私の子ども時代① 祖母の自死

私は、東京の阿佐ヶ谷で生まれ、神奈川県相模原で父と母と父方の祖父母と年子の妹の6人で育った。世代的にも、ちびまる子ちゃんのお姉ちゃんみたいな立ち位置だ。今振り返ると、私のもって生まれた特性として、他人の感情を敏感に感じて影響を受ける感性があるのだと思う。そのことがありつつ、私の興味、思考、学びの道がつながっていった。

祖母の死


このことをきっかけに私が生きる環境と人間関係は大きく変わった。
小学校3年生のある日、自宅に帰りトイレに行きたくて慌ててランドセルを置いて、トイレに駆け込んだ。トイレでホッと一息しているところに、自転車を止める音がして、「あ、お母さんが帰ってきたんだな」と思ったのと同時くらいに「おばあちゃん!!」という母の叫び声が聞こえて、また大慌てでパンツをはいてトイレから出た。

母の視線は玄関前の階段に向かっていて、私もそっちをみると、同居していた祖母が首を吊ってぐったりしていた。母に「ちょっと手伝って」と言われるまま、私は母と一緒に祖母を抱えて布団に寝かせて救急車を呼んだ。私の人生の中で最初に出会った衝撃的な出来事。その頃は四谷怪談や心霊番組なども流行っていた時代で、子どもの私には祖母の死はショッキングだったけれど、私以上にショックだったのは、父と母だっただろうと、いまならわかる。それ以来の両親と祖父は、なぜそうなってしまったのか、悲しみをぶつける先がなくお互いを責めるように争ってばかり。向田邦子の寺内貫太郎一家のドタバタのように明るかったらよかったけど、私から見る両親は苦しそうだった。暴君になっていく父、正論ばかりで泣いている母、どちらが正しいのか、何がいけないのか、どうしたら解決できるのか、子どもの私でも父や母にできることはあるのか、そんなことばかりを紋々と考えている子ども時代だった。

それからの私は、家の玄関をあけると「母が死んでいないか」家の中を点検するクセがつき、祖母が亡くなっていた場所を通る夜中のトイレは、私も怖くてたまらないけれど、母の負担を軽くしたいと思って妹のトイレに付き添うようにしていた。妹と母を守らなければと一生懸命だった。自殺は、残された人を苦しめる最悪な死に方だと思うが、大人になって考えると、糖尿病で入退院を繰り返していたこと、おそらく薬や病気が原因でうつ状態だったこと、祖父が変わり者(いまでいうASDだろう)だったことで苦しんでいたのだろうと思う。無表情に日課の散歩をこなす祖母しか記憶にない。

父も、祖母の遺伝で糖尿病だった。母が身体のことを考えた食事を作っても、甘いパンなどを暴飲暴食して、イライラして、いつも身体はだるそうで、朝起きられずに仕事にも支障をきたしていた。
同居の祖父は、若い頃にやはり病気で片足をなくした身体障碍者。いまよりももっと使いにくそうな、肌色の義足のベルトを肩からかけて、びっこをひいて歩いていた。身体の不自由さによるものなのか、入浴頻度が少なく、祖父はいつも異様な匂いを放っていた。

私は、家族みんなが暴君の父の顔色をうかがう空気が大嫌いで、妹に比べて小学生の頃から父に反抗的な私は、よく叩かれていた。母が叩かれるなら私が叩かれればいいと思うようになり、また両親が夫婦喧嘩するよりも、自分が家族の問題児になり、他の人たちが結束を強めればよいと思い、私はいつも反抗的な態度で過ごしていたように思う。そんな子ども時代を過ごした人をアダルトチルドレンというのだと、後に本で読んだこともあるが、とにかく私は一人ひねくれて、心と身体の健康と、人間関係にいつも関心を抱いてきた。

子ども時代の私は、こうした大人の事情や自分の気持ちはいつも、日記に書いていた。時には汚い言葉で親を憎み、死にたいと書いたりしたこともあった。この日記は、当時の私の心の支えになっていた。

こうして書いてみると、ものすごく暗く不幸な子ども時代のようだけれど、時々家庭に台風がやってくるものの、日々は毎日学校へいき、家では妹と遊んだり、塾へ行ったり、習い事をして、母が作る食事をもりもり食べてお風呂に入って寝る、という生活で、そのリズムが人の心を安定させていたのだと感じている。食品添加物などの問題、生協の共同購入などが流行り始めた頃でした。糖尿病の父の様子、毎日母がつくる食事を食べてきたことが、食への関心の一歩でした。また、思春期の身体の変化やダイエットから、健康と食についての関心が高まっていくのだった。

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