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白ごはんと家族

わたしは白ごはんが好きだ。それも実家のお米で炊く白ごはんだ。人生最後の日になにかひとつ食べられるのなら、迷わずそれを選ぶ。

うちは先祖代々、お米を作ってきた。「炊きたてはもちろん、冷めてもおいしい」と評判で、今でも多くの人が買いにきてくれる自慢のお米だ。わたしが子どものころは、曾祖母が毎日炊いてくれる白ごはんを家族みんなで食べていた。

当時、うちは4世代の8人家族だった。夕方になると、おかずの香りとともに、お米の炊ける甘い香りが家中に広がる。その香りにつられて台所に行くと、テーブルには既におかずが何品も並んでいた。狭い台所にみんなが集まってきて、全員が席についたところで登場するものが、炊きたての白ごはんだ。

一粒一粒がまっしろに輝くあたたかい白ごはんを、みんなで「おいしいなぁ」と言いながら食べた。互いにその日の出来事を伝えあったり、世間話したりしながら食べた。時に、わたしは両親に叱られながら食べたこともあったし、つらいことがあった日にはみんなに慰められながら食べたこともあった。誰かの誕生日には、母が握り寿司を作ってくれてみんなで祝った。

そんな思い出がつまった白ごはんは、わたしにとって何よりのご馳走なのだ。そして家族と過ごした何気ない日常の記憶は、こころにしっかりと刻まれていて、思い出すたびあたたかい気持ちにしてくれる。

今ではその白ごはんを、夫と娘の3人で食べている。

わたしたちは、特別養子縁組制度によって結ばれた家族だ。生後2日目に出会った娘は、この春で1歳になった。今でこそ「わたしがこの子の母親です」と胸を張って言えるが、そうなるまでに1年くらいかかった。

わたしには「自分は産んでいない」という劣等感があった。同時期に出産した友人は、母親としての自信に満ちていて、たくましくて、とても輝いているように見えた。十月十日や出産を経験していない自分に、母親だと名乗る資格はあるのだろうかと思うこともあった。それでも、「今この子を守れるのは、わたしだけなんだ。しっかりせなあかん」と自分にげきを飛ばし、早く母親としての自信を持てるよう日々の育児に励んでいた。

そんなある日、親戚のひとりにこう訊かれた。

「本当のお父さんお母さんとは、連絡とってるの?」

母親になろうと必死だったわたしに、「本当のお父さんお母さん」という言葉が鋭く刺さった。もちろん、親戚が発したその言葉に深い意味はないとわかっていた。しかし、その時となりで娘をあやしていた夫を見て「この人は『本当のお父さん』じゃないってことか」と、やるせない気持ちになった。そして、わたしは頑張っても『本当のお母さん』になれないのかと悲しくなった。

「わたしたち夫婦は、どれほど娘を愛しても周囲からは『本当の親子』と思われへんのか」
「わたしたち家族は、『本当の家族』になられへんのか」

そんなことを考える日々がしばらく続いた。


数か月経ったある日、夫と娘がソファーで昼寝をしていた。仰向けで寝ている夫の胸に頬をくっつけて寝る娘。まるでトトロとメイちゃんのような2人の姿に、わたしはおもわず微笑んだ。そして、ふと思った。

「この2人だって本当の親子やん。これが本当じゃないなら、何が本当なのかわからんわ」

娘は毎日、帰宅する夫を笑顔で出迎えにいく。夫は、毎晩寝かしつけに付き合ってくれて、娘が眠りにつくまで傍にいる。わたしたちは毎日一緒に遊んで、いっぱい笑って、ソファーでだらだらしながらテレビを観て、おいしいご飯を食べて、夜は川の字になって寝る。

わたしは子どものころの記憶を思い出し、ようやく気付いた。

家族にとって大切なことは、共に過ごす時間だ。そういう記憶が自分のこころに刻まれているじゃないか、毎日みんなでご飯を食べたあたたかい記憶が。あの日々があったから、共に過ごした何気ない日々の積み重ねがあったから、家族だったのだ。それが、わたしにとって「本当の家族」なのだ。

だから、娘を産んでくれたお母さんも、毎日娘と共に過ごしているわたしも「本当の母親」だ。夫と娘とわたしは、「本当の家族」なのだ。


人は「本当のこと」をひとつに絞ろうとすることが往々にしてあると思う。「真実はいつもひとつ」という名台詞もあるくらいだ。けれども、実際はそうじゃない気がする。人の数だけ「本当のこと」はあるのだと思う。

そして、家族の数だけ「家族のかたち」はある。同性カップルの家族、里親制度や養子縁組制度、あるいは再婚や事実婚によって結ばれた家族など、どんなかたちでも「本当の家族」なのだ。


今日も、お米の炊ける甘い香りが家中に広がっている。娘が帰宅した夫を出迎えているあいだに、わたしはテーブルにおかずを並べる。そして、夫と娘が席についたら、炊きたての白ごはんを持っていく。娘はスプーンですくった白ごはんを、大きく開けた口にはこぶ。夫は「おいしいなぁ」と言いながら娘に微笑む。

わたしはそんな2人を見ながら白ごはんを味わい、このうえないしあわせを感じる。

きっと、これから喧嘩したり、叱ったりしながら食べることもあるだろう。それでも、一緒に過ごすこの日々が、いつまでも娘の記憶に残ってくれたら嬉しい。

同じ釜の飯食えば、家族だ。

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