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小説 「吉岡奇譚」 36

36.動揺

 朝からの大雨で散歩を諦めた私は、3階の資料室で、クロッキー帳にアイデアを書き留めながら、文献を読み漁っていた。
 今日は、藤森ちゃんが休みだ。昼食は、私が用意しなければならない。

 一瞬、小さな地震かと思うような揺れを感じ、机の下に頭を入れようかとも思ったが、すぐに止んだので、そのまま読書を続けた。


 12時近くになって、私が2階に降りると、夫は雨天にも関わらずベランダで煙草を吸っていて、倉本くんは居なかった。
 私を見るなり煙草の火を消した夫は、ガラス戸を開けた。
りぃ。諒ちゃん……哲朗さんのカップ、割っちまった」
口角こそ上がっているが、腹立たしげな様子で、更には、胸元に血痕がある。
 大切な岩くんのカップが割れてしまったことに言及したい気持ちを抑え、彼の胸元を指して訊いた。
「その血は、何だ?」
「あぁ……さっき、鼻血出した」
「鼻を かみ過ぎたのか?」
「いや……」
彼は室内に入り、ガラス戸を閉め、鍵をかける。
「和真と やり合った」
「はぁ!?」
そう言われれば、鼻が少し腫れている気がする。
「今、あいつに同じカップ買いに行かせてんだ。あいつが割ったから……」
「……何が、どうなってるんだよ!?」
「知らねーよ。いきなりキレたんだ。……あいつが、哲朗さんのカップで茶を飲んでて、いきなり、それを壁に投げて……『ふざけんな!』とか『くたばれ!』とか、独りで叫んでよ。俺が『どうした!?』つって近寄ったら……目の色変えて、掴みかかってきた」
「それで、乱闘か?」
(さっきの振動は、まさか……!?)
「申し訳ねぇけど……腕尽くで押さえたぜ?あのまま3階に行かれちゃあ、まずいと思ってな」
 彼がカップを投げつけたという壁を見に行くと、確かに、濡れた痕跡がある。粗方、拭き取ってあるが……茶渋らしき汚れがあるのは判る。茶色い飛沫を、見落としたらしい箇所もある。
(パソコンに かからなくて良かった……)
「独りで外出させて大丈夫か?こんな雨の中を……」
「むしろ、出さねぇと頭が冷えねぇだろ」
一理ある。
「とりあえず、着替えろよ。……鼻血が出ただけか?他に、怪我は無いか?」
「特に、ねえかな……?」

 倉本くんの分も おかずは作ったが、なかなか帰ってこない。彼の分を鍋に残し、まずは2人で食べる。
 食べながら、テレビをつけると、あの金剛さんがトーク番組に出ていた。(彼は倉本くんの元恋人だが、そのことは夫には秘密なのだ。)
「こいつ、売れてんなぁ……戦隊ヒーローか何かやってた奴だろ?」
「そうなのか?」
私は児童向けの特撮ヒーロー番組になど全く興味が無い。
 番組は、彼の【活動】に関する解説に移る。
「え、何?こいつ……同性愛者なの?うわぁ……」
「うわぁって何だ」
「いや……『苦労するだろうな』と思って……」
「今の時代は、誰だって苦労するよ。国が これだけ貧しけりゃ……」
「うわー!やめて!世知辛い話やめてー!」
「言い出したのは誰だ」
 国の経済状況は非常に厳しいにも関わらず、同性間だと「経済的な結託」ともいえる【婚姻】が認められないというのは……あまりにも不条理だ。
 今の私が悠介と離婚する理由は無いが、彼と知り合う前は「日本では同性婚が出来ない」という事実が、とても腹立たしかった。(私の故郷なら、同性婚は可能だ。)


 14時を過ぎた頃に、やっと倉本くんが帰ってきた。傘をさしてきたが、足元は ずぶ濡れだ。(見える箇所に、痣や傷は無い。)
 四角くて硬い箱が入ったレジ袋を、私に突き出した。私がそれを受け取ると、彼は深々と頭を下げて「申し訳ありませんでした!」と言った。
「同じの、見つかった?」
「は、はい……」
「次から、気をつけなよ」
「本当に、すみませんでした……」
彼の声は震えているが、寒さではなく、罪悪感によるものだろう。
「足を拭いてから、上がってもらおうかな。……少し待ってて」
私は、そう言ってから素早く脱衣所からバスタオルを持ってきた。
「早く着替えておいで。風邪をひくよ」
「あの……悠さんは……?」
「上で、テレビを観てるよ」
「僕……今日、悠さんを……」
「大丈夫だよ。私で慣れてるから」
 今にも膝から崩れ落ちそうなほどに落ち込んでいる彼に、再度「着替えておいで」と言った。


 ズボンと靴下を替えた彼は、まっすぐ夫のところへ謝罪に行った。夫の側に正座して、何度も「申し訳ありませんでした」と言いながら、頭を下げた。
 夫は「もういいよ」「過ぎたことだ」と、あっさりと赦した。
「……何か、おっかない幻でも見たか?」
倉本くんは、何も言わない。
 私は、彼が買ってきたカップを箱から取り出し、割れてしまったものと ほとんど見た目が変わらないことを確かめていた。これなら、岩くんは気付かないだろう。
「隠すことは、ねぇよ。その手の話は慣れっこだ。俺が、誰と住んでると思う?」
夫はテレビを消し、食卓に片肘を置いて、飄々と【先輩風】を吹かせている。
 倉本くんは、ずっと正座したまま、私に過去を打ち明けた時と同じように、恐る恐る語り始めた。
「昔、働いていた会社で……よく……遅くまで残業をしていて……そういう時、いつもマグカップで何か飲んでいて…………その時のことが、ふっと……」
「フラッシュバックか?」
「たぶん、そうです……」
 過去の話題に触れたことで、倉本くんが再び取り乱してしまわないか、私は少し心配だった。
「パワハラの記憶か?」
「まぁ……そうですね。パワハラとか……陰湿な、虐めとか……」
殴ってしまった罪悪感からか、彼は、夫からの質問には、正直に答えていく。
「虐められてたのか?」
倉本くんは俯いて、肩を落とす。
「すごく、くだらないのですが……過去に、どういう人と付き合っていたを、理由に……すごく、馬鹿にされて……毎日、残業を、せざるを得なくなって……」
「はぁ!?何だ、それ!?……そんなもん、仕事と関係なくね!?」
「関係ないんですが……彼らには大事おおごとで……」
「馬鹿だろ!!…………つーかさ、なんでそんなことがバレたんだ?社内恋愛だったのか?」
「だ、大学の後輩が……バラして……」
「はぁ!? つーことは、あれか?大学ん時の彼女の話が、理由!?……マジ、馬鹿だな!!……辞めて正解だ!そんな幼稚な会社!!」
(『彼女』じゃ、ないんだよなぁ……)
 私は、あえて話を遮った。
「お話し中、すまないけれども。倉本くん、昼ごはんが まだだろ?」
「は、はい……」
「あ、そうか」
「すぐ、用意するからね」
「あ、ありがとうございます……」
 倉本くんが昼食を摂り始めたら、夫は再びテレビをつけた。
 薬を減らしたためか、倉本くんは、今ではもう私達と同じ物が食べられる。(とはいえ、相変わらず「味は判らない」そうだ。)



 その夜。夫が風呂に入っている隙に、倉本くんが私のところにやってきた。私は その時、リビングのテレビで映画鑑賞をしていた。
 彼は改めて詫びの言葉を口にした後、またしても「安いアパートを探す」などと言い始めた。
「僕はもう……この家に住む、資格はありません……」
「そんなことはないよ」
「でも、僕は……」
「気にしないで。大した怪我じゃないから。……本人も『気にするな』と言ってただろ?」
「ご友人のカップも、割ってしまいました……」
「新しいのを、すぐに買ってくれたじゃないか」
彼は、きちんと自費で弁償してくれた。
「ご本人が知ったら……」
「大丈夫だよ。あれは、ただ『彼が来た時に使ってもらう』と、私が決めただけだ。彼の私物じゃない」
 彼は、夫に謝罪した時と同じように、ずっと正座したままである。
「次からは、マグカップを使う時、充分 気をつけるんだよ」
「はい……」
「もし、何か……忌まわしいことがフラッシュバックしたら、心の中で『今は違う!』と、唱えてごらん」
「今は、違う……」
「そうそう。君が酷い目に遭ったのは『過去』だ。今は、違う。今は……平和な場所で、ゆっくり静養しているんだ。ろくでもない養鶏場とか、馬鹿げた作業所なんて、二度と行かなくていい」
「はい……」
「大事なのは、今だ」
私は、かつて工場長から何度も言われた 大切な【教え】を、彼に伝えた。
「大事なのは、今……」
「過去の景色が目に見えるとか……過去に言われた ひどい言葉が、頭から離れないというのは、本当に辛いことだけれども。でも、それは……『過去』のことだから。もう、終わったことなんだ。今、この場所に、そいつらは居ないんだ。今の君は……【自由】だ」
後に続いたそれは、ほとんどが岩くんからの受け売りであるが、彼の心には響いているようだ。
 至って真剣に聴いてくれている。
「この家に出入りする人間は、君を嗤ったりなんかしないよ。……みんな、死ぬほど辛いことを、どうにか乗り越えて、懸命に生きてきた人ばかりだから。痛みや苦しみと闘っている人を、嗤ったりしない。それが、どれだけ残酷なことか……みんな知ってる」
彼は、しばらく黙り込んで、手を揉んでいたが、やがて口を開いた。
「あの、男の子も……そうなんですか?」
「彼だけは……身体は すこぶる元気だね。でも、彼は育ての親だったお婆さんが亡くなってから、施設に引き取られるまで、2年くらい『ホームレス』同然だったんだ。私が警察署に連れて行くまで」
「えっ……!?」
「可愛がってくれる大人のもとを転々としながら……逞しく生き延びてきたんだ。
 更に言えば……彼には【戸籍】が無い。書類上、彼は『存在しない』から、発見が遅れたんだ」
「日本で……そんなことが……」
「なかなか無いよね」
 映画は今、主人公が仲間達と共に焚き火を囲み、偉大なる勝利に祝杯をあげる場面である。古傷だらけの男連中は、半裸で馬鹿騒ぎをしながら酒を酌み交わし、犬のようにガツガツと飯を食う。数少ない女性陣は、彼らの騒ぎように呆れつつも、滅多にない『宴』の雰囲気を楽しんでいる。きちんと服を着たまま、一滴も酒を飲まずに、ため息をついている青年も居る。
 私は「いずれにせよ」と前置きしてから、言葉を継いだ。
「君が、此処に居る限り……私と悠介は、全力で君を守るよ」
「あ、あの……どうして、そこまで……?」
「君は大切な友人だからね」
 彼は、再び手を揉んでいる。

 脱衣所の引き戸が開く音がする。
「お。悠介が風呂から出てきたね」
彼の耳には聞こえなかったらしく、私がいきなり そう言い出したことについて、不思議そうな顔をしている。
「下で、洗面所の戸が開いた音がしたから……」
改めて説明してやる。(洗面所と脱衣所は同一の部屋にある。)
 そうこうしている間に、悠介本人が2階に上がってきた。
「和真、まだ起きてるのか」
「一緒に観てるんだ」
私はテレビ画面を指す。
「あぁ、これな。諒ちゃんの友達のやつな」
私が原案提供者であることは、夫にも秘密にしている。
「もうすぐ終わるから。最後まで観てから風呂に入るよ」
「俺は……先に寝ようかな」
「そうかい?……じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
「おう」
 彼は台所で冷蔵庫から何かを取り出して飲んだ後、使用したカップを流し台に置き去りにして3階に上がっていってしまった。
 それを、倉本くんが「今は違う、今は違う……」と、ぶつぶつ唱えながら洗うのを聴きながら、私は映画の続きを楽しんでいた。
 彼の素直さが愛おしかった。

 似たような悩みを抱える人に助言をする機会を頂けるたびに、私は「生き延びて良かった」「足掻いた甲斐があった」と思う。大いなる存在によって、この ろくでもない人生に【意義】を与えていただけたような気がして、それを「誉れだ」とさえ感じる。
 酒と薬に溺れるしかなかった凄惨な日々が、決して【無意味】ではなかったように思えてくる。
 おこがましいだろうか……?


次のエピソード(最終話)
【37.物語は終わらない】
https://note.com/mokkei4486/n/n52158c4e212e

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