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同じ境遇の子どもたちのために「声なき声をつたえたい」女子高生シャロンさん

つらい思いをしたからこそ、同じような境遇の人の力になりたい。つらい思いをしているのが子どもたちであれば、なおさらそう思う人は多いのではないでしょうか。

高校生(当時)のシャロンさんも、そんな一人です。

(写真:地域でエイズ教育のための活動をするシャロンさん)

幼いころに両親をエイズで亡くしたシャロンさんは、元気な自分の姿を地域の子どもたちにみせることで、同じ境遇の子どもたちを勇気づけること、そしてボランティア活動を通して子どもたちの力になりたいと願っています。

「わたしにできることは、すべてやりたい。」と話すシャロンさんは、「両親の死を乗り越えて前に進む女の子」として、強い人に見えるかもしれません。でも、わたしはシャロンさんとともに活動する中で、弱さも強さも目の当たりにして、ありのままの彼女の美しさ、人間らしさを知りました。

自身の経験を受け止めながら、同時に誰かのためになろうと奮闘するシャロンさんの姿をお届けします。

しっかりもののシャロンさん

シャロンさんと出会ったのは、2006年の夏。確か7月の末か、8月初めの頃でした。

当時PLASは、ウガンダでエイズ孤児が通う小学校の建設をしていました。その中で、「国際ワークキャンプ」と言って、ウガンダ人と日本人が共同生活をしながら、2週間から3週間、ボランティアを行うという活動をしていました。シャロンさんもその参加者の一人でした。

シャロンさんはしっかりもの。買い出しに行けば、「これは高いから、安い方を買おう」とか、「肉を抑えて、食費を削ろう」なんて話しでよく盛り上がったものです。

わたしは「エイズ孤児のためにボランティアをしようなんて、意識の高い高校生だなぁ」と感じていました。PLASの国際ワークキャンプに参加するウガンダの若者の中には、大学生などいわゆる「エリート」の学生もいて、きっと彼女も、そんなタイプなのかな、と思っていました。

「実はわたしは、両親がいないんだ。」

ある時、二人で話していると、彼女が、いつもの調子でゆっくりと、しゃべりだしました。

「実は私、お父さんもお母さんもいないんだ。」

ウガンダで両親がいないことは、そんなに珍しい話ではありません。突然の話に驚きましたが、あまりびっくりするのも、失礼だと思って、私は冷静さを保っていました。

「そうなんだ。」

「エイズでね。」

私は、何にも言えずに、彼女をじっと見ていました。話してほしいけど、でもだからと言って、ずかずか踏み込める話でもない。

「そっか。」
としか言えず、沈黙が訪れそうになったとき、彼女が話しだしたのです。

「だからPLASのボランティアに参加したの。エイズ孤児のためだって聞いて。わたしもエイズで親を亡くして、すごく悲しい思いやさみしい思いをしたから。私はおばさんの家に引き取られて、高校にも行けるけど。地域には、小学校にも行けない子どもがたくさんいるから。」

(写真:学校建設の作業の様子)

はじめてシャロンさんの境遇と思いを聞いて、ここにこうしてシャロンさんがいてくれることに、感謝が溢れました。

「そっか。ありがとう。きっと、シャロンにだからこそ、子どもたちに寄り添えることがあるんじゃないかな。シャロンだからこそできることが、きっと、今の、この活動の中にもちゃんとあるよ。
話してくれてありがとう。一緒に活動してくれてありがとう。」

それから、シャロンさんとわたしの距離はぐんと縮まって、わたしを姉のように慕ってくれるようになりました。

シャロンさんが救った一人の男の子

ある時、シャロンさんが小さな男の子を連れてきました。いつもは、おっとりしゃべりだすシャロンさんですが、この時ばかりは、違いました。

「るい、この子はね。」と、わたしににじり寄らんばかりに、真剣なまなざし。

男の子は、デリックと言って、この近所の子どもで、エイズ教育のワークショップの宣伝のために、地域でビラをまいていたら、話しかけられたそうです。学校に行っていいないといいます。

なんでも両親がエイズで亡くなって、おじさんおばさんの家に引き取られたのですが、家の子どもの中で、デリックだけが学校に通えないのです。

そして「学校に行きたい」と、デリックは、真剣な目で訴えてきました。

彼が学校に行きたくても、保護者に行かせる気がなければ、結局通えないことになってしまうので、まずは保護者に会わなきゃね、と二人に話しをしました。

それからのシャロンさんは、デリックのために奔走しました。学校のスタッフと共にデリックの家庭を訪問し、学校に通わせることを保護者に承諾させたのです。その間、デリックを励まし続けてくれました。

こうして、シャロンさんはこの夏、一人の男の子を救ったのです。

「できることは、すべてやりたい。」

シャロンさんが一人の男の子を救った2006年の夏の翌年。
わたしは再びシャロンさんと活動を共にしていました。

わたしは十数名の日本人のボランティアとともにウガンダを訪れていました。日本からのボランティアのメンバーに、シャロンさんがゲストスピーカーとして、自分の体験を語ってくれることになったのです。

エイズ孤児の問題は、とても見えにくい。
エイズ、貧困、差別、教育の欠如…さまざまな問題が複雑に絡み合っています。個人の体験として問題を知ることは、とても大切だと、わたしもシャロンさんも考えました。

何が起きているのか、自らの体験を語ることで、現実を伝えたい。だから「わたしにできることは、すべてやりたい」とスピーカーを快諾してくれました。

シャロンさんの涙

いよいよ当日がやってきました。
夜になり、みんなでリビングに集まります。

シャロンさんが、静かに語りだしました。

幼いころに両親がエイズでなくなったこと。
その後おばさんに引き取られたこと。
学校でエイズのことでいじめられたこと。
今は高校に行っているけど、おばさんのビジネスがうまくいかなくなれば、まずシャロンが学校を辞めなければならないこと。
そして、お父さん、お母さんがなくなってしまい、寂しい思いをしているということ。

そう話した彼女は、突然泣き出してしまいました。

その場をスタッフに託し、涙が止まらないシャロンさんの肩を抱いて、外に出ました。
星の見える玄関先で、泣きじゃくるシャロンを抱いて、わたしの気持ちもぐちゃぐちゃでした。心配した一人のメンバーがやってきて、一緒にわんわん泣き出して、わたし自身も泣きそうでした。

どれくらいの時間そうしていたのかはわからないけど、二人は落ち着きを取り戻し、リビングに戻りました。

「話してくれてありがとう」
日本からのボランティアが、シャロンさんと次々に握手しました。

子どもたちのために声なき声を届けること

シャロンさんは、後日、わたしに話の続きをしてくれました。

自分がエイズで親を亡くしたからこそ、そういう子どもたちの力になりたい、そのために、ジャーナリストになり、声なき声を報道したい、と。

「だから、あの日みんなの前で語ることができたのは、自分にとってとても大切な経験になった。泣いてしまったけど、話せてよかったよ。」

わたしたち外国人がアフリカでできること

あの夜、満天のアフリカの星空の下、泣きじゃくるシャロンさんの肩を抱きながら、いろんなことを考えました。

悪いことをしてしまったかもしれない。
泣くほどのつらい思いをさせてしまった申し訳なさと、それでも彼女が自分自身で「伝えたい」と、選択したことだから、彼女が自分で折り合いをつけていなければならない問題なのだという、二つの思いが、わたしの頭の中を行ったりきたりしていました。

ただただシャロンさんの涙を拭いて、肩を抱くことしかできない自分がもどかしく、ちっぽけな自分に無力感を感じていました。

きっと、外国人である私には、到底わからないことが、このアフリカの地に大きく横たわっている。
わたしは日本人で、いくらアフリカが大好きで、ここで活動したいと思っていても、ここで生きているのは、シャロンさんをはじめ、この地の人々なのです。

「わたしにできること、地域の人にしかできないことがある。」

二人の涙を見て、わたしも泣きたい気分でした。涙もにじんで、息が苦しくなりました。でも、なんだかわたしが泣いたら、失礼な気がしたのです。

この地に生きる人が、どんな未来を描いているのか。
きっと、その未来は明るい。
未来を描くのは、この地の人たちで、それに寄り添うように共に歩んで生きたいと、そう強く思いました。

今でもこの思いは変わりません。HIV/エイズに影響を受ける子どもたちが未来を切り拓くことができる社会を実現するために、地域の人たちが、地域を変えていく。このお手伝いをするのが、わたしたちの役目です。

(写真:真ん中がシャロンさん、右から二番目が門田)

★★★

PLASはシャロンさんのようにエイズによって親を失ったエイズ孤児たちが自分らしく前向きに人生を切り拓くことができるよう活動を行っています。これらの活動は寄付によって運営されています。

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