分かると出来るは違うんだなァ...
最近は、もっと狡く賢く生きたいと思う。
自分の正義や美学にしたがって生きることがこんなに苦しいなんて、なんだかとても損な生き方をしているようで。
伝わらない気遣いは意味が無いのかもしれなかったり、謙遜し過ぎるのは寧ろ嫌味であったり。
出来ているのに自信無さげにするよりも、出来ていなくても自信を持って居た方がいいなんて、わからない
わたしは小さなコミュニティで排斥されない為に、赤の他人に嫌われないためだけに自分を抑圧していただろうか?
わたしは、自分の欠点を隠すために逆に不自然に反転させてしまうようなところがあると自覚している。
感情が顔に出やすいのがコンプレックスだからそうならない為に意識しすぎて無表情になってしまっていたり、喋り過ぎてしまうことやその内容で誰かを不快にさせてしまうことが怖くて無口になってしまったりする。
分かっていても、何年も無意識に続けてきた習慣はなかなか取り払えない。
こういった癖に近頃はとても悩んでいる。
今までは「しない」「言わない」「やらない」ことで保身する、回避をし続けて来たが、これではもう立ち行かなくなってやっと改める気になった、というか路線変更せざるを得なくなっている。
立ち行かなさを痛感するようになった気づきがあって
今まで、優等生を、謙虚で素直なバイトを、一緒にいて楽しい友達や彼女を、かわいい孫を、必死に演じていたように思う。
本当の自分はそうでなくても、そうすることが正しいと思ったからだ。
そんなただの思い込みが水面下で強くなっていくまま、理想を演じることが正しい、そうじゃないありのままの自分は駄目だという固定観念に囚われていた。
でも最近、年齢のせいか薬のせいか周りを比較的冷静に見れていて気づいた。
「いや、理想演じなくてええやん!!てかみんながそうしてたら画一されたきめぇ世界じゃーーん!!」
「みんな結構“自分”してんな…」
と。
それに、私が正解だと思って演じてきたあからさまな理想が、必ずしも正解では無い と気づいてしまった。
うるさい奴も人の話聞かない奴も意地悪な奴もお節介な奴も我儘な奴も、
あれは必要なんだと
それらは欠点と一括りに一蹴するものではないんだと。
狂人には狂人の役がある、とはよく言ったもので。
こうなってくると、わたしは自分を隠すように生きてきたから、どうやって生きていたら良いのか分からない。
言いたいことややりたいことがあっても、実行する前に自分がどうしたいかじゃなく、間違いじゃないか、傷つく人が居ないかなんて正解のないことに正解を求め始める。
自分が否定されることが怖いんだと思う。
だと思う、なんて他人事みたいに言うのは、本当だからだと思う。←
セルフ図星過ぎて言い切るのが辛い(?)
ありのままの自分を否定されることが怖くて、演じた自分で居続けたんだろうと今思える。
人を傷つけるのが怖いのも、優しさじゃなく自分が人を傷つける人間だと思われたくない/思いたくないだけだ。
でも、私は否定されるのが怖いだけじゃない。
“否定”自体があまり好きではない。
「受け入れろ!」とは思わないが「尊重しようよー」とは、おもっている。
それに、自分と他人は違うと強く思う。
だから、分かり合えなくても当たり前だと思う。だって自分じゃないもん。
共感してくれた方が嬉しいし、共感することで仲間でいられると切実に感じるが、みだりに深く共感する振りをしないようにしている。
本当に共感している時は、それはそれでいいんだけど
分からない時は分からないと言っていいし、別に嫌いでもない人の悪口に便乗する必要も一切ないと、心から思う。
其の場しのぎの一体感の為に、思ってもないこと言って後ろめたさを感じるのも、そんな窮屈な空間に居続けるのも無駄だと思う。
こんな風な思想があるからか、相槌がおかしいと言われることがある。
相槌として、「そうなんだ」をよく使うんだけど、冷たいと言われる。
たしかにそうかもしれないけど、わたしはこの上なくニュートラルな「そんなんだ」がとても気に入っている。
その他に「そうだね」「たしかに」「なるほどね」とかも好き。
否定しない に重きを置いている。
面白い人間は社会に溶け込めないことがあると思う。在り来りでも無ければ、一癖も二癖もあるから。
そんな人を否定せず面白がれる笑いが最近好きだ。
謎にこんなに熱く語ってしまったが、最後にタイトルに触れておく。
自分でつけたタイトルなのに、あとから見返して「どういう意味?」となることも少なくないし、自分自身がそのくらいの理解度なのに読んでくれている人は尚更「どういう意味?」 だろうから。
こんなに自己分析をして、こうだからこう!こうしたらいいよね!って分かっていても、出来るとは限らない。
っていう、ことでした…。
努力します。
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