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地獄の閉鎖病棟

高校2年生。
命をかけて受験した高校は、しばらくして行けなくなった。
医者の言葉を無視して退院し、体力が戻ることなく入学。

1日7時間授業にそんな体が耐えられるはずもなく…。
まぁなんとも無惨な結果に。

高1の冬頃、通信制高校に転校した。

間違えた転院

中学3年間通った大学病院は、中学生までの子どもたちが診療の対象になる科だった。
そのため、思春期外来がある病院を紹介してもらい、高校生のわたしはそこに通うことになった。

当時のわたしは初めての過食症状に怯え、希死念慮MAXだった。
自殺未遂をしては大学病院に運ばれ…
なんだかんだ大学病院にお世話になっちゃってました。

紹介してもらった病院に通い始めたのは高校2年生の時。
 
過食に疲れ、生きることに疲れ、すべてにおいて疲れ果てたわたしは、とにかく休みたかった。逃げたかった。

食べ物から、現実から、逃げたかった。
ゆっくり寝たかった。家族から離れたかった。うるさい世間の雑音すべてから。

「入院しましょう」

その言葉を聞いた時、これで休めると嬉しかった。

2回目の精神科入院

連れてこられた場所は閉鎖病棟
もちろん、そんな説明は一切なかった。

そこには、わたしと同じくらいの年齢の人がたくさんいた。

▼着いてすぐ荷物チェック。
▼体を触られ、危ないものはないか隅々まで検査。
▼スマホは没収。
(スマホの使用時間は1日15分でした…古い機種を使ってたわたしは起動するだけで3分はロスしてたな…いや、15分でできることってなにもなくね?と、のちの入院生活でのストレスの一つになってました。)
▼廊下には防犯カメラが何台も設置。
▼窓を見ると鉄格子。

あぁ、なんて場所に来てしまったんだ。と絶望したのも束の間、病室に連れて行かれた。

6人部屋。ベットが6個並んでいるだけで、カーテンの仕切りは一切ない。閑散とした部屋。
プライベート空間が一切存在しないその場所は、ほんとうにつらかった。

看護師が持ってきた書類にサインをする。

この入院は任意であること。

そんなことが書かれている書類。
病棟の不気味さにサインをするのをためらったが、拒否する力もなく、言われるがままにサインした。

任意入院

任意入院(にんいにゅういん)は、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律に定められている精神障害者の入院形態の1つ。精神保健法の昭和63年改正で明文化された入院形式。精神科病院への入院であっても、まず本人自身のインフォームドコンセントを得ることを基本としている。         
            Wikipediaより引用
任意入院者が退院を申し出た時は退院としなければならない(21条2項)のが原則であるが、精神保健指定医の診察のもと一定の場合に72時間を限り(特定医師の診察のときは12時間)退院制限することが可能である(21条3項、同条4項後段)。通常、この規定は病状悪化等のため措置入院や医療保護入院等に切り替える準備として利用される。
            Wikipediaより引用

わたしが出たいと言えばここから出れる。
そう思っていた。

任意なのに出れない

1回目の診察で入院が決まったわたしは、新しい主治医のことを詳しく知らなかった。

入院して初めての診察。
「あ、この医者ダメだ」そんな直感が働いた。

週1回ある主治医の診察。
不調を訴えるたびに増える薬。

「退院したいです」と話すと、

「そんなこと言ってるうちはダメだね〜」

「医療保護に切り替えるよ」

と、脅された。

そんな診察を繰り返し、気づけば1日最大18錠もの薬を処方され、薬がなくては生きていけない体になった。薬漬けとはこのこと。

任意入院と書かれた書類にサインしたのにも関わらず、1ヶ月過ぎても。2ヶ月過ぎても3ヶ月過ぎても。そこから出られなかった。

感情を殺す

「つらいです」そう話すと、話を聞くこともなく、頓服を渡される。
泣いている子には、注射をして落ち着かせる。
自殺未遂をした子には、身体拘束。
騒いだり暴れた子は、鍵のかかった保護室に入れられた。

あ、ここから出るには感情を殺すしかないんだ。そう悟った。
それは、入院している10代の子達の共通認識となった。

「おれ、1年以上ここにいるんだよね〜」

そんな話を聞いた時には生きた心地がしなかった。
わたしは死ぬまでここから出られないんじゃないか。そんな恐怖が日に日に増した。

最低な誕生日

華のセブンティーン!
そんな言葉があるほど、17歳は輝かしい。
the!青春!そんなイメージがぴったり。

わたしはそんな最高な華のセブンティーンを病院で迎えた。
もうすでに入院してから半年が経っていた。

SEKAI NO OWARI の深瀬さんがInstagramで記していた通り、わたしもここでの生活が「世界の終わり」と感じた。

輝かしい17歳の幕開け。
一生忘れることのない、史上最悪な誕生日だった。

トラウマになった精神科

17歳の誕生日からしばらくして、ようやく退院することができた。

閉鎖病棟での経験、ろくに話も聞かず薬漬けにした主治医。
顔を見ることすら嫌だったわたしは通院したくなかった。
そんな言葉に親は耳を傾けることなく…
退院してからも半年近く通院した。

ある日ふと、、
大量に出される薬を手に取り。
あんな医者が出した薬を飲むのが嫌になった。

考えるだけで腹が立ち、吐き気がするような人から処方された薬は飲む必要ない!
そう思い立ち、わたしは自己判断で薬をやめた。

18錠もの薬をいきなりやめた私は、離脱症状に苦しんだ。
でも、その苦しみより、あの医者に対する憎しみが勝り、耐えた。ひたすらに耐えた。

わたしはこの医者に会って以来、精神科がものすごく怖くなった。
病院に行けなくなった。

もし、あの医者に出会っていなければ。
わたしの病気はもう直っていたのではないか。
そんなことをよく考える。

精神科選びは本当に大事だと、身を持って学んだ。
どこでもいいやと、適当に決めちゃいけない。

その選択は人生を良くも悪くも左右する。

やさしい社会に。

新型うつ病、コロナ鬱…
ストレス社会で疲弊しきったこころ。
年々増えていく自殺者数。
それに伴い増えていく精神科・心療内科・メンタルクリニック…

その選択肢は多ければ多いほど、どれを選択すればいいのか迷う。
疲れ切ったこころで予約の電話をすると、流作業かのように数ヶ月後の日程を伝えられる。
淡々と伝えられる事実に、こころが音を立てて崩れていくのがわかる。

理解ある医者・自分と相性の良い医者に出会うのはものすごく難しくて、その労力は計り知れない。

もっと、やさしい社会になればいい。

5分診察なんかで済まされる病院がなくなれば、ちょっとは生きることに希望がもてるかもしれないのに ね 。

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