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僧侶は世間知らず?(2)常識を身につけるために

前回の続き

前回の記事では,「僧侶は世間知らずだ」という声があがっていること,僧侶にはしばしば「常識」「苦労」「世間を知る」ことが求められるということを書かせていただきました。そして,「常識」「苦労」「世間」が一体どのようなものかを改めて明確にし,私なりの定義を申し上げました。

・僧侶に求められる常識
①金銭感覚,②人とかかわるときの態度
・僧侶に求められる(?)苦労
多くの場合,仏教やお寺以外での苦労を指す。苦労が必ずしもプラスに作用するとは限らない。他者に要求するものではない
・世間とは?
誰を「世間知らず」とみなすかによって世間の範囲は変わる

今回のnoteでは,常識を身につけるためにはどうすればよいか,私の今考えていることをお話したいと思います(世間を知る,苦労することについては,次の記事で申し上げたいと思います)。

常識①適切な金銭感覚を身につける

僧侶の経済状況は,それぞれの所属のご寺院によって大きく異なりますが,「ご門徒の方と比較して,飛びぬけて豊かな暮らしをしている」のは望ましい状態とはいえません(そんなお寺が,今どきたくさん存在しているとは思えません…)。「私たちの寄付は,いったい何に使われているのだろうか…」と思われても仕方ないと思います。

しかし,地域経済という観点から考えると,清く貧しい生活をする人ばかりではお店はどんどんやせ細っていきます。お坊さんというと,「清貧で,つつましい暮らしをしている」というイメージをお持ちの方もいらっしゃると思います。質素に暮らしていれば「あそこの坊さんは外車に乗って…」などという苦情は来ないでしょう。とはいえ,経済的に余裕がないわけではないのに,極端にお金を使わないあり方は推奨できません。

ご門徒の方の中には,自分のお店を持ちお商売をしておられる方もいらっしゃることと思います。地元商店に行って経済を回すことも大切なことです。楽○市場やア○ゾンばかりを利用するのは,私はよいこととは思いません。「ご門徒の方と同じぐらい,その地域の平均的な暮らし方」をしていれば,「金銭感覚がおかしい」状態にはあたらないと考えます。「ご門徒さんといっしょか,それより安いものを使うのがよい」と指導される方もいらっしゃるようです。どこの店で買ったのかわからないようなものを使っているから,無駄遣いやぜいたくを疑われるのだと思います。地元商店で買い物すれば,地域の方と同じお店を利用しているわけですから,極端なずれが生じることはないと考えられます。

僧侶はプロフェッショナルである

法要儀式におけるお布施を単純に時給換算して問題視する方がいらっしゃいますが,お布施は「お経代」ではありません。仏法やお寺がこれからも続いていってほしい,という願いで包まれたものです。

私はサッカーのJリーグが好きで,試合のある日はほとんど必ずテレビで観戦しております。Jリーグのリーグ戦は,多くの場合週一回,金土日の週末に行われます。「じゃあ,サッカー選手は週末以外は暇しているのか」というとそうではありません。試合の次の日はオフだったとしても,それ以外の日は試合で勝つために,さらなる体力や技術,連携の向上を目指してトレーニングを行っています。試合だけでなく,練習はJリーガーの重要な仕事のひとつです。

朝夕のおつとめをする,境内の掃除をする,お花を立てる,お聖教や解説書を読み,教学の理解を深める,声明や法話,字の練習をする…などなど,兼業寺院か専業寺院かにかかわらず,法要儀式以外にも僧侶のするべきことはたくさんあります。逆に言えば,こうしたことがおろそかな状態で人前に出て法務をするべきではありません。練習していないのに試合に出るのと同じだからです。

私は,僧侶もJリーガーと同じプロフェッショナルだと考えています。Jリーガーがプロサッカー選手なら,僧侶は仏教のプロフェッショナルです。プロだからすごい,立派というのも間違いではありませんが,プロにはそれ相応の責任が発生します。プロであれば当たり前のことを確実に行わなければなりません。僧侶として当たり前に行わなければならない,勉学布教や研鑽を,門信徒の方がお布施という形で応援してくださっていると私は考えています。

常識②人とかかわるときの態度を身につける

先ほどのプロの話と矛盾しているかもしれませんが,お坊さんはちっとも偉くありませんし立派でもありません。ご本山や別院に勤めていれば出世したり,いろいろな役職についたりするのでしょうが,一般寺院に昇進やポストといったことはほとんど無縁といっていいでしょう。なにより,阿弥陀様の前では誰もが平等です。浄土真宗は,一握りの選ばれた超エリートのための教えではありません。他者より優れている,競争に勝つということはお浄土に生まれ,仏にならせていただくことに何の関係もありません。偉そうにしていることがいかに無意味であるかわかります。勉学布教,研鑽を続けて,昨日の自分と比べてどう変わったかということの方が大事ではないでしょうか。

お参りにうかがうと,朝早くからエアコンをつけ,涼しくして待ってくださっている方がいらっしゃいます。お茶をご用意してくださることもあります。これは,仏様の前,儀礼の場だからそうしているのであって僧侶が立派だからということでは決してありません。「私は敬われているんだ」と勘違いするのは論外ですが,「私は同じことが周りの方にできているだろうか」と振り返ることが大切と思います。

人の見ていないところだと適当に,いいかげんになってしまうのが今の私のあり方です。「だれかに見られている」意識を持つことが必要ではないでしょうか?門信徒の方,地域の方はもちろん,阿弥陀様はずっと見ておられます。阿弥陀様にほめられたり,叱られたりすることはありませんが,何も言われないのも恐ろしいものです。「私が注意しなくても,自分で気づいてくださいね」ということでしょうか。優しいようで,厳しい仏様だと感じます。そういえば,最近は「お天道様がみている」とか,「ばちがあたる」といった言葉を聞かなくなったように思います。いつから人間はそんなに偉くなったのでしょうか?

まとめ

①金銭感覚を身につける
・門信徒の方と同じか,それより安いものを購入し,使うように心がける
・お金は使わない方がよいというのは間違い。地域経済が衰退する。地元商店を利用する
・お布施はお寺,仏法が続いてほしいという願いで包まれたものだということを忘れない
②人とかかわるときの態度を身につける
・常にみられている,仏様の前では誰もが平等であるという意識を持つ
・仏様からみて恥ずかしくない行動ができているか,自己点検を欠かさない

長くなってしまいました。次回の(3)では「世間を知る」「苦労する」ことを達成するにはどうすればよいか,思っていることを申し上げたいと思います。最後までお読みいただき,ありがとうございました。

合掌

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