モノクロの秘密

「秘密が欲しいんだ」
「えっ?」

開口一番、自分の耳を疑った。放課後よく通っていた例の喫茶店で会わないかと、唐突に連絡が来たと思ったらこれだ。狐につままれた感覚に陥るのも当然だろう。

彼とは小学生来の付き合いだった。ある日、彼は両親を火事で亡くした。彼は何ら変わるところなく、気丈に振る舞った。悲しみをおくびにも出さなかったけれど、かえってそれが痛々しく見えた。以来、彼の孤独を塞ぐことが自分の使命だと思うようになった。彼の背中をいつも見守っている自分がいた。一瞬でも目を離したら、脱兎のごとく飛び出したきり、二度と帰ってこない気がして。

高校生ともなると以前ほど遊ばなくなった。それでも時折、泊まりに来ては、朝焼けが見えるまで青い夢を語り合った。彼は双子のような存在だった。卒業して以来、お互い連絡をまめに取る性質でもなく、自然と音信不通になった。

「秘密が欲しいんだ。親しい人にしか打ち明けないような秘密が。縫い目のない皮膚から今にも破れ出てきそうな危うい秘密。誰でも秘密の一つや二つ持っているだろう?僕にはそれが何もないんだ」

吸い込まれそうな瞳を微動だにせず、訥々と言葉だけが進行していく。ふと言葉の持ち主が、ここにはもういない気がした。俊敏な細い眉毛に掛かった前髪も、まっすぐ突き出した鼻梁も、一点の陰りも見えない北国育ちの真っ新な肌も、四年前の彼と何一つ違わないのに。

「なんだ、そんな深刻な声色で呼び出すから、何かと心配して損したよ。秘密ってのは別に特別なものじゃなくて良いんだぜ?例えば…そうだな、小学校の帰り道、トイレが見当たらなかったんで、草むらで大きいのをしたとかな」

「そんなんじゃないんだ。今言ったような、その、草むらで云々って類の秘密なら僕だって数え切れないくらい持ってるさ。僕が言ってるのは、ごく一部の親しい友人にしか打ち明けることのできない秘密。言ってしまえばそれっきり、僕が今まで生きていたことすら拒絶されるような、そんな秘密が欲しいんだ。君は持っているかい?いつも生真面目な顔してるけどさ」

意味がうまく読み込めなかった。

「突然会って一体何を言い出すかと思ったら、感受性ばかりが横溢するモラトリアムごっこかよ。俺だって秘密ぐらい持っているさ。例えば、そうだな、今だから言えるけれど、高校2年の夏に5組の女子と、名前はなんて言ったかな…」

「それ以上言わなくて良い。なんだい、淀みなく言えるじゃないか。そんなものは秘密って呼ばないんだ。君は結局のところ秘匿期限の切れた、ともすると人格攻撃に転用できそうな情報を信頼の証と銘打って、勿体ぶった顔でそれらしく開示しているだけじゃないか。所詮は人を引き留めて置くための好餌にすぎないんだ」

「そんなこと言ったって、お前、秘密ってのは一般的にこんなもんだろう。俺はお前がなんでそこまで秘密を持つことに拘泥するのか皆目わからんね。四年ぶりに会って話すことってのはもっとあるんじゃないか?」

「これは僕が毎夜毎夜襲われる観念的な煩いを追い払うための手段なんだ」

「手段?」

「というのも、都会は吐いて捨てるだけの人がいる。大学生からお年寄り、ホームレスに売女…カテゴライズし切れない数多のシルエットが毎日毎日目の前を通り過ぎる。いつの間にか中身だけが何か都会の無個性な匿名にそのまま置き換わってしまったような気がするんだ。僕という一人の人間を自覚し、その自意識を頑なに守り続けるためには何がいると思う?そう、秘密なんだよ。どんな着飾ったってそれを上回る個性が大勢いる。そしてあっという間に希釈され、都会の影になる。だけれど秘密は違うんだ。秘密は、森閑とした精神の奥底で後生大事に安置される。それが日の目を見るのは一生でそう多くない。仮に秘密を巧く明かせたとしても、そのあとの冷笑と拒絶で命を落とす人間もいるくらいだ。秘密は魂に深く下ろした根なんだ。秘密だけがあの不気味で長大な人津波にさらわれないための根っこなんだ」

「……言わんとすることはわからんでもない。要はさ、お前、四年間で痛感した無能な自分から逃げ出したいんだろう。現実を受け入れず、現状に文学的な修辞を弄し、ただ感傷に浸ってばかりいる。だけどな、その匿名性を脱ぎ捨てたいというのは結局誇大な自己愛の所産なんじゃないか。自分だけは違う、自分だけは世界から称賛を浴びるに値する。そんな子供染みた迷妄にいつまで乗っかっているつもりだ?就職活動が大変なのもわかるけどさ、良い加減、堅実な道を選べよ。俺たちはたしかに若いけどな、今にな、堰を切ったように年齢が押し寄せてくるぜ」

彼の張り詰めていた眼差しが一瞬緩んだような気がした。それは翌朝何事もなく登校した、あの瞳にひどく似つかわしかった。

「ああ…その通りだ。ほんとうにその通りだ。僕は、ただ…僕は今、根無し草なんだ。明日は風向き次第流れ次第なんだ。いいや、僕だけじゃない。みんなそうだな、きっとそうなんだ。みんな、そうやって、いつか根を下ろす大地を見定めて、時流に負けんと生きていくんだよな。それなのに僕は、僕は…もう根を降ろさなきゃいけない時期なのに、現実に目をむけず、こんな感傷ばかり…。挙句、二進も三進もいかなくなって…せっかく再開したのにトボけた話ばかりしてしまったよ。申し訳ない。朝一の便で僕はまた日常に戻る。君だけがあの日以来、僕の寄る辺の全てだった。そんな気が今でもする。だからいきなり呼び出しても来てくれると思った。思えば僕は、君に甘え過ぎていた。君を頼り過ぎていた。次帰って来たら、高校の時みたいにまた、朝まで語り合おう。話を聞いてくれてありがとうな」

一年後、彼の名字から届いた報せには黒い縁取りがあった。

#短編 #熟成下書き #大学生 #小説 #エッセイ #掌編小説

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?