見出し画像

「山なめんじゃねえよ」

今、少し不機嫌だと感じている。
昨日5時間も寝ていないのと、カフェインを取ったらまあまあな吐き気が起きており、やっと作業がひと段落して、そこで早く寝ればいいのにだらだらとnoteを読み漁っていたからです。

「怒りのエネルギーで」とまではいかないけど、「ムカついた余韻で」noteを書いています。(胃もムカついていることだし⭐︎)


とあるnoteを読んでいると、「社会に戻す」、「強みを活かす」、「繋がりをつくる」という言葉が目に入り、それを「ゴール」としている、という意味で、書かれていたと、私は受け取った。
その言葉をきっかけに、「それが最終目的なのか」という驚きと、少しの違和感を感じ、その直後に、記憶が無意識下で目覚め、「それらの言葉を浴びた経験が多いぞ」と、私の(おそらく)脳の一部を刺激した。そして、あっという間に、その「ゴール・最終目的」自体に疑問を持つ自分が現れた。


今日だけで何百回目なんだろう。また、言語という、ヒトの考えを見える(文章)・聞こえる(会話)・触る(点字)化する手段の一つにすぎない、記号に引っかかった。(※余談の気付きのメモ:言語は見る・聞く・触れることはできるけど、嗅いだり、食べたりは出来ないのか…)


「ゴール」、「目標」そして、「社会」、「強み」を「活かす」、「繋がり」は、結構曖昧な、大きな括りの、なんというか、とても抽象的な言葉だと思う。なんだかこの世の全体のぼやっとしたもののようにも捉えられて、実態がわからない、怖くなる。

素晴らしい景色が山頂にはある「らしい」よと言われたけど、めちゃくちゃに雲がかかっていて、どこからいつどうやって登ったら良いか分からない。でもみんなが行く整備された道がどうやらあるらしい、獣道とかロープウェイもあるとかないとか、ちょっと裾野があまりにも広すぎて反対側の人がどんな登り方しているかは全く見えずにいて分からないけど、「きっと頂きには素晴らしい世界が広がっているに違いない。少なくとも今よりはマシだ」と、曖昧な装備で、誰かに登「らされる」ような。受け身。肝心の山頂についての情報や、登った後どうするかは(山頂で暮らすのか、下るのか、新しい山を登るのか等)考えていない。けれど、なんだか降りたらまずい「らしい」。から、一生かけて山を登るしかない「らしい」。

大袈裟に言葉で表現すると、このような、悪天候の時によくわからない山を装備も降り方も考えずに、知ろうとせずに、登るような、山登り玄人からしたら「山なめんじゃねえよ」と言われそうなくらいのスケール。
だから、人生を一つの山登りに例える表現は、個人的に最近あまりピンときていない。

この頃、「人生」というふんわりした概念・認識(現在が連続した時間)においての目標やゴールを設定していない。(具体的なタスク…何時に起きるとか、は設定しています。タスク管理は苦手だけど、日光が好きなので。)もしくは、常に今現在の目標・ゴールを設定し続けている、とも表現できる。「呼吸が正常に出来ている時は、呼吸を正常にしよう、と思わない」のと一緒の感覚、でしょうか。わかりづらいな。言語化、難しい。でも、しなくても良いと思っても、いる。言語化のSNSは多い。noteもそうですよね。言語優位のSNS。




「〇〇したら何かが変わる」、「〇〇するために生きよう」という、人生の目標みたいなものって、先ほどの山登りのように、「なめてんじゃねえよ」って言われかねないくらい、安易で、「盲信的な答え」で、危険を含んでいて、一番大切なはずの、具体的な、現在進行形の、自分の動きを時として見えなくすることがあると最近思っている。

(よく言われる、「エンドロールの後も人生は続く」という表現と似たような概念かもしれません)



よく調べていないけどなんか有名でよく聞いたことがあって、悪天候だけども高い山の山頂を最終地点とするのではなくて、誰も知らない、もしくはしょぼいと「評されている」けど、自分で選んで、好きで、その周りの天気とか通過する人(天気とか他者はよく変わるから、あくまで通過点。自分も変わるし)もその時は好みだったり、な、丘とか、道とか、池とか、穴とかにて、そこを進んでも良いし、逆走しても良いし、(そもそも池が好きなら逆とか降りるとかの概念がない)掘るのもありだし、観察し続けることも、なんとなくそこに居たいからいる、自分の選択に責任をもって、具体的に知ろうとして、それを受け入れて、とても受け入れられないかもしれないけど、受け入れてみようと、今の状況と自分を直視して分析して、めんどくさいし辛いし孤独な時もたくさんあるけど、自分以外は決して自分の人生の責任をとってくれない(他者の言葉に責任なんてない・家族が亡くなった後、家族のせいにしても自分以外は自分を助けられない)と実感すると、自分で決めないと怖くて仕方がないと最近思う。(この文章、一文続きだ。長っ読みずらっカッコ多っ。それだけ言語化に戸惑ったと言うことですね)



「社会」、「強みを活かす」、「繋がり」を「ゴール」にするという表現は、私には掴みづらくて、「自分の今の動きを、自分で観察して、受け入れる」こと、丘っぽく、道っぽく例えると、今この時の天気と温度と地面と風とか草とか人とか、、「森羅万象」?を触ったり、見たり、聞いたり、嗅いだり、時には食べたりして、自分で選択し、感じながら、(それ自体結構難しい!)安心して、生活というものを続けていきたいと考えている。


単純に、今はそうしていたら楽しい、という時期なのかもしれません。


言語化おわり

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?