見出し画像

【新刊試し読み】 『寂しさから290円儲ける方法』|ドリアン助川

ドリアン助川さんの連作短編小説『寂しさから290円儲ける方法』が2023年5月23日(木)に発売されたことを記念して本文の一部を公開します。

本書について

「なにかお困りの方、メールをください――」
悩みを抱える人の元に出かけていって、おたすけ料理をこしらえて解決へと導く謎の男“麦わらさん”。相談料はたったの290円。男の目的は? 金額にはどんな意味があるのか? 優しくて可笑しくて、少し哲学が入った11篇の連作短編小説。

試し読み

第一話「世田谷区 豪徳寺」 

 その女性のお客様とは、お寺の境内で待ち合わせをしました。
 桜が散ってからまもなくの、暖かな南風が吹き抜ける午後でした。私はにぎわう三軒茶屋のマーケットでイタリア産の赤ワインを買い、東急世田谷線の駅へと向かいました。二輌連結の列車に揺られる小さな旅です。
 私が学生だった頃にこの線路を走っていたのは、丸みを帯びた深緑色の車輌でした。たしか、「青ガエル」の愛称があったはずです。それからウン十年。この日乗ったのは、運転席の前面に猫の顔が描かれた、白を基調とする車輌でした。愛称をつけるなら、「白ニャンコ」でしょうか。
 三軒茶屋駅を出発した白ニャンコは、民家の軒先をかすめてゆっくりと走ります。これまた猫の顔をかたどったつり革に私はつかまり、ときには家族の団欒までが垣間見える車窓の景色を密かに楽しみました。
 人の家を眺めること十数分、白ニャンコは宮の坂駅に着きました。短いホームを降りてすこし歩くと、時代を感じさせる長い土壁の向こうに、背の高い杉や松の緑が見えてきます。
 ここが世田谷の名刹、「豪徳寺」です。
 堂々たる構えの入り口は、まるで城の大手門のようです。井伊直弼の菩提にふさわしい迫力があります。ただ、出入りしている参拝客はサムライ風でもいかつい感じでもありません。むしろ、今風のファッションに身を包んだおしゃれな若者たちが目立ちます。インバウンドの観光客も詰めかけていて、嬉々として写真の撮りあいっこをしています。
 私は、本堂や仏殿にお参りをしたあと、豪徳寺が今や海外からも注目されている理由である
「招猫殿」を訪れました。
 みなさん、ここはお勧めです。
 百聞は一見に如かず、ですよ。
 招猫殿の周囲を埋め尽くしているおびただしい数の置物。これはだれが見ても猫のように目がまん丸になる光景です。極端なものに触れたときはいつもそうですが、私の場合は、すこし遅れて笑いがこみ上げてきます。
 いったい何千体あるのでしょう。ここに来るたび、大小さまざまな白い招き猫たちの前で、私は笑ってしまうのです。招猫殿のみならず、敷石や石灯籠のなかにまで招き猫があふれ返っています。
 豪徳寺は、招き猫発祥の地といわれています。江戸時代初期の彦根藩主、井伊直孝が当地で雨宿りをした際、どこからともなく現れた猫によって寺に導かれ、和尚の法話を聴く機会を得たというのです。直孝はこの縁を大事にし、ここ豪徳寺を井伊家の菩提所としました。
 寺は、縁をもたらした猫を「招福猫児観音まねぎねこ」として祀るようになりました。そしていつからか、陶製の招き猫を販売するようになったのです。招猫殿の敷地だけでは納まらず、方々にあふれて並んでいる白い招き猫たちは、願が成就した人々が奉納したものだそうです。この膨大な招き猫の数と同じだけ、人々の夢や願いがかなったのです。
「あの……麦わらさんですか」
 どちらを向いても招き猫、写真を撮っている観光客は海外の方ばかりというシュールな状況に浸っていると、脇からそっと声をかけられました。
「あら、ピーさんですか?」
「はい」
 就活生のユニフォームにも似た黒のスーツのせいでしょうか、すこし堅い印象を与える女性です。わずかに頬をこわばらせ、「お世話になります。ピーです」と会釈をしてくれました。私は帽子をとって、「麦わらです」と頭を下げました。
 ピーさんは、私の営業ブログ「麦わら料理」に仕事の依頼メールをくれたのです。

麦わらさん、こんにちは。私は悩みが多数あり、落ち着いてものを考えることができません。どうすれば悩みの数を減らすことができますか。お会いして、心が安定する料理についても教えていただければ幸いです。
ハッピーのピー


 ひりひりするハンドルネームです。たしかに、ピーだけではハッピーになれません。書かれている通り、実際に複数の悩みを抱えていらっしゃるのでしょうか。それとも、ピーさんの心になんらかの問題があるのでしょうか。
 私はピーさんの本名を知りません。メールでのやり取りを含め、そこは深入りしないのが「麦わら料理」のルールになっています。名前を知らずとも、一期一会は成り立ちます。お客様と過ごす時間は、人知れず咲き、春の雨に濡れて散っていく山桜の花びらのようなものであればいいと思っているのです。
 とはいえ、私とお客様は互いの顔を知らずに初めて会うわけですから、なんらかの目印が必要です。私が春夏秋冬一年を通じて麦わら帽子をかぶっているのは、ひとつにその理由です。
今回、黒のスーツはピーさんからの申し出でしたが、観光客が多いだけになるほど彼女は目を引きました。
「麦わらさん、わたしたち、変わった組み合わせに見えるでしょうね」
 会ってすぐ、ピーさんは周囲を気にしだしました。
「どうしてですか?」
「だって、麦わらさん、まだ春なのに本当に麦わら帽子なんですもん。それに、年齢的にも離れているので、目立ちますよね、私たち」
 ピーさんははにかむように笑いながらも、麦わらからこぼれた私の白い髪に一瞬の視線を這わせました。
 こちらは、「すいません、若くなくて」としか言いようがありません。ピーさんの年齢は三十代後半といったところでしょうか。これくらいの歳になっても言っていいこととわるいことの区別がつかないのは困ったものだなと思いました。
 私たちはその後、招き猫の飾りがついた三重の塔にもお参りしました。境内の販売所では、一体の招き猫を買い求めました。ピーさんは、「かわいい」とつぶやき、招き猫の頭を指でなでました。

目次

第一話「世田谷区 豪徳寺」
第二話「伊豆 城ヶ崎」
第三話「池袋 平和通り」
第四話「上野 不忍池」
第五話「神戸 高架下」
第六話「東京 三宅島」
第七話「長野 小布施」
第八話「米国 ニューヨーク」
第九話「岩手 イーハトーブ」
第十話「奈良 ならまち」
第十一話「逗子 小坪漁港」

著者紹介

ドリアン 助川
1962年東京生まれ。明治学院大学国際学部教授。作家・歌手。早稲田大学第一文学部東洋哲学科卒。日本ペンクラブ常務理事。長野パラリンピック大会歌『旅立ちの時』作詞者。放送作家等を経て、1990年バンド「叫ぶ詩人の会」を結成。ラジオ深夜放送のパーソナリティとしても活躍。同バンド解散後、2000年からニューヨークに3年間滞在し、日米混成バンドでライブを繰り広げる。帰国後は明川哲也の第二筆名も交え、本格的に執筆を開始。著書多数。小説『あん』は河瀬直美監督により映画化され、2015年カンヌ国際映画祭のオープニングフィルムとなる。また小説はフランス、イギリス、ドイツ、イタリアなど22言語に翻訳されている。2017年、小説『あん』がフランスの「DOMITYS文学賞」と「読者による文庫本大賞」の二冠を得る。2019年、『線量計と奥の細道』が「日本エッセイスト・クラブ賞」を受賞。2023年、フランス語版『あん』がリヨン大学より「翻訳作品賞」を授与される。


『寂しさから290円儲ける方法』
【判型】四六判
【ページ数】258ページ
【定価】本体1,760円(税込)
【ISBN】978-4-86311-367-1

本書を購入する