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三浦春馬 舞台「罪と罰」~ラスコーリニコフ、美しき狂気

春馬くんの舞台「罪と罰」を先月WOWOWでついに観ることができた。
今まで地球ゴージャスと劇団 新感線の舞台は動画で鑑賞していたけれど、「罪と罰」は初めて観る春馬くんのストレートプレイだった。
舞台を観た後、頭の中で様々な想いが渦巻いてなかなかまとめきれず、1ヶ月近く経ち原作も読み終えたので、なんとか感想を書いてみることにした。

美しき狂気

舞台が始まってすぐ目にとまったのは、独特の舞台装置だ。
暗闇の中に何本かの蛍光灯の明かりが浮かび、舞台の真ん中には石段。群衆のざわめきと鐘の音、叫び声。キャストたちは街の人々になり動き回っている。
そこへ登場した春馬くん演じるラスコーリニコフは、ボロボロのコートに身を包み、痩せて頰もこけ無精髭の生えた蒼白な顔の中で、目だけが爛々と見開かれている。

ぼくは最後までやり遂げられるのか。
出来るだろう、そしてやるんだ。

選ばれし非凡な人間は、人類の救いとなるならば一線を踏み越え法を犯かしてもよい権利がある”という独自の理論を持つラスコーリニコフは、強欲な金貸しの老婆から金を奪い世のために役に立てようとする"一つの微細な罪悪は百の善行に償われる"という考えををついに実行する。
一瞬の猶予もならぬと何度も老婆へ振り下ろされた斧、血に染まった手、その残虐な行為はラスコーリニコフの中に潜む別の人格を覚醒させた。
しかし予想外の出来事が起こり、ラスコーリニコフは金貸しの老婆のみならずその妹までも殺めてしまうことになる。
動揺し幻覚に悩まされるようになったラスコーリニコフは次第に精神のバランスを崩してゆく。

春馬くんのその狂気に取り憑かれたような歪んだ表情や佇まいは鬼気迫るものがあり、メソッドからヘビの動きを取り入れたという演技は、不安と猜疑心に苛まれのたうち回るように苦しむラスコーリニコフを的確に表現していた。
ラスコーリニコフが呼び鈴を聞く度に神経を昂ぶらせ気絶する場面で、春馬くんは何度も躊躇なく背中からドーンと勢いよく倒れるので、観ていてハラハラするほどで、実際に舞台を観に行かれた方の話では、服を脱ぎ上半身裸になる場面では背中にこれは本当に痣なんじゃないかという跡もあったらしい。
それだけラスコーリニコフを演じる春馬くんの気迫と熱量は凄まじく、見る側の自分も録画は出来ない環境のため、3時間20分という舞台の一瞬も見逃すまいと集中し画面に釘付けになった。

汗と涙と鼻水で身体中の水分が全部吹き出してしまったんじゃないかというくらいびしょ濡れになって、舞台化粧も最後の方はすっかり流れ落ちてしまっても、ラスコーリニコフが憑依したような春馬くんは、怖いくらいに美しかった。

ドストエフスキー作品とロシア正教

私は舞台を観たあとに原作を読んだ。私が読んだのは工藤精一郎さんの翻訳で会話なども現代的で読みやすかったが、上下巻にも渡るボリュームは仕事の合間や夜に細切れに読むことしか出来ず、読み終えるまでだいぶ時間がかかった。
読み進めている間、登場人物の一人一人が自然と舞台のキャストの方々の姿となって頭の中に現れてくれたので、一人につき何通りもの呼び名がある名前でも誰のことなのか見分ける助けになった。
中でも主人公のラスコーリニコフの姿は春馬くんそのものだった。

原作を読み始めると、どうしてもキリスト教について考えないわけにはいかなかった。ドストエフスキーの文学には色濃くその宗教観が根ざしているという。

キリスト教というと子供のころ近所に住んでいたイギリス人宣教師一家を思い出す。布教活動の一環だったのだろう、その家では子供たちを集め聖書の読み聞かせや簡単な英会話を教える会が開かれていて、好奇心で何年か通っていたことがある。もう宣教師の顔も一緒に通っていた友達の名前さえも覚えていないのに、賛美歌を歌ったり主の祈りを唱えることは今でもできる。だからといってその後、信者になったわけでもなく、私のキリスト教との関わりはこの一時期だけだ。
ただしドストエフスキー作品でのキリスト教とは、ロシア正教(オルソドックス)という方が正しいだろう。
私が住む国ではプロテスタントのルター派が大多数だが、歴史的にも政治的にもロシアの影響は大きく、夫の祖母はロシア語も話しオルソドックスの信者で、私も何度か教会を訪れたことがある。
ロシア正教はカトリックやプロテスタントとは様々な点で異なる。
礼拝では祈りの言葉は歌にのせて唱えられ、聖歌などもオルガンなどの伴奏はなく全てアカペラで歌う。
祈る時の十字も右肩から左肩へ切るためカトリックとは逆だ。
舞台でも、ソーニャに促されラスコーリニコフが十字を切る場面では、ロシア正教に忠実に春馬くんもちゃんと右から左に切っていた。
玉ねぎのような形をした屋根やドーム型の天井に並ぶ天窓など、ロシア正教の教会建築も独特の美しさがある。イコンは像ではなく聖人を描いた聖像画が祀られている。
下の写真は、今からもう10年以上も前に訪れたロシア国境付近の小さな町に建つロシア正教の教会。

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ドストエフスキーとロシア正教の世界観については、ドストエフスキー作品の翻訳もされている安岡治子さん(父上は作家・安岡章太郎さん)のインタビューが参考になった。

そのインタビューの中で興味深かったのは、ロシア正教の中には瘋癲行者(ふうてんぎょうじゃ)という聖人がいるという。

西欧には、地位や富、家族を捨てて聖人になる人がいますが、瘋癲行者(ふうてんぎょうじゃ)は、さらに人間の証である知性までも捨てる、そして狂いを装うというよりある意味で完全にクレイジーになってしまう人たちです。
- 中略 -
瘋癲行者は、ボロを纏って放浪生活をし、奇行を重ねながらキリストの真理を明らかにする人たちなんですね。

その瘋癲行者ふうてんぎょうじゃの姿に春馬くん演じるラスコーリニコフを重ねずにはいられない。
狂気の淵を彷徨いながら、自分の中での真理を追求しようとするラスコーリニコフ。

舞台でも宗教的な印象深いシーンがいくつかあった。
私は無宗教だしキリスト教に特別詳しいわけでもないので間違った解釈もあるかもしれないけれど、調べたり考えたことの記録としてここに書き残しておこうと思う。

1)ラスコーリニコフがソーニャの部屋を初めて訪ねた時に、ひざまずき彼女の足に接吻をするが、これはキリスト教では贖罪の行為でもある。

<7:37>この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきて、
<7:38>後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
ルカによる福音書<7章37-38節>「罪の女」

この時ラスコーリニコフはソーニャへこう述べている。
「ぼくはきみに頭をさげたんじゃない、人類のすべての苦悩に頭を下げたんだ。」
「きみは罪深い女だという最大の理由は、いわれもなく自分を殺し、自分を売りわたしたことだ。」
「きみの内部には、こんなけがらわしさやいやらしさが、まるで正反対の数々の神聖な感情と、いったいどうしていっしょに宿っていられるのだ?」


2)ソーニャへ副音書の中の"ラザロの復活"を読んでほしいと請うラスコーリニコフ。

25:イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
26:また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
ヨハネによる副音書<11章25-26節>

イエスの存在そのものが信じる者への命となり復活となる。
ラスコーリニコフは一度死んでしまったラザロであり、ソーニャはラザロを甦らせたキリストとも言える。

家族を養うため娼婦に身を落としながらも深い信仰心を捨てないソーニャへ、ついにラスコーリニコフはそれまで誰にも打ち明けられずにいた自分の犯した罪を告白する。

いつまでも、どこまでも!あなたについて行くわ、どこへでも!
流刑地にだってあなたといっしょに行くわ!

抱きしめてくれるソーニャに、ぼくを見捨てないでくれとすがるラスコーリニコフは、一人で堪えきれない苦しみをソーニャにわかつために来た自分を、君はそんな卑劣な男を愛せるのか?と問う。

自分は選ばれし者ではなかったと思い知るラスコーリニコフに、苦しみを受けて自分の罪を償う、それが必要なのですと説くソーニャ。

糸杉の木で作られた自分の十字架を与え、一緒に十字架を背負いましょうとラスコーリニコフに告げる。


3)ラスト、シベリアに流刑され罪を償うラスコーリニコフを訪ねたソーニャが、持参したパンを千切りラスコーリニコフへ分け与える場面は、”聖餐の恵み”を表していたようだ。

まずイエスはパンを裂いて祝福し,次のように言われました。「取って食べなさい。これはあなたがたのために贖いとして与えるわたしの体を記念するものである。」
マタイ<26章26節>

パンはキリストの体を表し、パンが裂かれたのはイエスが十字架にかけられ死することにより、人々の罪を赦し救うために自身を分け与えるということを意味している。

無学だか純粋な信仰心を持つソーニャが、知識人だが信仰を持たないラスコーリニコフの罪をも含め全てを受け入れ、やがてラスコーリニコフを回心へと導いてゆく。
ちなみにラスコーリニコフとはロシア語で分離派教徒という意味を表し、人名には普通使われないらしい。

ソーニャの愛によって救われるラスコーリニコフ。
この愛とは男女の愛を超えたところにある慈愛だ。

終わりに

カーテンコールで舞台上に戻ってきた春馬くんは、心ここにあらずという感じで、まだラスコーリニコフが抜けきれていないような表情をしていた。
それほどまでに全身全霊で演じた舞台だったのだろう。

ラスコーリニコフを演じてもらいたいと思う俳優は、世界中どこを探しても春馬くんの他には考えられないと断言し、「地獄のオルフェウス」の演出家でもあった盟友フィリップ・ブリーンの、春馬くんへの追悼の言葉が忘れられない。

心の中を嵐が吹き荒れているようで、言葉が見つからない

舞台を見終えた後の私の心の中も、まさにそんな状態だった。

不思議な興奮と感動に包まれながらも、春馬くんの新しい舞台を観ることはもう二度と叶わないのだ…という、大きな喪失感に打ちのめされてしまった…。

三浦春馬は選ばれし者だった。これからの演劇界に必要な人だった。
世界に出て日本俳優の顔となる人だった。

この素晴らしい舞台を三浦春馬という俳優を後世にまで語り継ぐためにも、これまでの全ての舞台の円盤化を願わずにはいられない。



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森野 しゑに
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