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「愛犬にさよならが言えなかった女の話」

去年の1月30日、愛犬を見送り3年に及ぶ介護生活が終わったわたしは暇を持て余していた。
「春からの新社会人生活。片道2時間の通勤を有意義にするために、読書を趣味にしたい。活字の本を読めるようになりたい。少しずつ読んでみよう。」

そう思い本を読むようになって1年、夜寝る前にベッドで川口俊和さんの小説を少しずつ読むのが日課になってる。

コーヒーが冷めないうちに

この嘘がバレないうちに

思い出が消えないうちに

今日、【さよならも言えないうちに】の第二話、「愛犬にさよならが言えなかった女の話」を読んだ。

この話は、ゴールデンレトリバーを13歳で老衰で見送った女性の話。

彼女は愛犬中心の生活を送り、その子を看取るためにしばらく生きていた。でも愛犬の介護はかわいいだけじゃなくて生活リズムも崩れる。
ある日、彼女は久々に水を飲んでくれたのが嬉しくて、愛犬を横に仮眠をとった。そして2時間後、目を覚ますと愛犬はもう虹の橋へ行ってしまっていた。

ひとりで逝かせてしまった後悔に苛まれ、もう一度会いに過去に戻れる喫茶店に来る決意をしたらしい。そして彼女は過去に戻って愛犬と再会、過去の夫からの言葉で新しい未来を得た。


この話を読んで、1年前の自分を思い出した。

私には6歳の頃からの愛犬、ヨークシャテリアのクッキーがいた。弟が欲しかった私にとってはかわいくて、時々鬱陶しくて、でも愛おしい存在だった。
実家を出て地方大学に進学したものの、どうしてもクッキーとの時間を過ごしたくて、この子が15歳の時大学を休学して地元に戻った。
「クッキーと過ごす、海外で夢を叶える」その2つの夢があって休学したものの、コロナで海外の夢は絶たれた。

でもそのおかげでオンライン授業が主流になり、地方に戻ることなく実家で大学に通えるようになった。

「クッキーを看取れるように」

それがここ数年間の私の生活の中心だった。
家族が出かける平日はひたすら家にこもって介護生活。夜鳴きに悩まされ、昼夜逆転生活が始まり、オムツ替えや、夜中床ずれにならないよう2時間おきに起きて体勢を変えた。

当時大学4年生だった私は、新卒としての就職先さえも、「クッキーと過ごせる、実家から通える会社」
が必須条件だった。

出かけるのは家族が家にいる時だけ。

クッキーを溺愛していた私にとって、そんな数年間は幸せすぎる時間だった。

12月ごろから夜鳴きや認知症、深夜の徘徊がひどくなり、「そろそろかもしれないね」と家族と話したりもした。

1月、特に中旬に入ってからは食事もあまり取れず、少しの流動食と大量の水でなんとか生きている毎日。

1月23日に、なんとなく本当にあと少しかもしれないと感じた。でも、終わりは見えない。明日かもしれないし1ヶ月後かもしれない。とにかく、残された時間を精一杯大切に過ごそう。

夜中に腕の中で寝かしつけたクッキーの横でそう誓った。

その日から今まで以上に、ほとんど寝ない生活が始まった。「起こして。水飲むねん」たとえその主張が夜中の何時だろうとすぐに体が反応した。

寝息が止まってないか何度も確認した。昼も夜も。

1月28日(金)ごろから寝れて2時間。母と交代で生存確認。

いつ終わるのか分からない疲れと、これが終わるということはこの子を失うという恐怖がより一層強くなってきた。

数日前から水以外飲まなくなり、29日の夜に大量の下痢をした。「体のものを外に出して、空っぽの状態で向こうに行く準備をしてるんだろな」と感じた。

ネットでいろんな人の話を読むと、そんな状態になってから「3日」「数時間後」「1週間」
どれくらいで旅立つのか正確なのはわからなかった。

その時夜中の2時。

まだ大丈夫だろう

眠たすぎて正常な判断もできなかった

もし朝や昼まで頑張った場合、その時まで私たちの体がもたないかもしれない。

「その時」に備えて、母と川の字で布団をひいて、いつもみたいに腕枕でクーちゃんを寝かせて、少しだけ仮眠をとった。

エアコンが切れる音、早朝の新聞配達の音、起きてる時も寝てる時も地獄耳の私と母は、どんな物音でも起きる自信があった。

でも、その地獄耳は、この日発揮されなかった。

1時間くらいだけ寝るつもりが、気づけば朝6時。
ふと、クーちゃんのお腹に手を置くと、息をしていなかった。身体はまだ温かかったから、ほんの少し間に合わなかったのだろう。

「クッキーを看取るために」生活をしていた私は、この子が亡くなる時、起きてそばにいてあげられなかったんだ。

その時が来る覚悟はしてた。

でも、寝てる間に逝ってしまうとは思わなかった。

その時に起きていられなかった自分を責めた。

今思えば、夜中の2時まで起きてたんだったらあと数時間くらい気合いで頑張ればよかった。って思う。

でもその時は見えないゴールに向かって全速力で走ってる状態。いつゴールが来るかなんて分からない。走り続ける気力もなかった。

起きた私に残っていたのは

3年介護したのに、睡魔に負けて愛犬の最後を看取れなかった

という事実だけ。



その日の朝、ふて寝をして不思議な夢を見た。その夢での出来事が、少しだけ後悔を軽くしてくれた。

亡くなる最後の1年ほどは、抱っこで寝かしつけて、腕枕で人間の体温を感じさせると安心して寝てくれた。(もちろん、何回も夜中起こされることもあったけど)

試行錯誤してたどり着いた1番平和にお互いが眠れる方法、それをしている間にあの子は旅立った。

私と母の間にいる時にいきたかったのかな?あの子自身の意思だったのかもしれない。

無理やりそう納得させた。

あれから約1年、新社会人として怒涛の毎日をすごし、唯一のほっこり時間は通勤中と毎晩の読書時間。

そんな私の前に、「愛犬にさよならが言えなかった女の話」が現れた。

あと2週間ほどで1周忌を迎える。

ふて寝した日、お盆の夜、その2日間以外、夢の中でさえ会えていない。

もしもう一度クッキーにあえたら、私は何をするんだろう。

「寝てしまって看取れなかった」
この小説みたいに、過去に戻っても起こる事実が変わらなかったとしても、もう一度会って抱きしめて感謝を伝えたい。

クーちゃん。次はいつ夢に出てきてくれますか?


3年近く介護をして、クーちゃん中心の生活を送っていたことは友人みんなが知っていた。
会うたびにみんなに、「大丈夫?」って心配された。
私は強がって「最期までしっかり看取れたから大丈夫」と答えていた。誰にも、「起きたら亡くなってた」とは言えなかった。

寝てしまった自分が恥ずかしい。情けない。

周りに隠し続け、自分自身で蓋をして、無理やり納得させた後悔をこの物語で思い出した。

この後悔は、いつか消える日は来るのだろうか。。。

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