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僧侶は世間知らず?(6)まとめ

(1)~(5)のまとめ

これまで5回にわたって「僧侶は世間知らず?」というテーマで,日頃僧侶の間でよく用いられる「常識」「苦労」「世間」について私の考えていることを申し上げて参りました。今回の(6)ではそのまとめならびに,第1回から書いている中で気がついたことを付け足して「僧侶は世間知らず?」をいったん閉じさせていただきたいと思います。

「常識」「苦労」「世間」の定義


・僧侶に求められる常識
①金銭感覚,②人とかかわるときの態度
・僧侶に求められる(?)苦労
多くの場合,仏教やお寺以外での苦労を指す。苦労が必ずしもプラスに作用するとは限らない。他者に要求するものではない
・世間とは?
誰を「世間知らず」とみなすかによって世間の範囲は変わる

さっそくですが,苦労のところで申し上げました「多くの場合,仏教やお寺以外の苦労を指す」について補足をいたしたいと思います。

お寺はぬるま湯?


どうやら,自分の所属しているお寺(自坊,じぼう)でどんなにつらい目に遭ったとしても,「苦労」とは認定されないようです。自坊はそんなにぬるま湯で楽なところなのでしょうか?それなら,なぜどのご寺院も後継者問題に頭を悩ませておられるのでしょうか?「坊主丸儲け!」という批判にも通じるところですが,そんなに楽な生き方ならみんな僧侶になりたがるのではないでしょうか?寺院の中には多くの問題が山積しています。改善すべき点はいくつもありますし,他の分野と同様,さまざまなハラスメントの問題を抱えています。また別のnoteで改めて申し上げたいと思います。

「自坊では何も得られるものはないから,ほかの会社で研鑽を積む!」ということでしょうか。学校の先生にも民間企業での経験を求める方がいらっしゃいます。もし,僧侶や教師にふさわしくない人間が数多く存在しているのなら,安易に民間企業に丸投げするのではなく,養成システムを見直すべきではないでしょうか?会社は経験を積ませてくれる学校ではありません。箔をつけるためだけに就職されても,他の方の迷惑になると思います。

そんなに民間企業で働いた経験が大切なら,僧籍をいただくときに「職歴証明書」の提出を義務付けてはどうでしょうか?民間企業で勤務経験のある僧侶が増え,やがて100%になるでしょう(このルールが採用されれば,高校生や大学生は入所できなくなります)。しかし,100%になったらなったで,「本山や別院はお寺なのだから,会社とはいえない」「あの仕事はだめ」などと,今度は何の仕事をしていたかで区別し始めるのではないでしょうか?僧籍をいただいても,偉くなったり立派になったりすることは決してありません。誰かとの間に違いを見つけては,「あいつはなんてだめなやつなんだ」「自分はあの人に比べれば大丈夫」と差をつけて安心したがっているのが私たちの姿ではないでしょうか?

なお,苦労しても何も得られない,民間企業を過度にありがたがらないということは先に申し上げた通りです。

「常識」を身につけるために

①金銭感覚を身につける
・門信徒の方と同じか,それより安いものを購入し,使うように心がける
・お金は使わない方がよいというのは間違い。地域経済が衰退する。地元商店を利用する
・お布施はお寺,仏法が続いてほしいという願いで包まれたものだということを忘れない

②人とかかわるときの態度を身につける
・常にみられている,仏様の前では誰もが平等であるという意識を持つ
・仏様からみて恥ずかしくない行動ができているか,自己点検を欠かさない

苦労すると何が得られるか

・だれもがすでに大なり小なり苦労している。人に認めてもらわなくてよい
・苦労は必要ない。しなければならないのは努力
・苦労しても何も得られない。マイナスの方が大きい。だからこそ苦労した人は「意味があった」と自分に言い聞かせる


「世間を知る」とはどういうことか

・「世間」というのは多くの場合民間企業を指す
・世の中は広すぎる。世間をすべて知ることなどできない
・わからないことは正直に「わからない」と言う
・僧侶に求められる「世間を知る」とは,世の中で苦しんでいる,厳しい立場におかれている人の問題に関心を持ち,声をあげていくこと
・僧侶が知っておきたい社会問題
①貧困格差の問題
②非正規雇用の問題

・弱者を切り捨てる社会はいつか破綻する
・社会貢献は,お釈迦様が明らかにされた「縁起」をよりどころとした生き方のひとつ 
・僧侶の本分は確実に守る

ここで,僧侶の社会貢献について補足をさせていただきたいと思います。

仏教を都合よく利用しない

前回の(5)では,お釈迦様が明らかにされた「縁起」という真理をご紹介いたしました。縁起とは「世の中のすべてのものごとは,お互いに関係しあって成り立っている。独立不変のものはひとつもない」という真理のことです。

自分の好きな人,嫌いな人,会ったことのない知らない人にも,直接はわからないけれども大きく支えられている,誰かを排除する社会はやがて自分に跳ね返ってくる,この世の誰もが代わりのいない尊い存在である…だから苦しい立場におかれている人々の問題に関心を持ち,声をあげていくことが大切だ,と前回書かせていただきました。

ここで間違ってはならないのが,「お釈迦様の教え(仏教)があって私の思いや考えが作られている」ということです。反対に「私の主義主張が仏教に影響を与えている」「自分の考えを補強するために仏教を持ち出す」ことは,お釈迦様や先人の方が残してくださった教えをゆがめることにつながりかねません。自分の都合のいいようにお聖教を解釈するようになるからです。順番を勘違いしてはいけないということです。

本願寺派では,戦後「戦時教学」が問題になりました。第二次世界大戦中,「戦争で死ねば,かならず極楽浄土に生まれることができる」という布教が行われ,多くの軍人の方が戦地に出征していきました。「戦争で死ぬ」ことは「お浄土に生まれて仏になる」ことと全く関係ありません。大切なのはご信心です。また,日本では,天皇陛下は「神様」であると考えられていました。親鸞聖人のご生涯が示された「御伝鈔」にも,戦時中「神様(天皇陛下)に失礼である」として拝読が禁止された箇所がありました。その時代の人間の都合で教えをゆがめてしまった,という歴史を本願寺教団は抱えています。

もしかしたら「私は仏教者として社会貢献活動に参加する」という言い方はしない方がいいのかもしれません。仏教者でなくても,たとえ理由がなかったとしても,したいと思えば誰にでも参加する権利があると思うからです。どんな肩書きであろうと,尊い行いであることに変わりはありません。「お釈迦様の明らかにされた…」という理屈は,頭の隅にしまっておいた方が無難かもしれません。私たちのするよい行いはどこまでも不完全です。「のちのち,自分も得をするかもしれない」という期待が頭をよぎることもあります。100%他者のために行動できる人間がどれぐらいいるでしょうか?しかし,完璧な善でなければ実行してはならない,というわけではないと私は考えます。「やらない善より,やる偽善」です。

おわりに

「僧侶は世間知らず?」について,長々と書かせていただきました。多くの方の閲覧,またスキをいただきまして誠にありがとうございます。noteを書く中で,「世間知らず」という言葉の背景にはさまざまなメッセージが隠れていることに気づかされました。

僧侶は,特にひとりで法務をしているような場合,他の誰かから注意される機会が少ない立場にあると考えられます。周りの方に指摘される前に,自分でわが身を振り返り,自己点検と勉学布教を怠らないようにして参りたいと存じます。

最後までお読みいただき,ありがとうございました。

合掌


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