あなたは最期をどう生きるのか
医療というものをしていると人生の最期に出会うことが多い。その時にあなたはどう生きるのか、もしくは配偶者や家族の最期が見えたときにあなたはどう接するのか?
最近続いたのは寿命がそんなにないだろうな(数年)というおじいさんの喫煙だ。病気が見つかってタバコはやめて欲しい奥さんとタバコを止めるつもりのないおじいさん。この例を何例か続けて見た。
奥さんが言っていることは正しい。しかし、おじいさんにとっていいかどうかは別の問題だ。正しいとそのひとにとっていいは別問題なのだ。
これは本人にとって何がいいかは本当にわからない。本人にとっても奥さんが正しい可能性は大いにある。
僕はタバコを吸って短くとも好きに生き、苦しんで死ぬとしても好きに生きることを支持している。しかし、奥さんの苦しむ可能性のあることを止めろというのもまた正しい。
このとき、おじいさんが好きに生きるときにしてはいけないことがある。それは後悔を周りに見せることだ。自分の中で後悔するのはいい。周りに見せてはいけないし、一番してはいけないのは周りのせいにすることだ。
「なんでもっと真剣に止めてくれなかったんだ」とか「お前が止めてくれなかったから苦しんでいる」とかは口が裂けても言ってはいけない。言わないといけないことは「好きに生きれて良かった」とか「お前のおかげで好きに生きれた」などだ。
またある夫婦は旦那が糖尿病と認知症を患っている。奥さんは献身的に食事制限や運動療法を旦那に薦めてきた。料理は奥さんが旦那さんのことを考えて作っていたし、出かけるように仕向け自分も同行することも厭わなかった。しかし、糖尿病は認知症のリスクでもあるのだが、認知症になった。ドンドン進んでいきもう弱ってきている。そして奥さんは旦那さんに食べたいときに食べたいものを食べさせ、食べたくなかったら無理に食べさせない生活にした。ずっと献身的な奥さんであったが、食事に関して違う角度の献身っぷりを見せてきた。
奥さんは菩薩様かなんなのか本当にこちらが感心するばかりだ。もう色々わからないなら好きに生きたらいいと考えているとのことだった。
好きに生きるには覚悟がいる。周りの人間の縁もいる。自分にはそれだけの人生が歩めているのだろうかと考えることがある。みなさんはいかがだろうか?
最後にネットであった覚悟のあるおじいさんの話をしよう。
あるおじいさんが癌で苦しんで死んだ。一切の治療を拒み、医師も治療の意思がないのはわかったが、せめて痛みは取らせてくれと言ってもそれすらも拒んだ。家族の説得を聞くこともなくそのおじいさんは痛みで苦しみ抜いたまま死に絶えることとなる。
そして、家族はそのおじいさんの遺書を見つけるそこにはこう書いてあったそうだ。
「私は苦しんで死ぬことになるかもしれない。だが、家族は悲しまないでほしい。私なりの意地を通したのだ。
昔に孫が非常に難しい病気になった。助かる見込みの薄い病気だと聞いた。私は 何もできないので神頼みをしたんだ。「神様、孫を助けてくれるなら私の命はいらない。なんなら残り一生医療も受けない。薬も飲まない。だから頼む!孫を助けてくれ!」と。
そして、程なくして孫が奇跡的に具合が良くなった。
だから、今度は私が神様との約束を守る番なんだ。」
とのことだった。
僕はこのおじいさんをかっこいいと思った。そんなオカルト意味ないというひともいるだろう。実際意味がないことの可能性が高いだろう。しかし、それでも自分の意地を通すということに覚悟を感じる。残された遺族が必ずしもいい思いをしているとは思わない。それでもなお僕はこのおじいさんの生き方はかっこいいと思うのだ。
みなさんもご自身が、家族が、最期を迎えるときどう行動をするだろうか。