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タンドリー・チキン【1】 タンドリー・チキンの謎
インド食器屋「アジアハンター」の店主・小林真樹さんが、食器買い付けの旅や国内の専門店巡りで出会った美味しい料理、お店、そしてインドの食文化をご紹介します。
かつて「ビフテキ」や「すき焼き」は昭和世代にとってごちそうの代表格だった。今だったら何がそれに該当するだろう。食の嗜好が多様化する中で、理想的なごちそう像も多様化しているのかもしれない。ふと、そんな誰もが思い浮かべるごちそうイメージに該当するインド料理が果たして何かと考えた時に、ビリヤニと並んで浮かび上がるのがタンドリー・チキンではなかろうか。タンドール(窯)で焼かれたばかりの、表面に沁み出る油がまだジュワっと音を立てて沸騰している丸鶏が卓に置かれる。指先の軽い火傷と闘いながら、骨まわりにみっしりついた肉塊にかぶりつく。インド特有の弾力性のある鶏の肉質を、鼻腔の奥に広がるスパイスの香りと共に心ゆくまで咀嚼するときのあの多幸感といったら。
ニューデリーの繁華街、コンノート・プレースの一角に、アーナンド・レストランという古くからある食堂がある。ここのタンドリー・チキンはそんな絵に描いたようなビジュアルと味をしている。店の雰囲気とも相まって、その「クラッシック」で「伝統的な」タンドリー・チキンを時々思い出しては無性にかぶりつきたくなる衝動にかられる。このインドを代表するごちそうの歴史は、しかし実はさほど古くない。伝統的でもクラッシックでもなかったりするのだ。
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タンドリー・チキンが「発明」されたのは、北デリーのダリヤガンジに店舗を構える「バターチキン発祥の店」としても名高いモーティー・マハルである話は有名だ。そもそもバターチキンとは、バターベースのグレービーソースにカットしたタンドリー・チキンを投入した料理であり、創業者クンダン・ラールはバターチキンのみならずタンドリー・チキンの発明者でもある。
独立前、モーティー・マハルという名で現在のパキスタン西部の街ペシャーワルで営業していたクンダン・ラールは、印パの独立・分断後はデリーへと移り同じ名前で店を再開。そこで出されたタンドリー・チキンは、やがて国の公式晩餐料理化するほどのメジャーな料理へと「出世」していく。しかしその後同店は経営難に陥り、90年代初頭に実業家ヴィノード・チャダーへと売却・譲渡された。この辺の流れは『食で描くインド』(春秋社)の中の山田桂子先生による論考が詳しい。譲渡後も同じ店名で経営は続き、あたかも初代の味を継承しているかのようなイメージがもたれているが、味もレシピもかなり変容したという。経営者が代わり、店名・メニュー名はそのままなのに中のコックが交代したため味が変わった居抜き店の例は日本のインド・ネパール料理店でもよく見られる。モーティー・マハルも同じなのだ。
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さて、同書で山田先生も疑問を呈するように、タンドリー・チキンが一個人によって「発明」された料理なのかどうか。私も読んでいてその箇所が気になった。タンドールという設備自体は特段、目新しいものではない。ナンを作るための調理設備として粘土をこねて壺型に成形したものは「タヌール」の名で現在のイランあたりで発祥し、中央アジアを経てムガル帝国時代にインドへと伝わり「タンドール」と呼ばれるようになった。しかしそれよりはるか昔、先史時代に既に人類はタンドールに似た形状の窯を用いて小麦の生地を焼いて食べていたことが遺跡から判明している。問題はこの「タンドールで、串に刺した鶏肉を焼く」調理法である。先史時代から存在する、この加熱調理設備で肉を焼くという、ただそれだけの行為が20世紀になって初めて考案される、などということが果たしてあり得るのだろうか?
炭焼台の上で串刺し肉を焼くカバーブという料理は中東からインド亜大陸にかけて広くみられる。単純にいえばタンドリー・チキンとは熱源をこの炭焼台からタンドールに置き換えたものだ。タンドールというまろやかな熱源をみれば、ナンのみならず肉や野菜をもあぶってみたくなるのは人として当然の衝動だろう。人はナンのみで生きるにあらず。ましてあのインド人が
「これはナンを焼くためだけの道具ですよ、ほかのものを焼いちゃダメですよ」といわれ「はい、わかりました」と素直にしたがっていたとは思えない。
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ナンの項で紹介した、街中にあるナン屋(ナンバーイー)は確かにナン類しか作っていなかった。しかしそれは、例えば欧米のケーキ屋がいくら立派なオーブンを持っているからといってそこで肉や魚まで焼いて販売しないのと同じ理由だ。ケーキ屋のオーブンはケーキを焼くためにあり、ピザ屋のオーブンはピザのみを焼くためにある。
前述のとおり、インドのタンドールをさかのぼるとイランや中央アジアのタヌールにたどり着く。タヌールは現在でもイランや中央アジアで活躍する調理設備である。インドでは鶏肉も焼く設備となったタンドールは、その源流となるイランや中央アジアでもやはり鶏肉の調理に使われているのか、それともやっぱりナンだけを焼くものなのか。さまざまな国と地続きでつながっているインドは、単に行政的に引かれているだけの現在の国境線の内側だけみていてもなかなか真相までたどり着かない。タンドリー・チキンの謎を解くために、私たちは国境線の外側へと旅してみなくてはならないのだ。
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小林真樹
インド料理をこよなく愛する元バックパッカーであり、インド食器・調理器具の輸入卸業を主体とする有限会社アジアハンター代表。買い付けの旅も含め、インド渡航は数えきれない。商売を通じて国内のインド料理店とも深く関わる。
著作『食べ歩くインド(北・東編/南・西編)』旅行人『日本のインド・ネパール料理店』阿佐ヶ谷書院
アジアハンター
http://www.asiahunter.com
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