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今度、依存症の親をもつ子と話す

私の母親は、私が小学生の頃からアルコール依存症だった。
そんな私の葛藤の一部分を、以前に書いた。

高校3年の時に、「精神疾患」という社会的問題に触れ始めた。
大学1年の時に、「精神障害者家族」の社会的問題に触れ始めた。
大学2年の時に、「精神障害者の親を持つ子ども」の研究をしはじめた。
大学3年からは、「機能不全家族の中の子ども」の研究をしはじめた。

母親への嫌悪感が何からくるものなのか、それを知りたくて社会をメタ的に見るようになった。
問題の現象をマクロで認識することで、自分を理解していこうとした。

私”に近い”属性の傾向を知った。
その一つに自己憐憫とやらになるらしいことを知った。
自己憐憫はなんだか”いけないこと”のように感じた。

その、”いけないこと”の状態=「私だけにしか、私の辛さはわからない。かわいそうな子」とならないようにと迫られるように、
様々な、マイノリティと呼ばれる方の話を探し求めた。そうすることで、人生は「多様」なんだ。この社会は多様性なんだ。私なんてちっぽけな一人。
普通なんていない。みんなそれぞれで苦労をしている。

そう無意識の中で自分に言い聞かせ、ありふれた社会の一人であることを自分にインストールする。


そんな私は、ひょんなことから知り合いのこんな投稿を見つけた。
「私の父はギャンブル依存です。私は父が理解できずに、ダメな人だと思っていました。でも依存症は自己責任ではないことを知りました。」
と。家族会にも参加したらしい。

あまり、たくさんは自分の体験を面で語ってこなかったが、すぐさまその投稿にリプライした。
そして、今度話すこととなった。
あまり接点がない方だし、私もあまり進んで人と会ったり話したりしない性格だったが、話したい、が優先された。

どうしてだろう。
私の体験の属性についてはたくさん本を読んだり、研究を重ねてきて、理解してきたつもりだったのに。


・・・


それはきっと私”に近い”属性だったからかもしれない。
マイノリティと呼ばれる属性でも、絞り込めば絞り込むほど、その体験について共有されている話は少ない。
精神疾患の人が社会的に理解されないこと、そしてその家族も苦労を背負う話は調べればある。
アルコール依存症の家族の話も、ある。
アルコール依存症の親を持つ子どもの話も、ある。
でも多くの話は、父親がアルコール依存症の話だった。

父親がアルコール依存症の場合、DVや児童虐待を受けてきた、という話が多い傾向だと思う。父親が凶暴になって、母子を支配する、という。
ただ、私は違かった。母親が依存症だった。そして母親の立場は弱かった。罵ったり、手を出したりするのは、私の方だった。

いくら現象をシステムで見ろって言われたって、前者の話の方が多く共有されていたら、前者の場合は「仕方ないね」ってなるけど、私のケースは特別で、やっぱり普通じゃない、って感じる。
私はただの悪人なんじゃないかって。善で取り繕おうとした、中身はどす黒い人間なんじゃないかって。

そんな呪縛から逃れられない。
逃れたい。同じ感情を持つ人はいないのか…?
探し求めていたのかもしれない。

自己責任と思われやすい依存症。
さらに社会的に光が当たりにくいその子ども。
表面的には加害もしている子ども。

そんな風に属性が一致した方と今度お話しする。
呪縛から逃れられるだろうか。

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