不登校、通信制高校を経て生きづらさから解放されつつある
人は不完全な生物だということがやっと腑に落ちました。
不登校時代なんて無いならない方がいいし当時はほんと絶望で死ぬしかないって思ってた。
けど、今はあんな時間も私の人生にきっと必要だったんだなと思える。
小学校高学年くらいからそれまで大して気にしていなかったこと、気にできていなかったことや他人と自分との違いを意識するようになるとそれまでの友達と全然合わなくなった。思春期というやつだ。
合わなくなった、というより自分の許容範囲がとても狭くなったの方が正しいかもしれない。
この頃から不思議ちゃんだね!とか変わってるねって言われるのが怖くてダメなことなんだって思って、“普通に見えるように”を心がけて過ごすようになって、生きづらさを感じて、体力、気力の消耗が激しいので人との関わりを避けていった。
“普通”に囚われて自分含め人の行動や言動にいちいちストレスを感じるようになった。
小学、中学の時色々、頑張らなくても意外と色々出来てしまう子だった。iQが遺伝的に高い。
でもだからといってそれが賢さに繋がるかはまた別だと思う。現に私は賢く無い。
頑張らなくてもそこそこできちゃうから努力も挫折も知らなかった。
iQ自体は高くてもギフテッドレベルで振り切っている訳では無いのでなにかの突出した才能があるとかじゃなくて、ただ少し周りと合わない、浮く、それだけだった。
そういう点では発達の凸凹なのかもしれない。
私だけ変って思ってたけど意外とそういう人っていっぱいいるし、珍しくもなければ孤独でもない。
でもわたしがおもしろいと思っても誰もそうだねって言ってくれなかった。
そんなこと考えてどうすんの?って
変わってるとか変だとかつまんないとかなんで?とかばかり言われた。
何かを頑張ってやればそれが気に食わない人に嫌な事された。
小中学生なんて子どもだし、分からないことがあるのも知らないことがいっぱいなのも間違えるのも、当たり前だし全然良いのにそれらを経て覚えていくものなのに
どうするのが一番いいか、最適解がなんとなく分かってしまうけど能力が追いつかないから出来なくて、それが「こうするべきなのに出来てない自分は駄目だ」っていう思考になっていった。
頭でっかちみたいな。考えることはできるけど経験が伴って無いからこうしたい、こうするべきなのに出来ない…ってもどかしさ。その当時は思考と経験のアンバランスさなんて気づいて無いし。
でも当時考えてた“こうするべき”っていや、そこまで出来なくていいよってことだった。
むしろ小学生でその“こうするべき”が出来てたら怖いというかお前社会人かよっていう感じ。
でもみんなこうだって思ってたから、みんなは出来てるのに(私みたいな苦悩をしているようにみえなかった)なんで自分はできないんだろう?って思ってた。
もっとちゃんとしなきゃいけないと思っていた。この思い込みが私の苦しみの原点に近い。
分からないことがあって大人に何か聞きたいときとかに、言語化があまり出来なくてどう聞いたらいいか分からないことがあった。
別に、全部分からないなら全部分からないと言えばいいし、何が分からないか分からないならそう言えばいい。
それが許される時期にそうしなかった。
その経験で色々覚えていくものだというのに
自分の中の“こうすべき”を遂行するために子どもな自分を閉じ込めていた。
大人は忙しいから、私が質問でグダグダしていて時間をとらせてしまうのは申し訳ない。
だから聞きたいことを明確にしてあまり忙しくなさそうな時を見計らって聞こう!みたいなことを小学生の時考えていた。
でもそんな実力は無くて、いつ聞いたらいいんだろう?私が聞きたいのってなんなんだろう?先生の時間を奪ってしまうな、とかそんなことばかり考えて結局、“私分からなくて困ってます”ってことすら伝えられないことも多かった。
子供のうちはまだ分からなくて当たり前なのに、年齢に関わらず人間は不完全な生物だから分からないことや至らない点があっても当たり前なのに、“ちゃんとしていなきゃいけない”とか“こういう自分でいなきゃいけない”とか自分に課す理想や基準が高かった。
それは自分はまあこのくらい出来たらおっけー!って決められた基準じゃなくて、こうするのが一番いいよね!っていう最適解の基準だった。
そんなのできるはずもなく、でもそうするのが一番良いのになんでできないの?って疑問に感じていた。
それに自分に課している基準が高かったから、“こんなのは駄目”っていう最低基準も自分で勝手に作ってしまっていた。
だから失敗するのが怖くて、嫌われるのが怖くて、色んなことを回避するようになった。
思春期以前色々やりたい!っていう好奇心でやっていたことも、でしゃばんなよ自分、、って抑制した。話したり、発表したり、やります!って立候補したりすると人からの視線も怖くなるし、やればやるだけ失敗する数の母数も大きくなると思った。
だから何もやらない。変って思われたくないから喋らない。って、自分をずっと偽り続けたらガチで病んだ。
自傷行為をしないと気が狂いそうになって、眠れなくなって、食べられなくなって、ずっと現実味がなくて、まともに会話が出来なくなって、目眩が起きているあいだ中おさまらなくなった。
吐けないのにおさまることのない吐き気と泣いている感覚なくとめどなく流れ続ける涙と自責と自傷で増えていく傷とでもう何も分からなくて狂ってしまえたらどれほど良いかと、自我と精神が崩壊しますように。もう目覚めませんように。と結構本気で祈っていた
でも、こんな状態になっても、“普通”でいなきゃいけない、不登校にはなりたくないし親が許すわけもない、なんでみんなは出来てるのに私は、って焦燥ばかりで正常な判断も出来ず明らかに大丈夫では無いのに、「大丈夫です、!」ってへらへらしていた。
そんな不登校時代(中3)と通信制高校の今までの2年間合わせて3年間くらい休養して少し自分を見つめ直す時間をとれた。
しぬほど辛かったけどあぁ、この時期のおかげでこれから生きていけるって思う。
別に生きなきゃいけないわけじゃないけどそこまで苦しくないから死に急ぐ必要ないなと思える。
今になってやっと、人間は不完全な生物だと時間をかけて腑に落ちた。
これからは妥協を覚えていこうと思う。
こうするのが一番いいのにな〜…っていう考えが過ぎっても自分の出来る範囲で、自分が苦しくならない範囲で最善を尽くせばいい。
こうするべきなのにできない なんて考えは手放す。
あとは他人を見てなんでこうしないの?なんでそんなことするの?と思っても、まあでも、そういう人もいるか!と思うことにする。
自分もそう思われているかもしれない、お互い様だ。私と他人は違う個体だから、慮ることや、共感することは出来ても、全く同じように感じたり考えたりすることはできない。
これを前提にコミュニケーションをとりたいようにとれば気が楽かもしれない。
なんかさ、みんな生きづらいよね。
生きるのって苦しいしめんどくさいし悩みもあるよね。
でもなんか、それでいいんだって思う。
「ありのままの自分でいい」なんて綺麗事だと思ってたけど、「ありのままの自分でいいなんて綺麗事だ」って思う方が綺麗事だって気づいた。
綺麗事じゃなくて、妥協なんだって。
ありのままの自分でいいわけが無いって、理想を追い求めるがあまりそう思ってしまうんだと思うんだ。完璧主義とか。
理想の自分で居ようとすることはとても素敵で美しくてかっこいいことだけど、それで苦しむのは元も子もないと思った。
わたしはわたしのまま生きる。
八方美人は続けられない、嫌われても大丈夫。
誰かも分からない“だれか”のために自分を押し殺さない。
私を嫌うか好くかは相手が決めることで私は決められない。
人は不完全な生物である。
こう自分に言い聞かせてみる
後悔と自戒とぼんやりした希望
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