「葬送のフリーレン」における日常と非日常
この物語「葬送のフリーレン」(漫画版)は、どんなきっかけだったか忘れたけれど、以前ウェブのどこかで物語の“始まり”の部分を読んだことがありました。何か惹かれるものがあったのでしょう、覚えています。「始まり」なんだけれど、(嘗ての)物語の終わりから始まってるのですね。だから、ウェブで読んだとき終わりの方の一部分かと思っていました。
ところで、noteでフォローしている方にテレビのアニメを勧められました。しかし、テレビを観る習慣がないので2〜3回観たきりになってしまっていたのですが、幸いにもAmazonプライムビデオで見つけたので先日シリーズ全28話を観終えることができました。
内容に深く触れるのでネタバレあります。こんな記事を読む物好きさんならもう観ているでしょうが……🙂
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物語は、現在(物語上の)の出来事を中心に進んで行くのですが、要所ごとに過去の思い出の一コマが入ります。つまり、現在の瞬間に過去が存在しており、その関係性に気づいた時、過去と現在が結ばれるのです。
しかもその思い出の一コマ一コマの多くは何気ない日常の一コマです。冒険という非日常のなかのくだらない平凡な日常なのです。実際冒険とは言え、ラピュタのように次から次へと血湧き肉躍るような出来事は(少なくとも思い出の場面にはほぼ)出てきません。長い冒険であれば、実際のところ非日常的場面より、平凡な日常生活時間が殆どを占めているのです。そしてその間の平和な時間に勇者であるヒンメルは小さな親切をして過ごしているのですね。
冒険は誰のためにしているのでしょうか。自分の名声のためでしょうか。設定ではそうなんでしょうね。しかし一概に「自分の名声」のためとも思えないところがあります。
小さな親切は誰のためにしているのでしょうか。他人を助けるためでしょうか。ヒンメルの性格から来ている無邪気な行いのようにも思えます。
第4話に日の出を見に行くシーンがあります。かつてヒンメルらといっしょに日の出を見に行き損ねた思い出が重なります。
個人的な思い出になりますが、大学生の頃、あるミュージカル映画を観て、音楽が何であるかわかった気がしたことがあります。昔のことなので何が分かったのか正確に覚えていませんが、人々と共感することもあったと思います。フリーレンの気付きは音楽を一緒に奏する、共に歌う喜びに通じているのでしょう。
フェルンは「フリーレン様」と呼びかけて、「とても綺麗ですね」と言っているのです。フェルンの呼びかけは共に歌う喜びです。ヒンメルが最後に流星群を仲間とともに見たときも「綺麗だ」と言いました。絆で結ばれた仲間と共に歌う喜びです。
音楽それ自体の美、日の出そのものの美もあると言って良いかも知れません。しかしその美を見つけ、あるいはそこに美という意味を作るのは他者です。単独で存在するものは「存在する」と言う事ができないでしょう。美も同じです。関係性(お互いの作用)のなかに存在するものは存在するのです。 人間は美という意味を作れる存在です。そしてその美を分かち合うことができます。日の出のような自然現象も、個人が作った歌も、そこに普遍的なものが存在するから共感できるのでしょう。小さい愉しさと哀しさ、些細な喜びと苦しさ…日々(け)のなかに晴(はれ)を見付けるわけです。サザエさんやまる子ちゃんのアニメじゃないけれど…。
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「葬送のフリーレン」〜どうしてこんなタイトルなんでしょうか。第8話まで来ると、そのエピソードのタイトルがずばり「葬送のフリーレン」となっていますね。ここまで来れば「葬送の」は「殺し屋の」の意味かと推うでしょう。実際英語のタイトルは "Frieren the Slayer"となっています。ちなみにこの物語自体の英語タイトルは、"Frieren: Beyond Journey's End"です(英語のWikipediaによる)。並みのタイトルですね、英訳者は原作者の意図をまだ読み取れていないのかも(?)。それとも作者が別の言葉を使ったのは、「殺し屋」と云うどぎつくて使い古された言葉を避けただけかも知れません。本当の理由は作者しかわからないので、ここで議論しても仕ようがありませんが、ひとつ、くだらない遊びとして考えてみることにしましょう。
考えてみれば葬送とは儀式です。ではどんな儀式なのでしょう……
まず最初にヒンメルの葬儀で、フリーレンが涙を流しますね。これはわたしには以外でした。あとのエピソードで出てきますが、村が襲われ両親が殺されても涙を流した様子はなかったのに…。無声慟哭とでも言うのか、本当の悲しみの中では涙は出ないのかも知れないけれども…。あるいはアイゼンの言う通りあの10年で変わったのかも知れません。涙を落とすシーンはもう一つありますから(第2話ハイターと別れの場面)。
それはともかく、先の第4話「魂の眠る地」で、フリーレン一行の旅の目的地が決まります。オレオール(Aureole)という天国(死者たちが行くところ)、それは嘗てヒンメルたちが目指した魔王城のある北の果てエンデ(Ende)と呼ばれる地にあるらしい。
ヒンメルたちと一緒に行った地エンデでフリーレンたちはなぜオレオールを見過ごしたのでしょう(噂話も聞かなかったのでしょうか?)。果たしてオレオールは存在するのか、フランメは何を知っているのか。いずれにしても、フランメはフリーレンに伝えたいものがあり、行ってもらいたかったのでしょう。
そこが天国と呼ばれるところなら、この物語の死生観に関わるところです。このシリーズで死生観を語るシーンはいくつかありますが、大事なところが2つあると思います。
一つは、例の第4話で、アイゼンの家族の墓の前の会話です。ハイターが語ります。
「人は死んだら天国に行く。…(中略)…その方が都合がいいから。必死に生きてきた人たちの行き着く先が無であって良いはずがありません。だったら天国で贅沢三昧していると思ったほうがいいじゃないですか。」
もう一つもハイターで、第2話の幼いフェルンとの出会いの場面で…
「……ある時ふと気がついてしまいまして、わたしがこのまま死んだら、彼[ヒンメル]から学んだ勇気や意思や友情や大切な思い出までこの世から無くなってしまうのではないかと…。あなたの中にも大切な思い出があるとすれば死ぬのはもったいないと思います。」
死によって無になるのは虚しい、何か魂(?とか)が残るとか、死後の世界(や生まれ変わり)を信じたい…というようなことでしょうか。
この記事で初めにわたしは、過去と現在の出会いについて話しました。今の一瞬が過去からのつながりのなかにあると云うことです。それなら、時間を未来方向にずらして考えれば、今の決断が未来に繋がる〜未来を作ることになります。まとめると、今という一瞬の中に過去現在未来があるわけです。いわゆる「今しかない」というような刹那主義ではありません。大げさに言うと、私達の存在は宇宙の歴史の中にあり、私達には未来を作る責務があるのです。
人間は生死を考える時、永遠と云うものを思います。永遠の魂とか、永遠の愛とか…。しかし永遠とは過ぎて行く時間に関係しているのでしょうか。本当の永遠は時間を超えたものかも知れません。もし一瞬の中に過去現在未来が存在するなら、移り行く一瞬の中にこそ永遠は存在すると言えないでしょうか。ファウスト(ゲーテ作)は瞬間に向かって言いました…「止まれ、お前はあまりにも美しい。」日常の一瞬一瞬の輝きだけれども、ファウストはそこに永遠の美を見たのではないでしょうか。
葬送のフリーレンは過去との繋がりと云う思い出と共に始まりました。過去を見送り、そして今現在オレオールへの旅の途中にあります。オレオールで物語の死生観は変わるのでしょうか。古い死生観〜アイゼンが言う「人は死んだら無に帰る」やハイターの語る「天国に行くんですよ。…その方が都合がいいから。」というような死生観〜を葬り、未来と繋がる新しいものを見付けるのでしょうか。
おまけ
この物語にはゲルマン系の名前(人名、地名)が多い。例えば…
名前 ドイツ語 (英語)
フリーレン Frieren (to freeze; to be cold)
フェルン Fern (far-off; distant)
シュタルク Stark (strong)
ヒンメル Himmel (heaven; sky)
人物の特徴を表しているようですね。
collinsdictionary.com で調べてみましょう。
タイトル画像は、雀のミーハー族で流行っている「葬送のフリーレン」コスプレ(?)。中央がフリーレン、向かって左がフェルン、右がシュタルク😀
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