対話が怖かった

人のことを知るということ。
自分のことを知ってもらうということ。

私は、自分を知られることがこわい

だって、こんな私なんて嫌われちゃうでしょっておもったから

見下されちゃうんだろうなっておもったから

見下されることもこわい
この人は私がいてもいなくてもいいんだって、いつか見捨てられるかもって
おもうから

大切な人をもつということは
失うときの悲しみの予約もすること

そう思っていた。

だから、自分を見せなかった。
そうしたら、色んな人の“自分”も見せてもらえなくなって

自分の一人称視点から見える自分しか分からなくなって、自分の心が分からなくなった

人のきもちも、想像がつかなくなって
偏った解釈や受け取り方をしてしまうようになった


でも、そんな自分に、気づいた。
ここからだよ、大丈夫。

思ったこと、言ってもいい。
それが別に綺麗じゃなくたって、
自分の中に匿っておく必要は無いよ

恥ずかしくなんてないよ
いや、恥ずかしいかもしれない。でも
恥ずかしくても周りは意外と気にしてないし死にはしないよ

最近、自分の考えや気持ちを
意識してはきだすようにしている。

今まで、言うまでもないくだらないことだとか、こんなこと言うもんじゃないとか思っていたことも、少し勇気を出して言ってみたりした。

そしたら、意外と誰も気にしていないんだな、とか、自分だけかと思っていたけど同じように思ってたんだな、とか、言ってもどうにもならないと思っていたけど、言ってみるもんだなとか。

色んな気づきがあった。

これまでの自分も悪ではない。
今の自分を生きづらく歪ませているのもこれまでの自分なのだけれど。

けどきっと、その時々の最善を尽くしている
私が私を守るために歪ませた

今までありがとう
これからは私が頑張るから
もう頑張らなくていいよ
おつかれさま









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