【遺稿『笑窪』】

呼ばれたような気がしたので窓の方を見た。
鳥が一羽木の枝に停まっていた。
声をかけようとしたが僕と目が合うと首を傾げ直様何処かへ飛んで行ってしまった。
見えなくなった鳥の残像に夜が明けたことを知る。彼ら、鳥や夏に啼く蝉は規則正しい生活を送っており、いつも4:30頃に朝を告げる。これは僕が35年間生きてきて身につけた知恵のひとつだった。
一晩中降っていた雨はいつの間にかあがり、雨樋に吸い付く雨粒の残滓が朝日に照らされていた。窓を開ける。3日ほど前から急に重くなったように感じる。業者を呼んで診てもらわなければならないだろう。
窓の建付けに限らず、物事の不調や不幸は忽然と顔を見せるのだから憎たらしいものである。風は穏やかだった。まだ肌寒さの残る朝に洟を啜る。窓を開けたままにし、部屋を出る。
座りすぎたせいか足元が少し覚束無い。
階段を降り、台所に向かう。
「あら、おはようございます」
美好が朝餉の用意をしていた。
"みよし"という響きはどうも苗字のようだが彼女の苗字は伊原という。僕と同じである。
「おはよう。コーヒーはまだあったかな」
「御座いますよ。インスタントで宜しければ」
「結構。後で部屋に持ってきてくれるかな」
「分かりました。」
美好は笑うと笑窪の出来る可愛らしい女性だ。
美好の背中に今日も世界が続いていることの有り難さを噛み締め厠に向かう。
台所を出る際時計を見ると4:35を指していた。
やはり鳥たちは頼りになる。
厠で用を足し部屋に戻る。
一晩を共にした文机に再び向き合う。
原稿用紙にはマス目だけが延々と続く。
〆切は3日後に迫っていた。
大きな額に浮かぶ汗をハンカチで拭う編集の突き出た腹が目に浮かぶ。
どうにかあと5頁、筆を進めなければなかった。物語も佳境に入った。
阿嶋と紫峡の決闘の勝敗を決める場面である。
結末までの道筋は見えているのに、どうもいい流れを掴めない。
今回の作品は可成りの難産だった。
処女作で或る高名な賞を得、鳴り物入りで文壇に上がった伊原新嘗。その作家人生最大の難関に差し掛かっていた。
最初の〆切は2週間前だった。
原稿が出来上がっていないと告げた時編集のニタニタ顔は僅かに戸惑いの色を滲ませたが、来週までにお願いしますと突き出た腹を震わせながら帰っていった。
次の〆切は4日前でまだ出来ないと云った時、編集の顔には僅かにイラつきが見えたが、ニタニタ顔は最後まで崩れなかった。
今回の〆切を延ばせば次はないだろう。
流石の編集も初めて真顔を見せることは目に見えていた。彼は僕より幾分、歳が上だった。
先日40を迎えた初老もサラリーマンであることを忘れてはならない。
若造が、と罵声が降り掛かってくることは避けられまい。もとよりあまりいい噂の聞かない編集だった。
彼と穏やかな関係を続けるには、どうにかして目の前の紙に2000文字程書き込まなければならない。
阿嶋は何故、さっさと紫峡を打ち倒してくれぬのだろうかと、苛立ちさえした。
お前は、その先に幸せが待っているのだぞ、早く倒してしまえ。そう念じてさえいた。
部屋の扉をノックする音がした。
編集め、もう来たかと身構えたが、美好がコーヒーを盆に乗せて現れた。綺麗な笑窪と共に。
「お持ちしました。」
「おや、ありがとう。そこに置いておいてくれ。」
僕は、机の脇に置いた飲み物用の台を指した。
以前、コーヒーを零し、原稿を台無しにしてからは台を別に用意してある。
「朝食が出来上がったらまたお呼びしますね。」
僕の傍に来てコーヒーを置いた美好が云う。
綺麗な笑窪と共に。
「ありがとう。」
僕は美好の笑窪に指の腹で触れ微笑む。
美好は盆で顔を隠し、小躍りしながら部屋を出ていった。その後ろ姿に、世界の平和なことを願う。
美好の淹れたコーヒーは美味い。
彼女はバリスタとしても成功していただろう。
彼女は僕の許に来る前、銀行員をしていた。
大学院を出ていたため、頭の良さでいえば僕よりも上だった。
その彼女が僕と一緒になってくれたことは、手に余る幸福だった。もとより僕の作品のファンであったと云う。
美好のコーヒーのお陰で幾許か頭が冴え戻り、頭の中で阿嶋が動きを見せた。すかさず筆を走らせる。互いの刀の鍔が競ったあと阿嶋が反撃の兆しを見せた。紫峡の猛撃を悉く交わし、その懐に一太刀入れる。
たじろいだ紫峡の額にもう一太刀振りかざし、喰らった紫峡は後退り谷底へと落ちて行った。阿嶋は肩で息をしていた。
刃に付いた紫峡の血を拭き取り鞘に納めた。
後に「幽霊峡谷の交わり」と呼ばれる阿嶋京助の名決闘である。
阿嶋はその後、村に戻りお彩と結ばれる。
凡そ、15枚に渡る草稿は予定枚数を少し超過したが、なんとか書き上げることに成功した。
2週間に渡る激闘に終止符が打たれた。
後半は興奮のあまり、手が震えだしたほどだ。
後で出版社に電話を入れなければ。
編集も満足気なニタニタ顔で取りに来るだろう。すっかり冷めてしまったコーヒーの残りを飲み干す。これで暫くは美好のコーヒーともお別れになる。「飲みすぎは体に毒ですよ」と美好は執筆期間中以外はコーヒーを淹れてくれない。一緒に暮らすようになった当初は僕の呑むコーヒーの量に吃驚していた。
いつしか、怖い顔で責められるようになったので僕は美好の笑窪を守るため言いつけを聞くようにした。
今回の話が順調に出版されたら旅行にでも行こう。夏頃だろうか。向日葵の綺麗な所に行って、美好の笑窪に目いっぱい触れよう。
余りにも眩しすぎて目が潰れるかも知れないが構わない。最後に見た景色がそれならば、どんなに幸せだろう。
もうすぐ、美好が朝餉の準備を終え呼びに来るだろう。それまで少しばかり仮眠をとろう。
目が覚めたら朝餉を食べ出版社に連絡し、美好と旅行の計画を練ろう。
その前に一緒に買い物にでも行こうか。
久しぶりの休暇だ。
美好の嬉しそうな笑窪が瞼の裏に張り付いて消えそうにない。

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