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《相談する》という、愚。

 プロフィールとも被るが、私は今年(2021)で58歳になる、発達障害で高齢ひきこもりの当事者である。
 もちろん、こうなる前に、既に様々な《しかるべきところ》に相談してきた。

 今から46年前に、中学入学と同時にいじめに遭ったときにも、しかるべきところに相談した。
 43年前(だったかな)に、高校で、今でいう不登校になったときにも、しかるべきところに相談した。
 今から32年前には、今でいう大人のひきこもりの件でも、しかるべきところに相談した。
 ちなみに、「今でいう」とわざわざ書いているのは、相談した当時はまだ、「不登校」「ひきこもり」といった用語は存在しなかったからである。

 で、相談相手である《しかるべき機関》の中の人は、そうした私の声に対して、
「いじめられたら、数を数えればいい」
「いじめられる側に問題があるのだから、その問題を直せばいい」
「あなたは自閉症ではないでしょう」
「自閉症は親の育て方に問題があるのですよね」
 という“定型句”を返すだけだった。
 また彼らは、喧嘩腰で相談者を攻撃してみたりとか、あるいは、相談内容を勝手に剽窃して、彼らの発行物で俎(まな)板に載せたりもした。
 そして、挙句の果てに、彼らはあたかも申し合わせたかのように、必ず、「手に負えない」と言う。

 少なくとも、いずれの《しかるべき機関》も、私自身の救済にはなってないし、かといって、具体的支援に繋がるわけでもない。
 むしろ彼らは相談内容を食い物にして、彼ら自身の食い扶持にしているようだった。
 まさに、生き血を啜る人達である。
(そうした、《しかるべき機関》がどういう人たちか、ということや、どのように私が相談の場を探してきたかということについては、一連の手記で詳しく書いたから、ここでは割愛する。)
 いずれの場合も、少なくとも相談する側にとっては、心理的ダメージの残る相談ばかりだった。
 それゆえ、相談することのデメリットについて論ずることがあってもいいのではないかと思う。

 大人のひきこもりを長年取材している筈のある有名ジャーナリストは、私のような高齢ひきこもりについて、無責任にも、「どうして相談しなかったのか」と書くが、そのように言う人には、相談することによって生じる弊害についても目を向けて欲しいと思う。
(相談の弊害に関する詳しいことについては、昨年2月刊の拙著『自閉女(ジヘジョ)の冒険――モンスター支援者たちとの遭遇と別れ』のⅠ章とⅡ章に詳しく書いた。)

 後からでなら何とでも言えるのだが:
「いじめ問題」について、少なくとも当時にあって、まだ世の中にあまり・ほとんど知られていない状態で支援者や専門家に相談しても、彼らはとんちんかんな対応しかできず、お手上げだということ。
 また、後の時代に「不登校」と呼ばれるようになるものについて、世の中にほとんど・全く知られていない状態で彼ら支援者たちに相談しても、やはり彼らはとんちんかんで、お手上げな対応しかできなかったということ。
 同様のことは、不登校の投薬治療のことや、今でいう大人のひきこもりのことや、高齢ひきこもりの親亡き後の問題についても言える。

 例えばそういった、いわば前例のない・僅少な事例について相談するということは、支援者たちを当惑させ、悩ませ、怒らせるだけに過ぎないということ。
(前例がないなら、自分の頭で考えることはできないのかとも思うのだが、どうやら彼らの大半は、教科書通りの対応しかできないものらしい。)
 冷静になって考えれば自明なのだが、《前例のないこと》をいくら相談しても、答えが得られることはないのである。
 だがそこは、相談者は心の焦りと苦しみから抜け出したい一心で、藁をも掴む思いで支援者や専門家に相談するのだが、実はそれがワナなのである。
 それは時間と労力を無駄にすることであり、支援者とトラブルになって嫌われて敵を作ることでもあるからだ。

 少なくとも私の知る限り・経験した限りでは、高齢ひきこもりを取り巻く一番の問題は、その若いときからこの今日に至るまで、ずっと、相談の場に恵まれなかった(あっても酷いところしかなかった)ということなのである。
 私は、今から約半世紀前から、自主的に自分の意志で、《しかるべき機関》に相談し続けてきたものの、振り返るに、若いときの時間と労力をなんと無駄にしてしまったのだろうかと後悔する。
 そんな不毛なことをしている暇と労力があるなら、孤独でいることを生かして、もっとクリエイティヴで楽しいことにそれを用いるべきだったと猛省する次第である。

 思うに、《障害者の社会参加》などという、世の中の崇高なスローガンにたぶらかされて、自分にできないこと、無理なことを自分に強いて、社会人になろう、この世の敷いたレールに自分を合わせようと、精一杯努力していた。
 が、もし最初から、《自分の好きなこと・得意なこと》を自分の道として選んでいたならば、そんな不毛な相談に頼ることはなかったと思う。
 どうか若い人には、私と同じ轍を踏まないでほしい。

 過去にいろいろなところに相談してみて、わかったことがある。
「誰もわかってくれない」というのは、若い人の口癖でもある常套句?でもあるが、現実は、“わかってくれる人”ほど、(相談者の弱みを握っている分)悪質なのである。例えば、相談者が過去でのいじめのトラウマに苦しんでいることを支援者側が知っているからこそ、支援者はその相談者に、「あなたがいじめられたのは、あなたがいつもそんなふうだからなのではないですか?」と言って、一撃を加えることもできるのである。

 また、わかってもらうための努力も無駄である。
「あなたのことは良くわかったから余所に行ってください」(by某有名不登校支援団体の代表者)と言われるだけだからである。

 ちなみにこれは経験則だが、「あなたのことはわかった、わかった」と言ってくる人とに限って、この今日に至るまで、なぜかうまく行った試しがない(理由は不明)。

 そういうわけで、理解が必ずしも支援に繋がるとは限らない。
 もし“わかってくれる人”がいたとしても、ゆめゆめ安心してはいけない。
(理解者が攻撃者になる事例については、上記『自閉女(ジヘジョ)の冒険』のⅠ章、Ⅱ章や、Ⅲ章のpp.140-144、pp.172-182、pp.203-204に書いた。)

 とくに今は、昔と違って、自分の頭で考えるための情報やヒントがネットにたくさん転がっているのだから、ある程度・かなりの程度、人に相談しないでやっていける場合も多いのではないかと思うがどうだろう。

(2021.6.30, 7.16, 7.22加筆)

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