私の子ども時代② 戦争と差別

戦争と差別

母方の祖父母は、全国転勤生活の後に福岡で84才と85才まで生きたが、母方の祖母も精神を病んでいた。

私が物心ついた5~6才くらいの時にはすでに、祖母はわけのわからないことをつぶやき、その後、長く精神病院に入っていたこともあった。昭和40年50年と時代が豊かになっていくにつれて、夫や息子ばかりが活躍し、女であるがゆえに学校で勉強したり社会で仕事をしたりできないことを悲しんでいる様子にも見えた。孫である私たち姉妹には、勉強するようにいつも話し、どんなことを大学で学んでいるのか聞きたがった。当時はそれが当たり前すぎていたのだろうけれど、やっぱり理不尽な男女差別。
戦争中、満州で経験した恐ろしいこと、赤ん坊だったわが子を亡くしたこと、満州から帰国した後に幼い子どもを連れて苦労したことなども深く心の傷になっていたと思う。

戦後、祖父は検事、公証人、弁護士になって仕事をしていた。その影響か、長女だった母も司法試験を目指し一次試験合格したものの、先に合格していた父に、「結婚したら家庭に入ってほしいから仕事をするな」と言われ、試験もやめてしまったそうだ。そのことを祖父はとても残念に思っていた様子で、私によく愚痴をこぼしていた。「T君(父)の言うことなんてきかずに、もう少し頑張ればよかったのに。せっかく途中まで頑張っても、大学出ても、最後までやりきらなければ、ただの人だ。」と。私は、祖父に父が悪く言われていることと、母が祖父をがっかりさせたことを解決するために、「私が母の代わりに司法試験に合格して祖父と一緒に仕事をしよう」と、密かに目標を立てていた。そのことで私は祖父に期待と溺愛を受けて、また日頃、暴君化している父のことや、喧嘩ばかりの両親のことを祖父に手紙で訴えていた。男の子がヒーローに憧れるように、私も、ジャンヌダルクとかナイチンゲールのように、我が家を救いたかったのだと思う。
生活の不安や両親の不仲を、子どもの私が両親には内緒で、祖父に漏らしていたことが功を奏したのか、後に母は、自分では内情を実家に伝えていなかったにも関わらず、我が家の内情を知っていた祖父の計らいで父と離婚することができるようになるのだ。

父は一人っ子、母には弟と妹がいた。母の妹、つまり私の叔母は、当時家族中の反対を押し切って韓国の人と結婚していた。叔父の話になると、大人たちの顔がなぜか曇り、話題にしてはいけない空気があった。叔母には3人の子どもがいて家族5人日本に住んでいたこともあったが、おそらく何かと不自由があったのか、アメリカで長く暮らしている。いまより強く差別の視線があったのだろう。もちろん、叔母夫婦はいまでも夫婦仲良く暮らしているし、私も叔父にも叔母にも可愛がってもらったり、お世話になったりした。当時の重たい空気は、まだまだ差別がある社会で叔母の人生を心配する空気だったのだと思う。

小学校5年生の時にも、こんなことがあった。
教室のベランダからクラスメートの友達に誘われるまま、校庭を歩く他の友達に、その意味もわからずに「朝鮮人!」と声をかけた。そしてそれ以来、その子はクラスで仲間外れにされるということがあった。私は、その言葉の威力に驚いた。外国人であることが、仲間外れの理由になるとは思っていなかった。私は、仲間外れにされた友達とも、他のグループの友達とも話すように心がけていたら、「スパイ」と呼ばれた。
「あの家の人たちは朝鮮人なんだ」と話題にする家庭があることもその時に知り、またそういうことはいけないことと知らないだけで人を傷つけてしまうことがあるのだと感じ、「世の中のことを知らないと人を傷つけるのだ」と学んだ。

ワンタッチでピントが合うカメラを「バカチョンカメラ」と誰もが呼んでいたが、その語源は、とんでもない差別用語から来ていると後から知って驚いた。それほど、差別の意識なく差別や蔑視があった。いまよりも、まだまだ社会が未熟な時代。

昭和43年生まれ、東京オリンピックの少しあとに生まれた私だが、こうした祖父母のことや叔母のことなどもあって、戦争の名残りを感じていた。
冷戦中のアメリカとソ連の間に日本列島は位置していて、モスクワオリンピックをアメリカと共にボイコットし、核兵器の不安、カンボジア難民受け入れ、中国残留孤児の家族探しなどが、ニュースで流れ、親が経験していた戦争は、私もいつかまた経験するのかもしれないのだ、そんなことがないように社会に関心を持たなければいけないのだ、という感覚とともに、格差、差別、多様な人々に関心を持ち始めることになった。



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