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映画『ドライブ・マイ・カー』〜喪失と再生のロードムービー

私の住む国でも映画館で『ドライブ・マイ・カー』の上映が始まった。
だけど何度か見直したい作品だと思ったので、私は配信で鑑賞した。

冒頭、窓の外に広がる夜明けの空を背に、家福かふくの妻・おと(霧島れいかさん)は寝物語を家福(西島秀俊さん)に語る。その様子はまるでトランス状態にある巫女のようで、天から物語が降りてくるかのようだ。
しかし音は、翌日になると自分が話したことを覚えていなくて、今度は家福が昨夜の物語を語り直す。
この作品中で語られる物語は、村上春樹『女のいない男たち/シェエラザード』からの引用なのだが、違っていたのは原作にはない続きがあったことだ。
それは何かとても暗示的な結末だった。

仕事のフライトがキャンセルになり予定外に家に戻った家福は、音の情事を目撃してしまう。何も言わずにそっと家を出る家福。

音は家福を愛していなかったわけではない。
家福を愛していたことは疑いようがなかった。
左目に緑内障を患っていたのを知らずに事故を起こした家福の元に駆けつけると、思わず抱きつき、心から家福を失ってしまう事を恐れているようだった。
家福とは、幼い娘を亡くした痛みも共有していた。
それなのに何故、家福を裏切っていたのか。あるいはそんな意識もなかったのか。
どうしても家福だけでは埋められない、飢えを抱えていたのだろうか。
音は理解しがたいような側面を持つ、とてもミステリアスな女性だった。

話したい事がある、と言った音から逃げるように、嘘をついて出かけた家福が夜に帰宅すると、音は亡くなっていた。

家福は舞台俳優で、自ら演出し演じる舞台は多国籍の俳優が出演し、キャストはそれぞれ自分の母語でセリフを話す、という実験的とも言える演出をしている。
舞台上では互いに会話を交わす事が困難なようでいて、言葉に頼らない不思議な交流が起きている。
それは外国人として海外に暮らす自分も時折感じる事だけれど、言葉が通じなくても、相手の動きや声色、表情の変化を見て、感情を読み取れることは多々ある。
耳は聞こえるが口のきけない聴唖のキャストであるイ・ユナ(パク・ユリムさん)が手話で、"自分の言葉が伝わらないのは私にとって普通のことです。でも、見ることも聞くことも出来ます。時には言葉よりずっと沢山のことを理解できます"と語る場面は、とても象徴的だと思った。

いつも車の中で、音が吹き込んだ『ワーニャ伯父さん』の台本の朗読を聞く家福。
感情を含まない音の棒読みに合わせ、自分のセリフを声に出しながら、家福は音と対話し二人の輪郭をなぞっていたのだろうか。
音の声を繰り返し聞くことで、側に居た時よりも、より近くに音の存在を感じていたのかもしれない。

『ドライブ・マイ・カー』は、タイトル通り車に乗っているシーンがとても多く、この作品はロードムービーなんだと思った。ロードムービーには名作が多い気がする。
家福の愛車は古いSAABサーブ で、とても大切にしているので、運転手になったみさきにも車の中で煙草を吸わないよう申し渡す。
女性ドライバーの運転は落ち着かないと思っていた家福は、最初の頃みさきの運転でも後部座席に座っていたが、いつの間にか助手席に座るようになり、二人して煙草を持つ手だけ開けたサンルーフから外に出し、煙を逃しながら喫煙する場面は、禁を破った共犯者のようで、二人の間に信頼が芽生えているのが分かる。
SAABサーブは私の住む国では昔からとても普及していた車だったが、現在はもう存在しないメーカーだ。今も時々走っているのを見かけるが、レトロなカラーリングや角張ったフォルムがカッコいい、古き良き時代の車だと思う。
眉間に皺を寄せむっつり黙り込んでいるような家福には、赤いSAABサーブ 900はいささかお洒落過ぎるような気もするけど、原作通りの黄色いコンバーチブルのSAABサーブは開放的過ぎて、さらに家福のイメージとは合わない気もする。

劇中、広島からみさきの生まれ故郷のある北海道まで1日で行くという弾丸ツアー並みのエピソードがあったが、この古いSAABサーブで走っても大丈夫なんだろうかと思う程、それは長い距離だ。
車窓の外には延々と暗く単調な風景が続き、車ごとフェリーに乗り、上陸後も雪道をずっと走り続け、なかなか目的地に着かない。
考えを巡らせながら長い距離を運転していると、無の境地になることがあるのかもしれない。
ランナーズハイならぬドライバーズハイというのか、雑念や苦痛が薄れ、このままずっと何処までも走り続けていたい気持ちになるような。
みさきが寡黙に車を運転する姿にも、そんな雰囲気があった。
私は村上春樹の原作の方を先に読んでいたけれど、三浦透子さんは、みさきのイメージにぴたりと重なった。
演じる役柄によって三浦透子さんは全く印象が違っていて、同じ人だと気づかない事も多く、いつも素の彼女は全く表に出てこない。そんな所がちょっと春馬くんに似たタイプの役者さんだなと思う。
そしてシルキー・ヴォイスというのだろうか、声の温度が耳触り良く、一度聴いたら忘れられないような、彼女の歌声もとても素敵だ。

"僕は空っぽなんです。僕には何もないんです"と語る、岡田将生くん演じる高槻は、どこか得体の知れなさを秘めていた。
音は浮気相手の一人だったと思われる高槻にも、同じ寝物語を語っていた。しかも家福の知らない続きまでも語っていたのだ。
"他人の心をそっくり覗き込むなんて無理です。本当に他人を見たいと思うなら、自分自身を深く真っ直ぐ見つめるしかないんです"
家福と車の中で会話しながら、諦念とも取れる言葉と暗く濡れたような瞳が印象的だった。
心の動きが読めない高槻を演じた岡田くんは、ドラマ『昭和元禄落語心中』で演じた落語家・有楽亭八雲とはまた種類の異なる、静かな狂気を感じさせた。

音がこれまで何人もの相手と浮気していた事を、家福は知っていた。
しかし家福はずっと自分の感情を抑え込み、音の本心を聞くことからも逃げてきた。
みさきと北海道までドライブし、お互いの身の上に起こった事を話し、聞くことでやっと、自分に向き合い、みさきもずっと内に溜め込んでいた母への想いを外へ出すことが出来た。

"僕は、正しく傷つくべきだった。本当をやり過ごしてしまった"

"僕は音に会いたい。会ったら怒鳴りつけたい。責め立てたい。
僕に嘘をつき続けたこと。
謝りたい。僕が耳を傾けなかったこと。僕が強くなかったこと"

"帰って来てほしい。生きてほしい。もう一度だけ話がしたい。
音に会いたい。でも、もう遅い。取り返しがつかないんだ。
どうしようもない"

音への想いを初めて溢れさせた家福の言葉が、胸を打つ。

人は傷つき悲しい時は、泣いて叫んで、のたうち回り、心の内を全部吐き出して、悲しみに浸りきらないと前に進めないのかもしれない。

"生き残った者は、死んだ者のことを考え続ける。
どんな形であれ。それがずっと続く。
僕や君は、そうやって生きていかなくちゃいけない"

みさきと互いを抱きしめ合いながら、噛みしめるようにそう語る家福の言葉が、自分へ向けて言われているようで、いつの間にか涙が流れていた。

私たちも、喪失を抱えながら日々を送っているのだ。


"仕方ないの、生きていく他ないの。
ワーニャ伯父さん、生きて行きましょう。
長い長い日々と、長い夜を生き抜きましょう"

劇中劇である『ワーニャ叔父さん』での、手話で語るソーニャのセリフが心に沁みた。


そうだ。
生き残った者は、
長いようで短い人生を終えるまで、
どうにか生き抜かなければならないのだ。

"大丈夫。僕たちはきっと、大丈夫だ"

家福の言葉を、私もそっと自分に言い聞かせた。






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