリベラルは家族や家庭の在り方に国が介入する動きを警戒してきたはずだが、こと教会追及ではむしろ積極的に口出しをしている。

 家庭連合を信仰して「幸せだ」と言うCが、「もしも」と前置きして問題点を指摘した。もしも弟が親の信仰が気に入らず悩みが絶えないから献金などを返還しろと言い、これが通るとしたら親だけでなく私の意思も無視されたことになる。では、もしも弟の訴えだけで家族の献金を彼の口座に返金できるようになったらどうなるか。弟はお金を手にして満足かもしれないが、これが罷り通るなら両親だけでなく私の意思も無視して献金を公然と掠め取ることが可能になる。そもそも弟の申し立てで、国が両親と私の幸せに干渉してまやかしであると否定できるのか、と言うのだ。

 「世の中では、二世は一人っ子で想定されている。兄弟姉妹がいる家庭は多く、子供たち全てが親と対立するわけではない。被害者と名乗りをあげている二世も、問題を取り上げている人も複雑さを無視しているし、私たちの意思は何ひとつ認められないかのようだ」というCの見解をAに伝えると、次のような考えが語られた。

「二世が望む通りに救われないと訴えるのは見ていてつらいが、ヘタをすると法律の穴にパッチを当てようとして逆に穴を開けることになりかねない要求もある。家庭連合にかぎらず信仰や家族について、被害二世の望む通りにならない法律は、人権や家族を守るための法律なのだと思う」


二世救済ではなくイデオロギーの闘いだった

 Bは「救済を考えるのが悪いのではなく、家族問題が政治に利用されているのがおかしい」と言う。たしかに暗殺事件後第一回目の家庭連合の会見直後は二世の救済が重要課題とされたが、その後は政党や議員との関係に論点が移り「ずぶずぶ」なる俗語が流行するほどだった。またアイドルへの信者疑惑をカルト問題の専門家がほのめかしたたまま放置したできごとは、多くの信者や二世を当惑させ、当事者を置いてきぼりのまま進められた教会追及劇を象徴するできごとだった。

 以下の図は暗殺事件発生後の報道の流れと、報道の論調に伴い発生した人々の興味や関心を時系列で表したものだ。

暗殺、統一教会追及、国葬──記録と証言で振り返る80日間より


暗殺、統一教会追及、国葬──記録と証言で振り返る80日間より
暗殺、統一教会追及、国葬──記録と証言で振り返る80日間より

 政治と家庭連合の関係は、旧統一教会が国際勝共連合の流れを汲む宗教団体であることにはじまり、この点で自民党との関係が生じていた。国際勝共連合は、その名の通り「共産主義をこの地球上から完全に一掃する」のを目的に掲げる団体であるため、共産党、旧社会党とこれら政党の系譜に位置する政治勢力と反目しあうのは当然であった。

 サンデー毎日2022年11月6日号で、共産党の志位委員長は旧統一教会・現家庭連合との最終戦争に「今度は決着をつけるまでとことんやります」と発言している。志位氏が意気込みを語っていることから明らかなように、教会追及劇はイデオロギーの闘いだったのだ。

統一協会・野党共闘の行方・安保外交 『サンデー毎日』 田原総一朗氏と対談 志位委員長 縦横に語る より

 また純粋な政治闘争だけでなく「脱会ビジネス」との関係を指摘する者もいる。

 1966年に信者を拉致監禁し強制脱会を迫るできごとが発生している。その後、1992年の375件をピークに4300人から5000人の信者が拉致監禁、強制脱会させられ、家庭連合への民事裁判で原告化される流れがあった。この間の事情は米本和広著『我らの不快な隣人』に詳しい。

 テレビ番組で出演者の太田光が拉致監禁と強制脱会を問題視すると、彼はカルト問題の専門家から家庭連合の代弁者と位置付けられて激しく非難され発言権を奪われた。カルト問題の専門家が拉致監禁と強制脱会に関係しているうえに、共産党や旧社会党人脈とつながりを持ち、こうした主義主張に則って番組が制作されて教会が追及されていたから太田は吊し上げられたというのだ。

 このほか自民党内の安倍・清和会と岸田・宏池会の派閥抗争にも教会問題が利用されたとする証言がある。

 さまざまな疑惑が指摘通りではなかったとしても、太田光さえも吊し上げた教会追及劇の加熱と暴走ぶりは尋常ではなく、これは志位委員長発言にある通り最終戦争に決着をつける闘いであったのだ。二世救済は本質ではなく、二世問題が利用され翻弄されたのはまちがいない。ここに特定の二世が標本化され、他の多様な二世たちが無視された理由がある。

 マスメディアが取り上げる二世と、存在しないも同然の扱いを受けている他の二世・三世の関係から、原発事故によって発生した自主避難者がたどった不幸への道を連想せざるを得ない。反原発左派と原発存続に否定的なメディアは、原発事故を実際以上に大きく見せかけるため自主避難した人たちを被害者の標本として扱い、いっぽう避難しなかった人たちの存在を無視し続けた。自主避難者問題の解決にあたってきた筆者は、標本化されたがためにいつまでも期待されるまま被害者を演じ続ける避難者と、避難者を正当化するため風評加害を受け続ける避難しなかった人たち双方の悲劇を見てきた。同じ苦しみが、また繰り返されるだろう。


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