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『ロング・ロング・トレイル』全文公開(4)  第一章 旅へのあこがれ (3/4)

2018年10月に出版した、木村東吉さんの著書『ロング・ロング・トレイル』を全文公開します。

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第一章 旅へのあこがれ
初めてのアメリカで打ちのめされる

 これまでに何回、アメリカに行ったのだろう?
 そのほとんどが南西部だが、一度だけNYとフロリダに行ったこともあるし、ちょっと変わったトライアスロン・レースに出場するために、2年連続してミネソタにも長期で滞在したことがある。それに自宅の資材を購入するために、何度かシアトルにも行った。
 アメリカに行く度に感じるのは、アメリカとは一つの国ではない……ということだ。
 「United States of America」
 その名の示す通り、いろいろな州の集合体であると同時に、人種の、文化の、自然の集合体でもある。
 が、「刷り込み」とは恐ろしいモノで、ボクにとってのアメリカは、アリゾナやユタといった南西部のアメリカだ。緑豊かな北西部であるシアトル、あるいはアメリカを代表する大都市NYに行っても、どうもアメリカに行った気がしない。

 ボクは昭和33年生まれで、テレビや映画を通じて見るアメリカは「西部劇」のアメリカだった。ジョン・ウエインが馬で走り回るアメリカであり、カウボーイたちがブランケットに包まって、焚き火の傍で野宿するアメリカだった。
 奇遇にも、初めて行ったアメリカが、まさにそのような体験となった。
 ある雑誌の取材とファッションページの撮影のために渡米したのだが、LAをクルマで出発して、まずはラスベガスに到着。夜に到着して、翌朝早くにグランドキャニオンに向けて出発。ここまではよかった。ラスベガスのにぎやかな喧騒も、グランドキャニオンのスケールを超える絶景も、それまでに日本のなんらかのメディアを通じて見聞きはしていた(それでも腰を抜かしたが)。が、そこから先、モニュメントバレー、キャニオン・デ・シェリー、ギャロップへと続く道をレンタカーで走っていると、「もう、このまま日本へ帰ることができないんじゃないか?」と馬鹿げた妄想にとらわれるほどに衝撃を受けた。その荒涼たる世界、あまりにも日本のそれとかけ離れたスケール、景観、文化、生活様式の違いに圧倒された。
 もちろん「旅に勝ち負けなど存在しない」が、その時のボクは衝撃を受け、圧倒され、押し潰され、完璧なる敗北感を味わっていた。
 誰に?ナニに?敗北したのか?おそらくその対象は存在しない。敢えて挙げるとしたら、アメリカという国のすごさを知った自分自身に、完璧に敗北していたのだ。
 アメリカという国を少しでも知っている人なら、ボクにとっての初のアメリカの旅の道筋が、ネイティブ(アメリカインディアン)たちと、深い関わりを持つ地域だということが分かるだろう。
 さきほど「ジョン・ウエインが馬で駆け回る」と言ったが、まさにモニュメントバレーは彼の代表作『駅馬車』のロケ地でもある。
 1900年台初頭。ハリー・グールディングという一人の白人が、モニュメントバレーに入植した。が、すぐに全米では世界恐慌の嵐が吹き荒れ、モニュメントバレー周辺に暮らすナバホ族の人々も、苦しい生活に喘いでいた。
 その窮状を見たハリーは、ハリウッドで新たなロケ地を探しているとの情報を得て、なけなしのお金でハリウッドまでの切符を手に入れ、映画会社を訪ねた。
 最初は門前払いを食ったが、ハリーの持参したモニュメントバレーの写真を見たジョン・フォード監督は、その景色に一発で魅了され、その3日後から、映画『駅馬車』のロケは始まったといわれている。
 それを機に、多くの映画人がハリウッドからこの僻地を訪れ、それと同時に、ナバホやそれ以外のネイティブの部族たちの生活も潤ったといわれている。
 実は日本を出る時、ボクは心の中で、このネイティブ・アメリカンの人々に対し、どことなく親近感を持ったあこがれを抱いていた。
 勇壮な姿で馬を駆り、大地と共に生きる、誇り高き人々……。なるほどあこがれは分かる。では何故、親近感を?ボクは身長180センチ近くあり、顔付きもどちらかといえば日本人離れしている。で、昔から、映画に登場するインディアンに似ているといわれていたのだった。まあその当時の日本人の知識からすれば、その意見はかなりいい加減であると思われるが、それでも未だに、現地で地元の人と間違えられることを鑑みれば、当時の知識不足の日本人の感覚は、案外、的を得ていたのかもしれない。
 まあボクとネイティブの人たちとの繫がりはどうでもいい。だが彼らと会うまでは、愚かな夢想を抱いていた。
 が、実際に現地でネイティブ・アメリカンの人々と接した時に、彼らの生活水準の低さや、白人社会での差異を見せつけられ、それまでの己の無知を、大いに恥じたのであった。
 後にオーストラリアでも同じような現状を目にすることになるが、後からこの地にやって来た西欧人たちの都合によって、ネイティブの人々は先祖代々の土地を奪われ、生活習慣を奪われ、古来よりの文化を奪われ、生きる目的を見いだせない人々も少なくはなかった。確かにアメリカ政府は「リザベーション」(居留区)という名のもとに、彼らの生活を「最低限」保証しているかもしれない。が、経済的に生活を保証しても、古来より連綿と続く生活習慣を奪われたら、人生そのもの自体の目的を失うに等しい。目的を失ったネイティブたちが酒に溺れ、ボロ雑巾のような姿で、スーパーマーケットの駐車場に居る姿を目の当たりにして、底のない深い哀しみに包まれた。
 そのような文化の壁、言葉の壁、自然の大きさなど、すべてに圧倒され、ボクは人知れず、大きな敗北感を味わっていたのだ。
 しかしその旅で味わったのは敗北感だけではない。
 その旅の最終目的地は、ニューメキシコのサンタフェだった。

 LAを出発して、約10日間かけてサンタフェに到着したのだが、その街は、これまで見たどの街より美しかった。
 1957年というから、ボクが生まれる一年前。今からすでに60年以上も前に、サンタフェで一つの条例が締結された。その条例とは、街を形成する建築物を、あるスタイルに統一するというものだ。
 そのスタイルとは「スパニッシュコロニアル(スペイン植民地様式)」か、「プエブロ・スタイル(もともと現地で暮らす人々のスタイル)」のどちらかのスタイルである。
 プエブロスタイルの家というのは、「アドベ」と呼ばれる日干し煉瓦を積み重ね、さらにそこに漆喰のような茶色の泥を塗り固めていく。建物のほとんどは土色の泥で塗り固められているのだが、ドアや窓のフレームは、鮮やかなターコイスブルーに彩られ、その玄関には、魔除けのために大きなチリ(唐辛子)が飾られている。
 いささか誇張していえば、サンタフェの街には、このサンドベージュ、ターコイスブルー、チリレッド、この3種の色しか存在しない。
 まるで街全体がインディアン・ジュエリーのように美しい。

 街の中心地に建つ由緒あるホテル「ラ・フォンダ」も(サンタフェ・トレイルの終点地でもある)、銀行も、コンビニエンス・ストアも、レストランも、すべて色が統一され、のんびりと街を散歩しているだけでも、美しい映画のセットの中を歩いているような錯覚に陥る。
 その時、ボクは密かに思った。
 いつかは分からない。だがいつか自分が家を建てるのなら、必ず、このサンタフェ・スタイルの家を建てよう。
 その夢は、それから12年後に実現することになるのだが、その時は、旅で受けた「敗北感」に包まれ、小さな夢は砂漠を吹き荒れる風の中に落とした一本の針のように、大量の砂の中に埋もれてしまったのである。

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[ナバホ族の聖地ともいわれるモニュメントバレー]


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木村東吉(きむら・とうきち)
1958年11月16日生まれ。大阪府出身。ファッションモデル、エッセイスト。10代の頃からモデル活動をはじめ、上京後は『ポパイ』『メンズクラブ』の表紙を飾るなど活躍。30代よりアウトドアに活動の場を広げ、世界各地でアドベンチャーレースに参加。その経験を活かし、各関連企業のアドバイザーを務め、関連書籍も多数刊行。オートキャンプブームの火付け役となる。
「走る・歩く・旅する」ことをライフワークとしている。現在は河口湖を拠点に執筆・取材、キャンプ・トレッキング・カヤックの指導、講演を行っているほか、「5LAKES&MT」ブランドを展開しアウトドア関連の商品開発を手掛けるなど、幅広く活動している。


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