見出し画像

冬乃くじ『サトゥルヌスの子ら』妄想連想メモ

●冬乃くじ『サトゥルヌスの子ら』を読んでただただ、ひたすらに涙が溢れ、止まらなくなった。
しばらくして落ち着いたと思っていると、不意に、思い出し笑いのように、涙がまたぶり返す。
その日はずっとその調子で何もできなかった。
そうなったのは自分でも何故かはわからない。
それから数日経ってようやく読み返すことができるようになったので少し、簡単な感想や考えたこと、浮かんだことなんかを取りとめなくぽつぽつらつらメモしていく。

●作品は下記から読めます。

●残念ながら私はクラシックやピアノという楽器に詳しく無く、一応音楽をやってはいるが主に即興を手段として演奏をしているので、これはあくまでもそういった観点からの偏った視点での殴り書きみたいなものです。
また、多分に余計なこと、妄想を多く含みます。
悪しからず。

●作品中ほとんど身体描写で音についての具体的な描写はほとんど見られない。
父親の曲を弾いたときに「華やかな音」と出ては来るがそれも音の描写というより父の手についての描写に使われている。

●最初に弾かれるグリーグ『ホルベアの時代より』のサブタイトルは「古いスタイルで」グリーグがこの曲を書いた1885年からホルベアの生きていた時代は二百年前、バロック音楽の時代であった。
グリーグはリスペクトからであるがここでは父権制やクラシックに連なるアカデミックな音楽界と作曲家の象徴とも取れるかもしれない。
タイトルは知らなくても誰もが一度は聴いたことのある劇的な導入部はここからの展開に相応しい。

●姉の6小節はどんな音楽だったのだろうかとやはり気になり想像してしまう。
なんとなくたおやかでミニマルなイメージ、それだけを繰り返すだけで成り立ち充たされるような。
…と書いていて読み返すとちゃんと本文に「単純で清楚なメロディ」と書かれてあった…。
気を取り直して。
私にはそれは作曲されたものではなく気ままに即興で弾かれたもののように思える。
自分で弾いて自分で聴いて自分が愉しむためだけのものであったとしたら。
それを父が勝手に採譜したのではないだろうか。

●作曲行為を「書く」とも言う。
作曲とは、作曲者の仕事とは楽譜を書くことである。
ジョン・ケージの『4分33秒』でさえ楽譜として書かれ著作権が発生するのだ。
つまり本来楽譜にされることの無かったはずの姉の音は父によって書かれることによって「楽譜」「楽曲」「音楽」として呑み込まれてしまったと言えるかもしれない。
そして佳寿子が楽譜を見ずに繰り返し弾くこと、たぶんそれは姉がやっていたことであろう、そうすることで楽譜から開放されて本来の形に、音に戻ることができたということなのかもしれない。

●作曲とは権力であり所有である。
演奏者は楽譜通りに弾き再現しなければならない。
違うことをすれば即ちミス、間違いであり許されない。

●サトゥルヌスは父親であり、伝統的なクラシック音楽界、或いはまた楽譜でもあるのかもしれない。
楽曲もまた作曲家の子と言えよう。

●サトゥルヌスはギリシャ神話の農耕神クロノスと同一視されている。
では何故同様に予言から子らを呑み込んだクロノスの子らではいけないのか。
ゴヤ『我が子を喰らうサトゥルヌス』のイメージがあったから、想起させたいから、なのか。

●農耕神クロノスと時の神クロノスは別の神であるがサトゥルヌスは時の神と同一視されている。
時間は音楽の根源的な次元である(ジョン・ケージ)ことと関係しているように思える。

●作曲とは時間を作ることでもあり時間を区切り、所有することでもある。
演奏者は、鑑賞者は一曲という時間に縛られる。
姉の6小説を繰り返し弾くことはそれからの解放である。
何時まで弾くか、どれだけ繰り返すか予め何も決められていない、不確定であるということ。
繰り返す間はゼロ時間の中にいる。

●ピアノを弾くのは何も手や指、腕だけではなく全身を使って弾かれるわけだけれど、佳寿子の身体に変化が現れるのは腕までである。
恐らく、この能力は「形態は機能に従う」(ルイス・サリヴァン)ことを再現するものだということなのかもしれない。
演奏というのは身体運動である。
ピアノを弾きながら作曲されたものであれば、鍵盤上で選ばれる音の連なりが作曲者固有の身体的特徴による運動と結びついている部分があると考えられるだろう。
つまり楽譜に書かれた運動の軌跡を辿ることによって、もとの身体を再現できる、してしまう能力、なのかもしれない。

●何故10年後にピアノが戻ってきたのか。
理由はわからないが、重要と思われるのは佳寿子が望んで取り戻したのではないことだ。
それはつまり偶然なのである。

●このピアノが能力の発現の条件の一つなのか。
恐らくそうではなく、このピアノが偶然戻ってきたということが一つのポイントではないか。

●ピアノという楽器の特性状、一度別の場所、別の人物の所有となっているものを再び佳寿子の部屋に馴染む、調和するまでには本来調律を繰り返し数ヶ月はかかると思われる。
しかしここでは佳寿子はそんなことを気にしている様子は感じられない。

●ピアノという楽器は不完全なものである。
全て完璧に調律すると人間の耳には違和感のある響きになってしまう。
なのでほんの僅かずらして全体の調和を取らねばならない。
佳寿子はもしかしたら完璧であらねばならないというように演奏してきたのかもしれない。
父親の期待に応えるためなど。
引退して十年ピアノを弾いていなかったにもかかわらず超絶技巧を必要とするラフマニノフを弾こうと思うくらいには技術に優れていたピアニストであったと思われるのだ。
苦手とは言っているが弾けないとも言っていない。
しかし舞台で倒れて後の解放とその後の経過によって音楽と、ピアノとの調和が取れるようになっていた、ということではないだろうか。

●この能力は仮に再び聴衆の前で演奏すればどうなるだろう。
失われるか、少なくとも能力の発現は無いのではないか。
或いは他人には見えないだろう。

●ピアノ演奏の音から3Dモデルのピアニストが演奏するAIが発明されている。
佳寿子の能力はそれに近いものと言えるかもしれないが、では同じく音から耳コピして能力は発現するのか。
「楽譜と一体になり」「楽譜が頭に入ると」単に音のみでは発現しないのかもしれない。

●能力としたが、幻視かもしれない。
或いはそれは同じと言えるかもしれない。
恐らく他人が見たとしても佳寿子の手にしか見えない気がする。

●幻視の可能性があるのは、実際には腕や手指だけでなく肩幅、座高、椅子の高さ、姿勢なども関係してくるはずだからだ。
それからタッチやトーンはどうだろう。
作曲家ごとに違って聴こえるのか。
そしてペダリングの問題もある。
佳寿子の見える範囲でしか変化は起きていない。

●佳寿子がそれほど能力に驚くことなく素直に受け入れることができたのは何故か。
月に手を伸ばしても伸びなかったことに「あら、ケチね」と言っているのはある意味能力を客観視し、自分とは切り離して考えていたからかもしれない。

●ピアノには何故か太陽よりも月や夜のイメージが似合うらしい。
このシーンにドビュッシー「月の光」やベートーヴェン「月光のソナタ」を思い浮かべてしまうだろう。

●月に手を伸ばす、
といえばクラッシュのジョー・ストラマーの名言「月に手を伸ばせ、たとえ届かなくても」を思い浮かべる。
佳寿子は月に手を伸ばし続けて来たのかもしれない。
それはしかしかつての佳寿子にとっては父親の、アカデミックな音楽業界の期待に応えねばと手を下ろすことの出来ない呪縛のようなものであったかもしれない。

●或いは月とは姉の、そして母親のいるところだったのではないだろうか。

●サトゥルヌスは土星サターンに対応する。ホルスト『土星/老いを齎すもの』。
サトゥルヌスは支配者であり土星も支配を表す。
佳寿子を老女と描写したのは父に支配されていたことを表しているのかもしれない。

●音が佳寿子と同化し、佳寿子が音と同化している。
ピアノを弾いているのは佳寿子であって佳寿子ではなく、作曲者であって作曲者ではない。

●父親の手を見て怯えるのはかつて暴力があったからだとしたら、父親はあくまでも作曲家であってピアニストでは無かった、或いは二流、三流だったと思われる。
母の手の火傷痕も父によるものなのかもしれない。

●サトゥルヌスの妻レアはまたサトゥルヌスの姉でもある。

●サトゥルヌスもまた父に母の腹の中に閉じ込められたものであり、その支配に打ち勝ち成り代わったものである。

●佳寿子に父の言う才能は無かったかもしれないが、少なくともピアニストとしては父よりも先へ行ったのは間違いないだろう。
狭き門を潜り抜けてプロとして40年活動を続けることができたのだから。

●娘の音を盗むくらいだから元々大した作曲家では無かったと言えないか。

●才能云々を言っているのはあくまでも父に都合のよいものである。

●ごくごく個人的な話になるが才能という言葉は好きではない。
私は使わない。

●佳寿子が弾いているのは全て死んでいる者たちの曲である。

●フェデラーだけがわからない。指が6本のことからリストを連想するが。
架空の作曲家であっているだろうか。
一応J. A. Federerという作曲家が見つかったけれど合唱曲しか見当たらない。

●何故フェデラーだけ架空の作曲家なのか。
それはこの佳寿子の能力を描写するにあたって指が6本になるというのは魅力的であるが実際にはリストの指は5本であったから、だろう。
もちろんリストの指は本当は6本だったのか!というふうにも書けたであろうが、ここでは架空の作曲家、一般に指が6本あったとは知られていないであろう人物が実は指が6本あったという描写を選んだのだ。
身体と演奏、作曲の関係をより強調するには、確かにこの方がよかったように思われる。

●何故リストの指が実は6本あった、ではいけないのか。
恐らくそれは話のためではなく、作者が、実在の人物に対してそうでなかったことをそうだったとすることを良しとしなかったからではないか。

●これは全く余談であるがハンニバル・レクター博士は左手の指が六本あり、バッハ「ゴルトベルク変奏曲」グレン・グールド版を偏愛していて演奏もする。

●十年の時間が演奏のための身体と技術を手放させたと言えないか。
クラシックにおいて一つの楽曲を弾くことはその楽曲を再現するための身体と技術を身につけることである。
10曲あれば10通りの身体と技術を身につける必要がある。
そうやって音にではなく楽曲に奉仕してきた身体と技術を手放すことによって、更に引退して精神的に解放されたことによって能力が開いたのかもしれない。

●ケージの言葉を借りて考えるなら引退して十年経ったことによって対象物から解放されて経過へと至ることができたのではないか。
原則や支配、論理から解放されて本質に戻ったのだ。

●最初に舞台で倒れたことが最初の解放、次に引退してピアノを手放したことによる解放と段階を踏んでいる。

●佳寿子にとってプロとしてピアノを弾いた40年間は決して純粋に愉しいと言えるだけのものでは無かったかもしれない。
40年という時間の檻、或いは楽曲を演奏してきたとも言えるか。

●佳寿子にはずっと怖れがあったのではないか。
様々な感情と対立するものとしての怖れ、つまり音楽を堰き止めるものとしての怖れ。
父親の手、父親への怖れに立ち向かったことでそれらを解放することができた。

●身体の外側と内側の話でもあるか。
ピアノ、グランドピアノは蓋(大屋根)を開けて演奏するものである。

●楽譜があって音がある、のではなく本来はただ音があるのみであるということ。

●姉の6小説は本当に父親の楽曲の中で機能していたのか。
していなかった可能性はある。
だからこそ腹を裂き取り揚げることができたのではないか。
後年このことを指摘する評論家、音楽家が現れる可能性はある。

●サトゥルヌスは本来子供を吐き出すのだけれど、ここでは腹を割かれている。
コレはサトゥルヌスが父ウラノスの性器を鎌で切ったことを想起もさせるが、それよりも手に焦点を当てて行動させた結果、手で割いて、手で引き揚げる、ということにしたのではないかと思われる。

●最後、恐らく佳寿子には父の言う姉とは違う、本当の姉が見えていたのだろう。
それはごくごく普通の9歳の女の子だったに違いない。

●最後の「まだあたたかい。甘いにおいがする。」私は赤ちゃんの匂いのように感じた。

●最後がもし赤子のイメージで合ってるとしたら「声帯の奥、壊れた脳に秘められた音楽が」が産声のようにも聴こえてくる。

●取り出されたのが亡くなったときの姉ではなく赤子のイメージだとしたら、サトゥルヌスが農耕神でもあるからのように思える。

●「自分が囚われているどんな檻(ケージ)からも逃れよ。」ジョン・ケージ

●最後に蛇足ながら個人的なことを。
私は所謂知的障害を持つ人たちと所謂音楽家、ミュージシャンが即興を主体とした演奏をするバンドに所属していて、そのメンバーの中にいつもピアノを選んで演奏する人がいるのです。
その人は言葉は単語を話すことはできるけれど、連なった一文を話すことはできないみたいです。
私含めミュージシャンのみんなはその人の演奏の大ファンなのですが、ある公演での演奏者の組合せの話合いをしているときに、私をこのバンドに誘ってくれた人が私とその人のデュオを提案してくれました。
公演当日、そのとき私が何をどうしたのかはさっぱり覚えていないのだけれども(即興ゆえに)、とにかく至福の一瞬であったことは間違いなく、確かに心に残っています。
この作品『サトゥルヌスの子ら』とはモチロンなんの関係もありませんが、読んで暫くしてその人のことを思い出しました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?