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教えよう、勉強する意味を。

高校の時、微分積分を解いているとき、ふと思った。
「これ大人になってから役立つのかな?」
急に不安になって、必死で勉強することにいまいち納得できなくなりむなしくなった。こんな疑問に、当時はうまく答えてくれる大人がいなかったから、時空をゆがめて私自身が答えることにする。

そもそも、「勉強してよかった」「おもしろいんだよ、勉強は」と声を大にしていう大人がいないことがよくないんじゃないかと思う。
「勉強が嫌だった」という大人しかいないのに、子どもが勉強したがるわけがない。
声に出して言わないだけで、勉強してきた大人は、学校で勉強してよかった、と感じている人の方が多いと思う。
そこが大人の難しいところだけど、勉強した人は「謙遜」っていう言葉を知って、「勉強してよかった」と言うより「勉強苦手だったんだよね」と言った方が社会では共感を得られることの方が多いと学んでしまう。
だから、それに慣れていくと率直に話してくれなくなる。
でも断言していい。周りにそういう大人がいなくても、実際勉強した大人は、してよかったと心の中で思っている。

どう役立ったかを私なりに洗い出してみたので、同じ疑問を持つ今の10代に伝わって、納得して勉強してくれる人がいたら幸い。
もちろん以下に述べることはすべて私の独断と偏見と体験に基づく。
大丈夫、勉強することに疑問は抱かなくていい。10代は突っ走れ。

数学は柔軟性を育てる?!

数学を勉強することで、柔軟性が持てる。
は?何それ、と言われそうだが、まあ聞いてほしい。

数学の解答は、導き出せる道筋が何通りもある。一番楽な方法を探すのがセオリーで、自分が最初に考えた方法は、果たしてそうなのか。もっと楽でスマートなやり方があるんじゃないのか。自分で試行錯誤し、思考回路をどんどん増やし、頭の中で何通りものやり方を考えるようになる。
すると、なんでもやり方を複数考えておくという癖がつき、多方面アプローチの思考回路が育つ。

新卒で仕事を始めて1か月、こんなことがあった。
当然何もできないからひたすら事務作業をしていたところ、封緘された分厚いA4の封筒を1000通ほど渡され、これにもう一人のスタッフと一緒に料金後納郵便のハンコを押してほしいという。
だが、封筒を立てて中身をトントンと落としても、中身の大きさがまちまちだったためちょうどハンコを押す右上の部分に段差ができてしまい、うまく押せない。しつこくトントンと下げても、限界がある。
どうにかうまいことできないか考えつつ数十通をこなし、だんだんとイライラが募ったとき私が思いついたのは、
「逆に、右上に揃えたらいいんじゃないですか」
中身に段差があるなら、右上にトントンと寄せることですべての四隅がそろい、ハンコを押すためのスペースに段差はなくなる。
そのあとは、ストレスなくスピーディーにハンコを押し終えた。

なあんだ、と思われるかもしれない。そう、誰でも思いつきそうなことだ。しかし、「その時」「その場」で思いつかなければ価値がない。こだわりにこだわったおせち料理でも、2月に納品したら価値がないのと一緒。
決められた時間内で最適解を出すため、素早く思考をめぐらす「柔軟性」は、何度も訓練されることでできるようになる。
それが、私の場合は数学で培われた。
結果、仕事を頼まれた方も「うまいことやってやったぞ」という達成感があったし、短時間できれいに仕上げることで頼んだ方も「あいつらやるな」となる。小さなことだが、信頼関係の醸成がこういうことの積み重ねだということは、大人なら知っている。

国語で危機回避能力を培う?!

国語が役立つのは、危機回避能力
・・・うん、いったん疑問をわきに置いてお付き合いいただきたい。

昔から、国語嫌いを苦しめる設問がある。
この時の作者の気持ちを答えなさい」。
国語嫌いの友達はよく言っていた。「俺、作者じゃねーし。知るか

その気持ちはよくわかる。
でも、誰かの気持ちに「思いを馳せる」訓練をすることで、日常の危機回避につながると知っていたら、短気だったその彼にはもう少し強めに国語を勉強するように言っていたかもしれない。

危機回避のエピソードはつい最近だ。
先週仕事からの帰り道、道路を歩いて渡るときに車に道を譲られた。
まただ。
地方に移住して1年が経つが、いまだに慣れないのが歩行中の車道のわたり方。車の方が、思った以上に歩行者に道を譲ってくれるのだ。
歩行者が渡り始めると車が止まる感じに近い。数年前に訪れた東南アジアを彷彿とさせる。
だから、左右を見渡しながら東京の感覚でその車は通り過ぎたと思って渡ろうとすると、予想に反してスピードを緩めていた車と接触しそうになる。

その1台しか通っていないのだから、止まってくれてもくれなくても、私にとっては時間的にほぼ変わらない。明らかに車の方が速いんだし、わざわざ私一人のために止まらずに、さっさと行ったらいいのに。
そう思っていた。この日までは。

またか。
自分でも仏頂面になるのがわかる。
そのままそそくさと気のない会釈をして、道を渡る。
車の前を横切るときに運転手にじっと見られている感じが、とても居心地が悪い。だから嫌なのに。

でも、まてよ。
地方独特の文化ととらえていたけれど、実は事情があるのかもしれない。
まさに今、この設問を使っている。
さきほどの運転手の気持ちを答えなさい」。

運転手は男性だった。特に急いでいるというわけではなさそうだったけれど、もしかしたら、子どもが生まれたとか、誰かがケガをしたとかで、駆け付ける途中かもしれない。そこは病院が近い場所だったからだ。
でも急ぎすぎて事故でも起こしたら大変なことになる。だから、いったん落ち着くために、道を譲って気を落ち着けていたのかもしれない。
急がば回れ、と自分に言い聞かせて。

そこまで考えた後、今後は喜んで道を譲られよう、と思うようになった。
私にとって時間的に無意味でも、道を譲ることで「いいことをした」、と相手が思った状態の方が、事故が起こる確率は低いだろう。人間は感情がある生き物だし、気分よく運転していた方がいいに決まっている。逆に私が仏頂面でいることで、その運転手がイラっとしてよそ見をし、100メートル先で事故を起こすかもしれない。

おわかりのように、その運転手(=作者)が実際にどういう状況で、どう思って何を感じていようと関係ないのだ。
国語は、わからないなりに相手に思いを馳せて、自分の思考を相手のチャンネルに合わせようとする努力、それ自体の訓練だ。

それに、前提条件すら自分の想像で決めてしまえる自由さ。
(先の男性運転手は、初デートの待ち合わせ場所に行く途中だったかもしれない)
自分が決める前提によって、シナリオが変わってくる。結果として、自分の行動変容につながれば、それが正解。
ちょっと国語がおもしろそうに聞こえてこない・・・だろうか。

20年後の「勉強してよかったよ」のために

今回は数学と国語の例だったけど、その他の教科でもこういうことに役立った、ということはたくさんあると思う。私だけじゃなく、大人はみんなあるのに、役立ったときのことを具体的な教科と結び付けて覚えてないだけだ
だから先生は「社会に出たら、いつかは役に立つ」としか言わない。
・・・今ならわかるよ、先生。
でもこれには当時、腹が立ってた。「いつ、何によ」と。
余計にやる気をそがれたし、答えになってないと思っていた。

だから今回は具体的に伝えたかった。
今のティーンエイジャーたちが20年後「勉強?してよかったよ」と大多数が言っている世の中になっていてほしいから
そのために、私ももっと声高に「勉強?めっちゃ役立ったよ」と言おう。

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