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「鷗外とその家族」について(2023)

二年目に突入した「鷗外とその家族」の紹介と今年の抱負


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子供の頃「天才バカボン」の再放送で、何とも美しい文体で世の女性を虜にしている小説家がいた。バカボンのママも心酔者の一人で、作品を胸に抱いてうっとりし、その世界観がわからないパパはママから小言を言われてしまう。その後表へでたパパは、通りでゴミを漁る歩浮浪者のような男をみかける。ゴミ探しを手伝い、仲良くなって家までついていくと、何とその男がママの愛読している本の作者であった。男は散らかり放題の汚い部屋で数々の美しい文章を生み出していたが、スランプに陥っており、パパに部屋を散らかすよう頼む。パパが部屋を汚し始めると、再びどんどん筆が進むようになる。オチは、パパが敬愛する作家先生と懇意にしていると知ったママが、作家の留守中に部屋を掃除してしまう。「先生にきれいな環境でもっといいものを書いて頂こうと思って」。すると作家は途端にダメになってしまい、最後はうんうん唸りながら、何を書いても下品な表現しか出てこなくなる…。数あるエピソードの中でもこの話だけを覚えているのだから、よほど強烈だったのだろう。作家というものの本質を痛烈にあぶりだしているように思う。

最近、何かの折にこの話を思い出し、ふと「この話は森茉莉をモデルにしたのでは」という、楽しい妄想におそわれた。

森茉莉は森鷗外の長女として育った幼少期、裕福な結婚時代を送った20代を経て、人生後半はアパートに独居し作家として活躍した。狭い部屋はカオス状態。部屋を訪れたことのある黒柳徹子は、もし撮影のセットで再現するとしたら、一体どれだけの紙類が必要なんだろう、と驚きを回想している。しかしこの部屋で茉莉の美の世界は煮詰められ、数々の小説やエッセイが生まれた。老齢や不便な生活を心配した身内や知人から、よそへ移ろうと提案されたこともあったが、文章を書くためにはこの部屋が必要だからと固辞し、自室で84年の生涯を閉じた。


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鷗外とその家族に興味をもつようになったのは、そんな茉莉の著作、特に最晩年のエッセイシリーズ「ドッキリチャンネル」を通してである。

茉莉の作品には様々な側面がある。ボーイズラブの祖とも言われる同性愛小説に見られる清潔感のある官能的な世界。貧乏なアパート暮らしにおける精神の「贅沢」をうたったエッセイなど。それらに加え「ドッキリチャンネル」には笑いの要素が色濃く、私を魅了する。これは最後の長編小説を完成させた後の雑誌連載ということもあり、それまでの美しいがまどろっこしい文体とは異なり、流れるようにさっと書かれ、スピード感ある中に鋭い感性がキラっと光っている。読みやすい文章で自身や家族の姿が面白おかしく描かれ、見知らぬ家のことなのによく知ったような親しみを覚えた。そしてもっと知りたいと、他の親族の書いた鷗外や家族に関する本にも手を伸ばしはじめたことが、この「鷗外とその家族」シリーズへと繋がっていった。


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茉莉以外の家族による著作を何冊かを読了し、千駄木にある鷗外記念館を訪れたあたりから、ぽつぽつと色んな考えが浮かぶようになった。もう少し調査を続けてから書こうかとも思ったが、ほとんどの本を図書館で借りていることもあり、返すタイミングでその時の自分の視点をnoteに記録することにした。そのためこのシリーズは完成形の記事というより、現在進行形の調査ノートを公開しているような色合いが強い。

読書や調査を進めていくと、鷗外研究だけでなく、身内や作家による一家に関する書籍や記述が既に多数存在していることを知り驚かされる。その過程で、理想化されていない各人の人物像や家族の姿も徐々に知ることとなる。特に鷗外の子供たちは四人全員が優れた書き手であったため、それぞれが鋭い視点でお互いを描きあって、読んでいて疲弊することがある。加えて家の外にも、それも現在まで多数の書き手がいるために、個性的かもしれないが、鷗外の家ということをのぞけば平凡ともいえる一家の、光と影が必要以上に浮き彫りにされることとなった。

鷗外の最初の妻の子である長男・於菟(おと)は、生後間もなく母と行き別れ、新しい母親(茉莉の生母)からもあまり好かれなかった。父との交流も少なく、孤独な側面もあったが、反面しっかりものの祖母(鷗外の母)に育てられ、順調に自立ができた。一方、鷗外の二番目の妻と子供たち(茉莉、杏奴、類)は、鷗外という傘に守られ、家庭的、経済的には恵まれていたが、鷗外の死後、社会で自活していくには困難が伴った。どの人物にも、他人があきれたり怒ったりするような思考、言動、性質などが見受けられ、世間から孤立してしまう。

そんな姿を夢中になって追っていると、深入りしすぎたかも…と暗い気持ちになるような時もある。それでもまたそこから一歩引いて眺めてみると、この一家に関する多くの書き手や読み手がいるのは、ファミリーメンバーの強すぎる個性や弱さを自身のものと重ね合わせ、もがきながらもそれぞれのペースで成長し、自らの人生を獲得していく姿に惹かれるからではないか。そして一家の者たちには文章での表現力も含め、やはりそうさせるだけの感性が備わっていたのではないか、と思うようになった。


2023年は、第三者の視点(著作や調査)に触れながら、時代への理解も深めつつ一家の姿を描いていきたい。

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