【小短編】転んだ女と中年女とビーグル犬
よく晴れた日曜日、新緑輝く公園の歩道で、白いワンピースの若い女が、転んで擦りむいたストッキングの脚を抱えてうずくまっていた。
道行く誰もの目線が、一瞬、彼女の上を素通りして、さりげないカーブを描いて、スマートホンや景色にUターンしていく。
年老いてよたよた歩くビーグル犬を散歩させている中年女だけが、唯一、じっと彼女を見つめていた。
中年女は犬に引かれるままに歩き去ろうとしたが、意を決したように女に近づき、その場にしゃがみ込んだ。連れられていた老ビーグルも、どてっと尻を投げ出して、飼い主の隣に座った。
転んだ女は、地面に落ちたハンドバッグからこぼれ出たタオルやペットボトルに混ざった、中年女の気配と薄汚れたピンク色の運動靴を見ていた。
荷物の散らばる一点をじっと凝視して、女が顔を上げる気配はなかった。
やがて、少しだけ目を上げると、二人の間に座った老ビーグルを、憎悪を込めた物凄い眼で睨んだ。
老ビーグルは、べろりと自分の鼻先を舐めて、さっさと目を逸らした。
犬は、先ほどまで、この女が立っており、大声で男と喧嘩をしていたのを見ていた。その耳障りな怒声もさることながら、両名からは怒り狂い恨み呪う人間の、脂臭い体臭が漂っていた。
犬は、のんびりと行楽客の弁当の臭いに鼻を向けた。
そのうちに、女が派手に転び、男の方は、ディーゼルカーの真っ黒な煤煙の臭いとオーデコロンを空に棚引かせながら、駅の方へ足早に立ち去って行った。
転んだ女の背中からは、もう黒煙は消えていて、つい最近、飼い主が引っ越しをした時と、同じ匂いが漂っていた。
転んだ女は、散らばった荷物を乱暴にバッグに詰め込んだ。
中年女に聞こえよがしに大きく溜息を吐くと、ハンドバッグを掴んで、立ち上がろうとした。
その時、中年女が思い切ったように、声を上げた。
「あのね、犬って、忘れるのが得意なんですって。バカだから忘れるとか、そういうのじゃなくてね、速く走るとか、鼻がいいとかと同じで、忘れるって一つの立派な能力で、人間より優れているとこなんですって。」
顔を赤くしながら、焦って熱弁をふるう。動揺して振り回した手が、ぶつかった犬を抱き寄せて、犬の前足を握りしめ、指揮棒のように振り回し始める。
「最近、それって凄いなと思ったの。忘れるって、凄く高度な能力だと思うのよね。よく時間が解決するって言うけど、忘れたいことって、氷みたいに勝手に消えるんじゃなくて、山のような落ち葉を片付けるみたいに、時間をかけて自分で掃除していくじゃない。それをぱぱっとやっちゃうんだから、犬って、鼻も凄いけど、メンタルも凄いってことねぇ。だからこんなに、いつも楽しそうなのね。」
「そですか。」蚊の鳴くような声で女が相槌を打ちかけて、辞めた。
きっと顔を上げて、真正面から中年女を睨む。
「だから何。」暗く太い声を出した。「つか何なの。ほっといてよ。なんで話しかけてんのよ。空気読んでよ。あっち行ってよ。」
中年女を真正面から睨みつけて初めて、転んだ女は、相手が自分よりも号泣していることに気が付いて、ぎょっとした。
「さっきのは、あんたより、あっちの男が悪いと思ったのよ。だから、これは言わなきゃ、と思って。あんたは悪くない。悪くないよ。」
そう言い終わらぬうちに嗚咽を始めた中年女は、犬の背中に、涙と鼻水を押し隠すように擦り付けた。
ビーグル犬は、背中で飼い主の激情を受け止めながら、ふううっと長く訳知り顔の老人のような鼻息を吐いた。
そして、転んだ女の眼を見て、犬は重々しく頷いた。
転んだ女は、堪らずに吹き出した。
「あははは!犬の癖に。お偉いさんか。」
今度は、中年女がきょとんとした顔で、転んだ女の顔を眺めた。
転んだ女が笑い、中年女も笑い、老ビーグルは状況に飽き飽きして、散歩を催促して宙を足で掻いている。
立ち上がった女は、ハンカチを中年女に渡し、慇懃に礼を言った後、駅とは反対の方向へ向かって、歩き出した。(終)