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絵物語『微卒式』














           絵物語『微卒式』あとがき

Twitterアカウントのモーメント欄、そして、N.o.t.eも含め、もう小説は卒業した、二度と書かぬ、が、創作せざるもの安易に「語る」べからず、創作という住民税(?)を収めろ自分、という謎の脅迫観念により、今回のような立ち振る舞いに至った、と。
 
もう、小説家でもなし、さりとて、漫画家でもなし、
そういった立場上の立ち振る舞いも含め、
間を取った結果、
こうした古い「絵物語」風の形式に落ち着いた形である。
 
作中でも書き込んでいるため重複になるが、今作で世に具現化して提示したかったアイデアは、以下の通り、大まかに4つ。
 
①「顔の描写」がない漫画、がこの世に存在する、としたら、誰も読まなくなるのでないか? という逆説的な問いかけ。

②見開き形式の漫画において、「画面中央部のコマのみ」を読み進めていく形式の漫画がこの世に存在したら? という閃き。
 
③その「画面中央部のコマ」が、「足元の描写のみ」で統一されていた、としたら、その形式でしか伝わらない人間ドラマもあるのではないか? という閃き。

④漫画という表現形式において、本編以上に長いエンドクレジットが載っている漫画が存在したら? という閃き。
 
主題は、二つ。
1,「枠」とは何か? ということ。
2,「距離」とは何か? ということ。

 
「枠」という主題は、前作の「空き家」というモチーフから持続的に抱えている副次的な主題であり、別段、自分の中で深刻な主題ではない。

「枠」は、「フリースペース」でもいいし、「月9というドラマ枠」でもいいし、「レンタルした娯楽で埋めた自分の人生の時間」でもいい。
 
一方の「『枠』が空く」と、一方の「『枠』が埋まる」。
「スケジュール」そのもの。
事実、物理的にも、観念的にも、
「『枠』を考える」ことは、「他者との時間と空間を考える」ことに繋がっており、至極、当たり前過ぎる概念なだけに、奥深い概念だと考える。
 
この観念的な側面を含む「枠」に関して、意識的に取り組んでいる、と思われる日本の芸術家の先駆者としては、ラーメンズの小林賢太郎さんと、syrup16gの五十嵐隆さんが挙げられる、と思われる。
言わずもがな、だったら、申し訳ない。
 
メインの主題は、「距離感」の方である。
ことにも、『2人の人間の「距離感」がどう変化していくのか』を主題とし、それを淡々と描き、それ以上でもそれ以下でもない、砂における陰影のみの違いの如し、そんな人間ドラマが、結局、個人的な好みらしい。
 
個人的に、この「距離感」という主題を、最も巧みに描けている、と思う作品が、
劇場版『その街のこども』

魚喃キリコさんの諸作品
だった、と。
 
よって、今作『微卒式』は、自分なりに劇場版『その街のこども』の「距離感」を再現したかっただけ、
あるいは、
自分なりに魚喃キリコさんの『短編集』の「距離感」を再現したかっただけ、
といっても差支えない。
 
 
「距離感」は、実際、面白い。

どれだけ「物語」を「引き算」しても、あらゆる「人間ドラマ」の基礎に、「距離感」は残る、と思われる。
 
お互い、建前上、近づく。
次の相手の一言で、ぐっと離れる。
たった一言で、離別に直結するような「距離」ができる。
が、その時、はじめて相手との「距離」を考え直す。
 
二人をとりまく時間と空間が変化する。
もう一度、近づいてみようか、と歩み寄る。
今度は継続的に「距離」が狭まっていっているな、と思いきや、
片方の相手が、笑顔のまま、違う方向を向いている。
その瞬間、物理的な「距離」は近いのに、心理的な「距離」は、ぐんと遠ざかる。
――などなど。
 
「塩だけでお召し上がりください」ではないが、「『距離感』だけでお召し上がりください」という、引き算の表現形式。

歩いてくる、歩いている、歩いてゆく、の違い。

逆に言うと、
「つまり」
「要するに」
「そして、それから」
などと要約できてしまうタイプの物語や、
あるいは、物語自体を「つまり」「要するに」といって「解説」しよう、という輩には、一貫して関心もないし、感心もしない。〈了〉

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