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ノベルティの記憶 #忘れられない一本

引出しをあちこち探したり、PCやスマホの写真データを時間をかけて全部見返したけれども、見つかりませんでした。忘れられない一本、真っ先に浮かんだあのペンが、・・ない。

施設を見学した時にもらったシャープペン。記憶のなかで生き続けているのは、軸はエコ素材をうたい、グリップに黒いラバーが付いた、どこにでもあるノベルティグッズとしてのシャープペン。軸にはその施設の名称が細めのゴシックで印刷されていて、よく見ないとそれと読めないほどに、すべて漢字でした。

「 東京電力 福島第一原子力発電所 」

いまでも存在するけれども、もう無くなってしまったような、そんな施設。

そこは、20年以上前、僕が高校生の時に見学に訪れた場所です。現代社会という名前の科目の、”自己研究”のテーマとして「原子力発電所」を挙げ、研究活動のひとつとして現地見学を行ったのが、福島第一原発でした。ほんとは”班研究”だったのに、僕が選んだテーマには誰も班員が集まらなかったという寂しい経緯があります(笑)

僕は吹奏楽部に所属していたのですが、夏休みはコンクールや定期演奏会を予定しており、ほぼ毎日練習でした。たった一日の休みが、コンクールの関東大会の翌日に設けられることになり、夏休みの課題として見学を実施するために現地に向かったのです。あとから知りましたが、現地見学をまともにやっている同級生はとても少なく、ある友人は、この時のエピソードを「典型的に真面目な友人がいて・・」と多方面で語っていたというほど、当時の僕は真面目な高校生でした。

早朝、自宅の最寄り駅から東京駅に向かい、東京駅から福島を目指して特急に乗り、途中で乗り換えて、双葉駅に到着しました。駅前は閑散としていて、地方の駅前の雰囲気という感じでしたが、「ようこそ原発がある町へ」といった感じの看板があったように記憶しています。

僕は、違和感を感じていました。

原発は、街にとって疫病神のような存在ではないかと疑っていたのです。名所や旧跡でもなく、観光地的な華やかさもない原発が、さも素晴らしい施設であるかのような扱いは、関東圏への電力大供給地帯という自負なのか皮肉なのか・・。現地の雰囲気は、「たまたま原発が出来た土地」という僕の予想とは異なり、「原発で町おこしを頑張ってます」、みたいに危なっかしい前向きさを感じたのです。

今では考えられないことですが、見学当時は「静かで環境に優しい」原子力発電所が日本のあちこちに作られていました。

現地に向かう前に、駅前でみつけた喫茶店に入り、ミートソーススパゲティを頼みました。オレンジ色の見慣れたミートソースの足元には、生クリームが皿のふちの模様のように飾られていました。長年の工夫なのか、こだわりなのか、初めて見るミートソーススパゲティでした。お店のおばちゃんが「え?東京から?!原発、見に行くの?勉強かぁ、そらいいねぇ。がんばってよぉ。」と言ってくれたのがとても嬉しかったです。

タクシーに乗って原発を目指す車中で、「原発のおかげで私たちも仕事があるからねぇ」と、単なる高校生に向けて話してくれたのを覚えています。見学前に出会ったお二人の話だけでも、地元にとって原発は大切な存在になっているように感じられました。実際、悪く言う人はすでにその地域から出て行かざるを得ないほどに、暗黙知やコミュニティが形成されていたのかも知れないと、いまならわかる気がします。

現地には見学センターという施設があり、概要を説明したり、模型を見たりするのですが、実際の原子炉建屋への見学希望も伝えており、快く見せてくれることになりました。また、あわてて準備したこともあって、施設側としっかり打合せが出来ていなかったことが逆に幸いしたのか、普段は見られない(らしい)中央管制室も見学した記憶があります。担当された方の名前も顔も覚えていませんが、どの施設にも働いている方がおり、動いている車がありました。

原発の敷地は広大で、見学当時は、東京ディズニーランドが4つ分といった説明を受けました。思ったよりも木々が多く、緑の多い場所でした。工場のように配管が走り、大きな建屋がそびえたっていました。特に、原子炉建屋は、外観の印象を緩衝させるためのデザインを施した塗装をしているとかで、大小さまざなひし形が重なったような、あの特徴的な模様は当時からありました。

原子炉は4つあるけれど、1つは長い期間をかけて点検するため、常時稼働しているのは3つだけという説明ののち、建屋内の見学をしながら実際に稼働している原子炉(だったはずです)の上に立たせてもらいました。確か第1号炉だったと思いますが、その記憶は曖昧なのでこの辺でやめておきます。

安全のため、小さな放射能測定器を常に首からさげ、見学時に配られたキャップや軍手を、見学の最後に放射性廃棄物処理の箱に捨てたのが印象的でした。

地元の小学校では社会科見学だけでなく、遠足の地としても利用されているような話を聞きました。地域にきちんと溶け込まなくては、という意識があったのです。今では当たり前の意識とも言えるのですが、当時はそういう視点が新鮮に感じられて感心したものです。少なくとも、地元には原発で働いている方も多くいたし、働く場所として期待され、誇りと思っている方もいたはずです。

大きな施設で、しかも多くの人が存在を知っているけれど、見学に行ったことがある人はとても少ない施設。今なら、そんな場所に見学に行こうと思うことこそ、過激な思考だと判断されかねません。福島に限らず、原発では見学の受け入れもしていないかもしれません。

見学を経てレポートを書いた時には、すっかり原発周辺の印象は抜け落ちていましたが、「工場のような見た目だけれど、工場とは違う、淡々としてとても静かな場所」だった原発の、何となく不安な印象を書きました。もう詳細は忘れてしまいましたが、「原発の技術には安全性が担保されていて、二酸化炭素が出ない(当時は環境問題のほうが活発に議論されていた)という利点からも、原発が必要だと思う。」という文章を編んだ記憶があります。

ペンは、もらってからずっと大切に保管されていたというわけではなくて、たまたま出てきたのです。実家なのか、僕がどこかに持っていたのか覚えていませんが、気がついたら使っていて、その時のノベルティだったのです。資料はすでに手許になく(本当に行ったことをアピールするため、課題の提出時にすべて添付した)、現地見学で手に入れた物はそれしか残っていなかったのです。

施設の存在は、あの地震や事故が起こってしまって以来、福島にとどまらず日本の大きな損失となっています。それまで、外国の地名とともに語られていた、制御不能に陥ってしまった原発の恐ろしさ。それが、自分が訪れたことのある場所が、発生源となってしまう衝撃。原発で働いていた方々や、町の方々の暮らしは、どうなってしまったのか。あの喫茶店のおばちゃんは、安全に避難できたのだろうかと不安に駆られることもありました。

見学者が、あのシャープペンを受け取ることができる日は、もう来ないのでしょうか。

忘れられない一本。

日本の転機となった場所の記憶とともに。

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今回の記事は、こちらの募集記事を受けて書いてみました。この記事の関連で、サイドノック機構のシャープペンを語る社員の方の記事は「圧巻」です。ぜひ、読んでみてほしいです。

社員の方との熱量は比べるべくもありませんが、僕にとってシャープペンはそれぞれに思い出があります。いつか、あのときの記憶を書いておきたいと思っていた原発でのこと、シャープペンをきっかけに書けるかも知れないと思い、少しづつ重ねていきました。

原発で働いていた方や、町の暮らしがあったという記憶を持つシャープペン、また手許に戻ってきてほしいです。

読んでいただき、ありがとうございました。

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