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会話のむずかしさの根底にあるもの

私の 父も 母も
主語のない と言うか…んー…

父→脳内ひとり言?の途中から語り出す
母→言-他人軸/動-自分軸 的な矛盾あり
といった表現をとるところがあった。

主語がないと文脈で迷走する私にとっては、
両親のこれが何より辛かった。

母は多分 父の癖を把握し 読み取り
ある程度を尊重しながら対応していた。
ストレスが発生しているのを 全てかみ殺しながら
(ストレートに言わず) 無言でドンバンと圧で表現していた。

父は 周囲の空気の変化を察しつつ
"面倒" "言われなければ自分は無関係" と 割り切り
一切反応をしなかった。
(最近の 私との言語化で分かって来た 後日談)

お陰で 子どもだった私達きょうだいは
常に "私かもしれない" "多分あれだ"に怯え
確認できない不安や "なんで?"からのイライラを 互いに抱き合い
ぶつけ合ったり 塞ぎ込んだりしていた。

母から発される空気は "恐怖感" となり
元々ヘタクソな 言語化の種は 更に縮こまり
[確認する] という選択肢は ハナから 存在しなかった。

段々と 主語のない 言いっ放し 打ちっぱなしの
コミュニケーションの方法が 当たり前となり
"繋がりたいのに繋がれない"
"でも確かな核" みたいな場所だった。

不思議だけど
数年前に母が亡くなって以降
読み取る要の空気がなくなり
それぞれの間接自己分析のような 言語化が始まった。
母を大事にしたい反面と ぶつけられなかった想いの愚痴と…
今でもまだずっと 終わらない。


きょうだい間で 私1人が 実家傍に残り、長く接する中で
父・母の細かな癖や ズレの理由も把握できるようになった。

更に子どもを授かり別所帯を築いた以降は
多少なりの線引きを持った会話も
いくらかできるようになっていった。

母が要介護になった期間に
父と 様々の情報の共有と 協力体制を取らざるを得ない状況になり
まさかの 1番不器用な2人の組合せの中

時間や体力の限界を超えながら
いかに互いを荒立てないで済むかに集中しながら
とにかく言葉や表現の工夫を模索し 色々と試した。

パニックを押し殺しつつの 感情の乗らない私の言動では
元々狭いマイルール文脈&解釈癖の上 まぁまぁ高齢の父は
よく混乱し 噛み合わずの不要な喧嘩になりやすかったため
情報は都度ホワイトボードで共有したり
ルーティーン化しやすいものを父担当とすることにした。

娘は 私の静かなパニックを読み取っていたのか
自分にできそうな事を模索 担当し 私に報告してくれていた
(この間は 預かり保育に本当に救われた)
その姿は たまらなく愛しく 頼もしく
切なくて  立ち止まる余裕のない私は
都度 渾身の"ありがとう" で返しながら
自分の娘にほとんどかまってやれない 不器用な自分を責めた。

また コロナ禍で母に会いに帰る事が叶わず
歯がゆい思いをしている きょうだいや 親族の分まで
母の心根の分まで
何とか聞いて遺したい と考えながら
余計な煽りや齟齬が生まれるのを防ぎ 聞き逃しを防ぐため
自分は極力言葉少な目に確認だけしながら
毎晩ボイスレコーダーを ちまちまと回し続けた。

自宅での介護を切望した母も ついに急性肺炎を患い
いよいよ昏睡状態で運ばれ 入院となった以降
色んなアクセスを300%くらい振り切りながら こなしつつ
(なぜこなせていたか 未だ謎)
付き添いでいる間 録音した音源を文字起こしし 文脈を辿りながら
改めて母の癖も辿り
最後の最後まで 自分を主語にせず語っていたんだなぁ…と気づいた。

よく人は  何でもマルチにこなし
人当たりの良かったらしい母を 褒め称えたけど
素の自分をゆるせていない矛盾した母を感じていた私は
内心では "すごい"と思うことができなかった。

表向き善を語り 行動を取りつつも
どこか苦しく 苦そうな内面を抱え
それを間接的に 私に (主語を私にして) 吐き出していたように思う。

それを リアルに 辿れた経緯のおかげで
私は 母の感情の入り混ざった 自分の中の"自己嫌悪"を
少しずつ整理することができ
それらを "母の分"として 切り離すことができた。

きょうだい達は 多分まだ
それができずにいるのかもしれない。

もう少し 時間がかかりそう。


『 物事を通し 何かを感じ  発言したくなった時
  あらぬ混乱や こじれた解釈 傷を生まないで済むよう
  必ず主語を自分に置き換え 自分自身を辿り 捉える  』

これに 拘り つぶやきとして書き続け
自分自身に 言い聞かせ続けてきた理由は
この辺かなぁ
今は そう思っている。

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