見出し画像

面倒くさがりが思うこと。

私はとてもとてお面倒くさがりだ。
中でも面倒だなと思うのはLINEだ。
特にグループLINEはどんどん流れてくるし、いちいち見るのも返すのも面倒くさい。

メールは割とすぐに返すけど、LINEとなるとプライベート感が強く、どうも苦手だ。だから出来れば仕事はメール、LINEはプライベートと分けたい。
何なら、仕事はLINEでなくSlackにしてほしい。

人間関係ってものは元々面倒なものだ。
でもそこを上手くやっていかないと成立しない。

昨日、カミュの『異邦人』のことについて書いたが、主人公は自分のことに対して干渉してもらいたがらない。
自分と社会や人との境界線を分けている人だろう。
そして起こった出来事に対して、冷静に事象としてのみ見ている。
でもその本を読んで、私も結構そういうところがあるかもしれないと思った。


子供の時に母親にお遣いを頼まれてよく1人で行っていた。
スーパーでざっと目当ての品を探してみるけど見当たらない、あるいは探すよりも店員に聞いた方が圧倒的に効率的だと、はなから探しもせずに店員さんに聞いていた。

都内のデパートで迷子になった時、周りを見渡しても母はいない。
大型のデパートで探すのは困難だし、それこそ非効率だ。
そこでインフォメーションのお姉さんに母が見つからないことを伝え、呼んでもらった。すぐに来た。

まだ幼稚園の頃、よく母に怒られて「そんな悪い子は出ていきなさい!」と言われた。即家を出た。出て行く時に「出て行くんじゃない」と正反対のことを背中に掛けられながらも出た。
子供ながらに、“出ていけって言われて出たのに、どっちやねん”と思った。
とりあえず近くの駅まで歩いた。暇だった。帰った。とりあえず謝った。

これまた幼稚園くらいの頃、またしても母に怒られ今度は洗面所に閉じ込められた。
でも鍵を掛ける所は自分側にある。
鍵をかけた。
「開けなさい!」
…………。
母を馬鹿だと思った。

中学生の時。
冬になると寒くて、スカートを履いてる私たちは底冷えをして寒い。
そこで膝にブランケットを掛けて授業を受けていた。
ある時、数学の先生が「ブランケットを掛けるのはダメだ」と言ってきた。
確かにキャラもののブランケットだったから、派手はものはダメということかと思い、「では無地のものだったらいいですか?」と聞いたら、それもダメだと言う。
どういう理屈でそう言ってるのか分からなかった。
私はその場で、“スカートのため男子よりも寒いこと。冷えることでお腹が痛くなったり、そもそも生理だと足が冷えるだけで腹痛になること。無地ならいいと言うのは分かるが、ブランケット自体ダメという理由が分からないということ。制服でスカートを履かせてるくせに、ズボンを履いてるあなたに言う権利がないこと。”
そんなことを言ってやった。
そもそもそんなことを言ってくるのは普通にセクハラだと思った。
そして難なくOKということになった。
それもそれで分からない。
なぜダメだったのか?その理屈も分からないのに、急にOKと言われてもそれはそれで戸惑う。

高校生の時。文化祭に出す演目の練習にあまり出なかったら、同級生たちにドヤされた。その時は謝った。そしてその直後に学年を超えた全体会議で「このまま文化祭の演目をやるかどうか」の会議が行われた。
練習にも出てなかった私は俯瞰してみんなの話を聞いていた。
「もうこのままでは無理だと思うから辞めた方がいいと思う」
「こんな状態でやっても仕方ないと思う」
方々からそんな意見ばかり出ていた。
“えっと……じゃあ辞めれば?この会議を続けることの方が不毛じゃない?”と思った。
でも実はみんな文化祭をやりたがっていた。
練習にもろくに出てなかったにも関わらず、私は口出しをした。
「あのさ、練習出てなかった私が言えることではないけど、やるの?やらないの?やるんだったら、この会議をしてる時間無駄じゃない?せっかくみんな集まってるんだしさ、出来る方向で考えていけばいいじゃん。やらない方がいいと思ってるんなら、それで終わりなんだからもう会議しなくていいじゃん。でもみんなやりたいんでしょ。ならやればいいじゃん」

専門学校に通ってる時も同じように不毛な会議が行われた。
新聞奨学生として通ってる女の子が毎日のように遅刻していた。
そのために、これまた演目の練習をちゃんと出来ずにいた。
そして会議になった。
「もうさ、やる気ないんだったら外れたら?」
「彼女抜きでやるべきだと思う」
「やる気あるの?どうなの?」
彼女はひたすら泣いていた。それでも、
「もうさ、やってても仕方なくない?彼女を外した方がいいと思う」
同じように意見ばかりが飛び交っていた。
私は思った。彼女は自分の学費を自分で稼いでいる。しかも放課後も働き、そして深夜から早朝にかけても働いて学校に来ている。
でも私たちは親にお金を出してもらい、私は遠方から通っていたから通学は大変だったけど、でも通えばいいだけだし、同期たちは学校の近くに住み、そのお金も親に出してもらったりしている子たちだった。
腹が立った。何言ってるんだろうと。
それまで黙って聞いていた私は、「さっきから聞いてたけど、彼女は自分で学費を稼いでここに来てるんだよ。そりゃ毎日遅れるのは良くないことかもしれない。でも深夜から早朝働いてたら誰だって疲れるし、眠くなるでしょ。それで一度寝たら起きられないでしょ。みんな自分たちで稼いでるわけでもないし、同じ生活してもないのに何言ってるの?私は彼女は偉いと思う。だから外すことを考えるんじゃなくて、例えば起きれらるようにモーニングコールの電話してあげるとか、みんなで助け合うべきなんじゃないの?それでも改善が見られなかったり、やる気がなかったらまたその時に話し合えばいいじゃん」と。


はー、子供時代から何と可愛げのない子供なんだろう。
これはカミュの『異邦人』となんの関係のないように思えると思う。
自分を干渉されたくないということとも関係ないと思う。

でも何が言いたいかというと、物事を冷静に見るべきではないか?と言うこと。
意見を言う時、その場の雰囲気や流れで発するのではなく、もっと俯瞰してみるべきではないかと思う。
規則やみんなの意見に同調するのではなく、自分で一度考えてみて欲しいとずっと思っている。

私は結構効率主義だし、とにかく面倒なことは嫌い。
時間は限られてるし、その時間を有意義に過ごしたい。
とはいえ、仕事はしなくちゃいけないし、社会のレールに乗らざるを得ない時もある。
でも、常に自分に何が必要なのか?無駄がないか?理屈が通っているか?ということを考えた方がいいと思う。

グループLINEの不毛なやり取りを続けることが果たしてコミュニケーションなのか?

カミュの『異邦人』では、主人公はある事件を起こしてしまう。
そして逮捕され、裁判にかけられる。
でも弁護士も絶対に大丈夫だし、恐ることはないと言う。
裁判は検事や弁護士や裁判官たちで行われ、主人公は話す隙も与えられない。
物事を大袈裟に捉えられ、真実すら見えないまま、結局主人公の彼は死刑になってしまう。

これって、今日この日記で私が言ったこととは全く関係ないかもしれないけど、でも繋がるところはあると思う。
何だかただの事柄も大袈裟に問題視しようとしたり、一大事のように捉えられることが多い気がする。
それは子供の頃から感じてることで、もっと自分の視点でしっかり物事を見たり、俯瞰して状況を把握することが大事なのではないだろうか?


全くまとまってないし、頭悪い奴だと思われるかもしれない。
でもそんなことを本当にこれまでずっと思いながら生きてきた。
ふと、朝LINEの面倒くささや、人間関係の煩わしさから、改めてこんなことを思った…というだけのこと。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?