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私とあなたの間の透明な薄い膜

繰り返される差別の連鎖

  アメリカで白人警官が黒人を殺害したことを発端とするデモや暴動が過激化している。何度も繰り返される光景に、絶望に似た諦観を覚える。人種差別とはこうも根深いものなのか。中学生の頃、ルーサーキングjrの伝記を読んで、「こんな近い時代に、こんな差別が行われていたなんて、信じられない」と父に言ったことを覚えている。でも、その時代に行われていたことと何も変わらないことが、2020年の今でも起きている。差別は何も終わっていなかった。「I have a dream」で掲げられた"夢"は、今も夢のまま。なんと残酷な現実であろうか。

 私の父は非白人のヒスパニックであるが、一度アメリカで暴徒に銃を向けられ、殺されそうになったことがある、と話していた。そこで父が殺されていたら、今私の命はなかったであろう。そのときは単なる浮世離れた怖い話として捉えていたが、事実、「黒人である」というだけで、命の危険にさらされそうになっている人が大勢いる。

 日本に住む黄色人種の私にとって、今回の事件は完全なる「対岸の火事」でしかない。せいぜいニュースを見て胸を痛めるくらいだ。何もできない。当事者である人たちにとっては、こっちの痛みなど知ったことではない。当たり前である。「衝撃を受けた」「ショックだ」などという言葉を、軽々しく使ってはいけないような気もする。実際渦中にいる人にとっては、それが日常なのだから。

ラベリングの暴力性

 なぜ人は差別をするのだろうか。結局は差異に優劣をつけることが人間の習性なのかもしれない、と思ったりする。背が高いとか顔が綺麗とか、頭がいいとか肌が白いとか(このあたりのルッキズムに関する話は、また別に触れたい)、足が速いとか太っているとか、家が金持ちだとかそうでないとか、ともかく人はなにかと優劣をつけたがる。違いを”違い”として放置することができない。

 おそらく本能的なものもあるのかもしれない。自分と肌の違う人種を、”劣った”人種としてラベリングすることで、自分は何もしなくても優越感を感じることができる。自分で何事も成すことができない人が、あるいは何かから目を背けたい人が、人を見下し、ラベリングし、差別することで、自分の優位性を保つ。

 ラベリングする、ということは、その人を個人としてみない、ということでもある。膝で押しつぶして殺した警官は、その時下で助けを求める彼(名前は伏せる)をどのようにみていたのだろう。きっと名前すら満足に言えないだろう。彼を人間として、個人として対等にみていたら、あのような酷い仕打ちは到底できない。差別の恐ろしさのひとつは、その盲目性にある。たとえその人が優れた人格者(事実、殺された彼は優秀なDJであったらしい)であったとしても、ただ「黒人である」というその一点だけで、自分より劣っているとみなされる。その人がどのような人で、何を考え、何を生み出してきたのか、ということは、一切捨象される。

私とあなたの間の透明な薄い膜

 話は逸れるが、卑近な例を無理やり引用する。私は父が日本人ではないので、自己紹介したときに興味を持って色々聞いてくれる人がいる。「◯◯人の血が混ざっているから、◯◯なんだね」と言われたりすることもある。広い意味ではこれも偏見なのかも知れないが、そのほとんどが好意的なものであるし、私は(幸いなことに)そのような言葉に不快な思いをしたことは一切ない。

 ただ、国籍の話をされたり、(◯◯人だから◯◯なんだね)というような言われ方をする時、なんだかちょっとした違和感を覚えるのは確かである。まるで、相手との間に薄い膜が貼られているような気がする。最近になって、その正体が分かりつつある。誰かが私に国籍の話をする時、相手は私ではなくその向こう側を見ている。私の背後にある、バックグラウンドとしての国籍に目線を合わせている。だから、その間にある「私」が、取り残されたような気がするのだ。

 これは本当に自分勝手な話ではあるのだ。だって話していることは徹頭徹尾「私」の話であるのに、「私」が置いていかれてる!なんて、自己中心的にもほどがある。でも、人はだれでも、自分をそれより「大きな枠組み」で捉えられることに違和感を覚えるのではないだろうか。

 例えばあなたがポイ捨てをしたとして、「あぁ、日本人だから礼儀がなってないのね、みっともない」と誰かに言われたら、どう言い返すだろうか?こう思う人もいるだろう、「ポイ捨てしたのは”私”だけど、日本人かどうかは関係ない」と。人種でくくるということは、個人の性質そのものを、もっと大きな人種としてのstereotypeに還元(いい言い方が見つからない)してしまうことである。もっとわかりやすく例えると、料理上手であったり裁縫上手な人に「女の人だからやはり料理上手だなぁ」と褒めた人がいるとする。これは人によるかもしれないが、褒めているようで言われた方はそこまでうれしくないだろう。料理上手である、というのは個人の性質であるのに、それを無理やり「女」という大きい枠組みを経由して褒められたところで、うれしくもなんともない(と、私は思う)。これは偏見と言って差し支えないと思うが、こういう例は、本当に数え切れないほど存在する。

 人を分類して枠組みに捉え直すことは簡単である。「A型は几帳面」「女は感情的」「日本人は勤勉」etc... それがあっているか間違っているかどうかよりも、人を大きな枠組みで捉えることは、個人の性質を見る目を曇らせてしまう。そして、新たな差別を助長する。

 Till it happens to you

 実際にことが起きるまでは、わたしたちにはその人たちの苦しみは想像もできない。暴動が激化している事実、を見ても何もコメントすることなどできない。暴力は何も生まない、と口でいうのは簡単であるが、じゃあそれ以外の解決策は?長い間受け続けた痛みが、苦しみが、堰を切ったように溢れ出ているのを眺めて、ただ呆然としている他ないのではないか。

 この一連の事件に根深くある差別感情は、自分にもないとは言い切れない。むしろほとんどの人間に内在しているものだ。「あの人は◯◯だから」と人と自分を比べ、心の内で見下した経験がないと言えるだろか。私は人を差別したことはあるし、これからも(意識的であれ、無意識的であれ)人を差別するだろう。その差別感情が膿のようにたまり、伝播して行った先に、罪のない人が殺される。差別とはそういうものだ。「差別をやめよう」と言っている張本人が、違う場面で差別をしていたりする。それが当たり前なのだと思う。

 解決策は簡単には生み出せない。日本では差別がない、と思い込んでいる人もいるが、そうではないだろうと思う。見えにくいだけで、人種差別は日常的に横行しているし、私たちがそれに気づかないだけだ。もし日本が海外からの移民を大量に受け入れたりしたら、今現在のアメリカに匹敵するくらい(あるいはそれ以上の)差別がはびこる国になるかもしれないし、そうなる可能性は十分にある。

光明を見出すための手がかり

 差別をなくすには、というかなり抽象的で漠然とした議題に解決策を見出すとするならば、・個人を(人種・性別・職種などの)大きなくくりで見るのではなく個人に目を向けること ・自分の中に内在する差別感情を自覚し、認めること ・他人を劣等視することで自己を保つようなやり方をやめること。知識も行動力もない幼稚な私にとっては、こんな結論をだすのが精一杯である。ただ、いま現在の暴動の原因はといえば、脈々と受け継がれてきた差別が積もり積もった澱である。そしてそれに私たちは少なからず加担している(かもしれない)という意識を忘れてはならない。

 最後に、アメリカの暴動において、ただのストレス解消として利用している者や、不必要に犯罪行為を煽る組織的な動きがあるかもしれないということも付け加えておきたい。これらの事件によって、また新たな差別の芽が芽生えてしまうことは、あってはならないことである。

✳︎Black lives matter で調べると様々な署名運動や募金活動が行われているので、それを通じた支援が今一番良い手立てかもしれない。

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