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安倍晋三元首相暗殺犯を描く『REVOLUTION+1』が映す風景

 これほど足立正生の映画が話題になったことがあっただろうか。36年ぶりの監督作『幽閉者 テロリスト』(2007)、その10年後に撮られた『断食芸人』(2016)が意外なほど受け入れられなかったことを思えば、新作の『REVOLUTION+1』は、ひょっとすると、1965年に足立を含む日大新映研の学生たちが自主製作した実験映画『鎖陰』(1963)が新宿文化で上映された時以来か、同じく新宿文化で上映された足立が脚本を担った『天使の恍惚』(若松孝二監督、1972)以来のスキャンダル性に満ちた映画かもしれない。
 
 安倍晋三元首相の射殺犯である山上徹也容疑者をモデル(劇中では川上となっている)とした本作が波紋を呼ぶ理由は、事件からわずか2か月強で映画が作られ、戦後二度目となる国葬が行われる9月27日当日に上映されるという点と、監督である足立正生が元日本赤軍の国際指名手配を受けたテロリストであるという経歴にあるようだ。断片的な情報をもとに、〈テロ称賛映画〉という決めつけも多いようだが、足立正生のフィルモグラフィを踏まえれば、こうした映画が作られるのは驚くに値しない。その理由は後述するとして、肝心の映画の内容から見てみよう。
 
 応援演説中に安倍元首相が狙撃される場面から始まる本作は、そこから川上(タモト清嵐)のモノローグで、家庭環境や統一教会に傾倒する母の問題が語られていく。最初に引っ掛かってしまうのが、モノローグで饒舌に語られる内容が既存の報道を上塗りしただけのもので、これならば地上波でも今年中に同様の再現ドラマが放送されるだろうと思えてしまう。『略称・連続射殺魔』(1969、公開は1975)では、永山則夫が見たであろう風景のみで映画を構成していた足立が〈射殺魔〉を撮ったにしては、いささか想像力に欠けるのではないか。

 山上容疑者を見たとき、筆者が直ちに想起したのは、足立と組んで先鋭的なピンク映画を作ってきた若松孝二監督の映画に登場するテロリストのよう――具体的に言えば、足立が脚本を書いた『性賊 セックスジャック』(1970)で秋山道男が演じた孤高の青年テロリストに重なるものを感じた。
 同作で秋山が演じる青年は、ノンポリの無思想な生活者だったが、彼がふらりと出かけるたびに交番爆破、共産党本部爆破などの大きな事件が起き、遂には首相が暗殺される。もっとも低予算のピンク映画だけに、これらは新聞記事で表現されるだけだったが、『性賊』は現実を越えて近未来へと足を踏み入れた予感の映画でもあっただけに、半世紀を経て現実の出来事となったとき、作り手は何を描くべきかが問われることになる。

『性賊 セックスジャック』1970      ©若松プロダクション
『性賊 セックスジャック』1970      ©若松プロダクション

  『REVOLUTION+1』は、まるでフィクションのような圧倒的な現実を前にしたときの作り手の戸惑い、苦悶が露呈する。そのなかで見出したミッシングリンクが、日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件である。山上容疑者の父が京大時代、後に事件を実行するメンバーのひとり、安田安之と麻雀仲間だったという報道が糸口になったとおぼしい。
 劇中でも乱射事件は再現されるが、「オリオンの三つ星になる」と言った実行犯たちに対して、川上は、「俺は何の星になるんだろうか?」とひとりごちる。こうして川上は、何度となく星になることを自問する。自殺した兄を前にしたときも、「兄さん、俺は星になる。何の星かわからないけど」と、呟きながら、その瞬間に向かっていくのだ。
 もちろん、これは創作だが、こうした飛躍はフィクションだからこそ可能なものであり、まだ何もわかっていない今だからこそ、自由に想像することができる。
 社会を揺るがす犯罪が起きたとき、われわれは、その理由を知りたがる。それが正解であろうがなかろうが、理由とおぼしきものを推測することで安心しようとする。本作でも、前述したように既存の報道を上書きしている箇所が大半だけに、テロ肯定映画などではないことは観れば明らかだろう。
 フィクションとして期待するのは、「何の星になるのか?」といった常人では思いもつかない足立正生の主観によって再構築された虚構のなかの現実にある。その意味では、宗教2世である川上と、足立と娘の関係を投影したと思われる革命2世の娘との対話など、足立正生にしか作れない映画へと昇華されており、再現ドラマだけに終わらないプラスαは、往年の作品に比べると弱いとは思うものの確実に刻まれている。

 それにしても、先鋭的な実験映画作家として映画界に登場した足立正生が、今もそうした感覚が衰えていないことに驚かされる。自室で煩悶する川上に舞踊のような動きをさせ、カメラが執拗に追い続ける場面に、『叛女・夢幻地獄』(1970)の大和屋竺を思い起こしたのは筆者だけではないはずだ。突出するのが、外だけでなく室内にも雨が降りしきるという鈴木清順ばりの描写である。雨は地表にあふれ、拘置所内の川上の足元まで水に浸されていく場面が象徴するように、水をモチーフとしたイメージが連ねられ、彼の心情を映し出す。
 冒頭と終盤に映し出される安倍元首相の街頭演説風景では、手製の銃を手に発砲する川上の姿がカットバックで映されるが、川上のカットにのみ雨が降り続けており、編集としては〈つながらない〉。それを、あえてつなぐことで断絶を露呈させる。川上の前に降り注ぐ雨こそは、足立が見出した風景なのだ。

 ところで、事件からわずか1か月半後の8月28日にクランクインし、翌月に公開されるという異様な早さはどう考えるべきだろうか。本作の企画が足立とは世代を異にしながらも、同じ若松プロダクションの出身である井上淳一によって成されたことからもわかるが、往年の若松プロの製作方法を踏襲したものである。
 実際、1970年11月25日に三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で決起を求めた末に自決をはかった際は、若松プロでは若松孝二と足立正生が直ちに決起に参加し損ねた男を描いた『性輪廻 死にたい女』の製作を開始している。同月27~29日にかけて脚本を執筆し、12月3~9日で撮影。完成した映画の映倫審査日は1971年1月13日という記録が残っているので、事件から半月もしないうちに撮影を終え、1か月半後には完成していたことになる。
 こうした即応性は、若松映画を現実の並走から、やがて現実を追い越してしまう。つまり、映画の後に現実がついてくるのだ。
 ATG映画『天使の恍惚』では、新宿三丁目で交番爆破シーンを撮影すると、数日後に同じ交番でクリスマスツリー爆弾による爆破事件が発生し、新聞では「こんな時に無差別テロ映画」(『毎日新聞』1971年12月27日)と非難が高まり、同紙には新宿大通り商店会振興組合事務局長の「そんな映画を上映されては、町をぶっとばせとアジるみたいなものだ」というコメントが載っている。

『毎日新聞』1971年12月27日・朝刊

 この影響で公開劇場のうち、東宝系列の日劇文化、大阪北野シネマでの上映が中止され、さらに公開直前に、これまた映画の内容と符合する連合赤軍あさま山荘事件が発生し、結局、公開劇場は新宿文化1館のみという事態にもなっている。 
 こうして見ていくと、『REVOLUTION+1』をめぐる騒動は、〈往年の〉若松プロ的なスキャンダリズムと見世物性の再現であることが見えてくるが、 当然、そこに不謹慎という声があがるのは、作り手たちは織り込み済みだろう。
 本作は国葬当日に全国上映された後、30分ほど追加された完成版が年内に公開されるという。

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