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小説 「吉岡奇譚」 37(最終話)

37.物語は終わらない

 今日は、坂元くんが復職する日である。
 約束よりもずっと早い時間にインターホンが鳴り、私が出迎える。(長い休職に入る前に、合鍵は返却してもらっている。)
「おはよう」
「おはようございます、先生」
 無事に戻ってきた彼は元気そうで、痩せ細っていた身体は、すっかり元に戻っていた。むしろ大きくなった気がする。
「……おかえり」
「只今、帰りました」
照れ臭そうに笑いながら、靴を脱ぐ。
 しゃがんで、脱いだ靴を整える。泣いているかのように、鼻が ぐすんぐすんと鳴っている。(花粉症かもしれない。)
「……どうした?」
「いえ……。僕『普通に戻ってこられたこと』が、嬉しくて……!」
「大袈裟だなぁ!」
私はあえて笑ってみせたが、まだまだ日本では「精神疾患によって休職した人」に対する風当たりは強いのが、現状だ。だからこそ、私は「断じて、彼らを冷遇しない」と、心に決めている。自身が受けたような冷遇を、私は決して他者にはしない。
 少しだけ滲んでいた涙を袖で拭ってから、彼が訊いた。
「藤森さんは、まだ来ていませんか?」
「君が早すぎるんだよ」
「えへへ……。僕、どうしても、早く先生にお逢いしたくって……」
まるで10代の若者のような、屈託のない笑顔である。私も、笑顔で応える。
「早く、2階に上がりなよ」
「失礼します」

 彼は真新しいタイムカードに打刻し、荷物を棚に置いたら、藤森ちゃんの出勤を待たずに、台所や金庫の状態を確認する。
「やっぱり、彼女は仕事が丁寧ですね……何も問題ないです」
「君の愛弟子だからね」
「愛弟子だなんて、そんな……僕、ほとんど何も教えられないまま、休みましたよ?」
休んでいる間も、通院や薬について、彼女からの相談に乗り続けていたことを、私は知っている。
「彼女も、いよいよアパートを借りて新生活を始めたよ」
「あ、良かったですね!」
そのことは、知らなかったようだ。

 私が彼に食卓のところへ座るよう促し、前日のうちに淹れておいた茶を、2人分注いだ。彼は「いただきます」と頭を下げる。
 藤森ちゃんが出勤してくるまで、土産話を聴かせてもらうことにした。体調のことも、訊いておきたい。
 彼は、長野県での湯治の後、岩手県まで私の弟に会いに行き、その後は北海道の友人宅に滞在しながら、敬愛する「かつての師匠」との交流を楽しんでいたという。
「随分と、有意義な休暇になったみたいだね。……部長さんは、お元気だったかい?」
「はい、お元気でしたよ。柔道の他に、ボルダリングを始められたそうで……僕も、少しだけ教えてもらいました」
「多趣味だなぁ……」
坂元くんや悠介、弟、そして亡き義妹が過去に働いていた会社で製造部長だった彼は、視力を失ってからのほうが、むしろ行動的である。あの会社に居た頃は……晴眼者であっても、その暮らしに【自由】は無かった。現場の工作機械と変わらない、まるで『社長の奴隷』のような暮らしぶりであったのだ。
 今の彼は……念願の【自由】を手に入れ、きっと幸せなのだろう。
「美味しい物、たくさん ご馳走になりました」
「良かったじゃないか。……善治のほうは?どうだった?」
「お元気でしたよ。
 初めて、一緒にお酒を飲んだんですが……彼、とんでもない酒豪なんですね」
「あぁ、そうだよ。知らなかったかい?」
「先生は飲まれない方ですから……驚きました。ご姉弟きょうだいでも、違うんですね」
「あいつは、私の忠告なんて聴かないよ」
私が、どれだけアルコールの有害性について説いても、あいつは飲み続ける。とはいえ、精密部品の製造に支障を来たすほどの深酒は しない。かつての私のように、依存はしていない。

「悠介さんは、今日お仕事ですよね?」
「そうだよ」
「僕が休んでいる間、時々連絡をくれました」
「そのようだね」
「1階の和室を、お金を取って人に貸しているそうですね?」
「あぁ、そうだよ。本人は、今 出かけているけれども。夕食までには帰るだろうね」
「普通の食事が難しい方だと、聴いていますが……」
 私は、彼が呈している症状と、農薬のこと、家庭環境について、端的に話した。
「そうですか……お若いのに……。
 わかりました。ご本人と相談しながら、胃に負担をかけない別メニューを考えます」
「よろしく頼むよ。……それより、君の体調はどうなんだい?今日は、電車で来られたみたいだけれども……」
「僕は、おかげさまで、すっかり良くなりました。今はもう、幻視らしいものは見えません。通行人の視線や声も、以前ほどは気に なりません」
「良かった。……早いうちに しっかり休んで、効果があったみたいだね」
「ありがとうございます」

「あ、そうだ。今日、岩くんが私の最新作の初版を持って来るんだ。連絡は受けているかい?」
「はい。昼食を食べて帰りたいと、伺っています」
「彼も、君に会いたいみたいだね。『頼みたいことがある』なんて言っていたな」
「僕に ですか?何でしょう……?」
「私は知らないよ」

 やがて藤森ちゃんが出勤してきて、坂元くんと挨拶を交わす。
「お久しぶりですね。……体調は、どうですか?」
彼女はスラスラと返事を書き、彼に見せる。
「良かった」
 その後も、何度か文章を書いては見せていた。坂元くんは、その度に口頭で応え、にこやかに会話が続いた。
「僕が居ない間、しっかり やってくれてましたね。ありがとうございます」
坂元くんに褒められると、彼女はすぐに顔が赤くなる。(悠介や私だと、こうは ならない。)


 それから、岩くんが訪ねてくるまで、私は1階で文章を打つことにした。まだ構想の段階の、児童文学の「原案」だ。普段 友人に提供しているファンタジー小説の原案と同様に、キャラクターに関する「設定資料」や、物語の「骨子」を、本編とは別にテキストファイルを作って、入念に創り込む。
 児童文学とはいえ、10歳前後の子が「大人になるまで、大事に読み続けたい」と思えるような、クォリティーと重厚感にしたい。
 児童向けのファンタジー小説を通じて、外国の子ども達が日常的に経験しているような、狩猟や料理、労働、あるいは戦闘を、しっかりと描きたい。「大自然の中で、人が生きる」ということについて、日本の保護者が ひた隠しにするような場面を、真正面から真摯に描きたい。
 日を追うごとに【拝金主義】へと傾いていくような現代の文明が、蔑ろにしている【自然】の魅力と重要性について、未来を担う子ども達に向けて、根気強く伝え続けたい。

 インターホンが鳴り、私は岩くんを迎え入れる。彼は、見慣れたトレーニングウェア姿で、荷物は いつものリュック一つである。
 彼が今着ている それは、大きめのフードが付いて、頸がしっかりと隠れる、彼のお気に入りの一着だ。
 いつものように洗面所で手を洗って錠剤を飲んだ彼を、2階に連れて上がる。
 彼は、坂元くんの姿を見るなり笑顔になった。
「坂元さん、お帰りなさい」
「ご無沙汰しております」
「お元気そうで、何よりです」
 坂元くんとの挨拶を終えたら、彼は背負っていたリュックを降ろし、中から複数の絵本が入ったビニール袋を取り出した。
「先生、こちらが お約束の初版本です」
「ありがとう。重かったろう……?」
「普段パソコンを持ち歩くのと、あまり変わりません」
「悟くんにも、渡してあげたかい?」
「はい。……もう、毎日 夢中で眺めていますよ」
「そりゃあ、良かった」
私は、受け取った初版本をパラパラとめくって、出来を確認する。
 私も、大満足だ。
「ところで……一冊だけ、ギフトラッピングということでしたが……どなたかに、プレゼントですか?」
「そうだよ。……藤森ちゃんに」
私は、別の袋に入っていた、包装紙で包まれた一冊を取り出した。
 すぐ近くで聴いていた彼女は、「私ですか?」と言いたげに、自分の顔を指さす。
「恐竜のお話だから……君に」
彼女は両手で受け取ってから、何度も礼をした。
「そうでしたか」
彼女が「亡くなった恐竜博士の娘」であることは、岩くんも知っている。
「吉岡先生の……最後の絵本ですから。どうか、大切になさってください」
「最後!? えっ……どういうことですか!?」
岩くんの言葉に、坂元くんは動揺していた。
「驚かせて ごめんよ。私は、これを最後に、絵本は【引退】したんだ。……今後も、文学作品は書くから、作家には違いないよ」
「そうなんですか!?知りませんでした……」
「あえて言わなかったんだ。静養中の君に……『仕事』の話は、したくなかった」
「そうでしたか……」
私が坂元くんに語りかける横で、藤森ちゃんが包装紙を外している。それを綺麗に畳んで、食卓に置く。
 中の絵本を開く。静かに、熟読してくれている。
「特に、暮らしぶりは変わらないと思うよ。アトリエだった部屋で、執筆をするようになるくらいかな?……君達にお願いしたいことは、何も変わらないよ」
「……わかりました」
「良かったら、君も読んでくれ」
「もちろん拝読します」

 初版本の読書会が終わり、やがて、4人での昼食が始まる。悠介が不在だと、テレビは つけないことも多い。
 静かな部屋で食べながら、坂元くんが岩くんに尋ねる。
「あの……哲朗さん。僕に、頼みたい事というのは……」
「あぁ。……もし、お嫌でなければ、ご都合の良い日に、スーパー銭湯に付き合っていただきたいのです。私は……もう、一人では公衆浴場に行かせてもらえないので」
黒い丼鉢と箸を手に、岩くんが、気恥ずかしそうに依頼する。
「わかりました!ご一緒しましょう。いつでも、連絡ください。都合つけます」
「恐れ入ります」


 食事を終えて岩くんが帰った後、坂元くんが数日前に北海道から発送した食品が2箱届いた。それらは、今日の夕食にも使われる。
 北海道限定の お菓子も入っている。その中の一部を、坂元くんは紙袋に取り分けて大事そうに持っている。
「今度 哲朗さんが来たら『お子さん達に』って、お渡ししたいんです」
「次は、いつ来るかなぁ……?」
彼はもう総務部の人材で、私の担当編集者ではない。彼の自宅まで届けに行ったほうが早いだろう。

 またインターホンが鳴り、倉本くんだろうと思いながら応対すると、稀一少年であった。
「相変わらず、アポ無しで来るよなぁ……」
 私が一人で迎え入れる。
 これまでは私服にランドセルを背負っていた彼が、大きめの中学校の制服を着て、重たそうな校章入りのボストンバッグを斜め掛けしている。
「素晴らしいタイミングで来たね」
「何が?」
「北海道のお土産があるんだ」
「くれんの?」
「せっかくだからね」
「やったぁ!」
「……君の大好きな、お姉ちゃんも居るよ」
「やめろや!!」
思春期の彼は、顔を真っ赤にして口答えをする。私は、昔の弟を見ているようで、笑いが止まらない。彼らは、面識も無いし、親族でもないのに、どんどん似てくる。不思議で堪らない。

 2階に上がってきた稀一少年は、坂元くんから受け取ったジャガイモの菓子を食べながら、藤森ちゃんに注いでもらったお茶を飲み、彼女に中学校の制服や鞄、教科書を見せている。
 彼女は、大いに関心を持って聴いてやる。
 坂元くんは、台所で夕食用にと鮭の半身を切っている。稀一少年の分も、追加で焼いてやるようだ。
 男子中学生なら、夕食前でも、焼き魚の一切れくらい、平気で食べるだろう。

 私は、届いたばかりの初版本を稀一少年に見せたが、彼はあまり興味を示さなかった。
 しかし、同じ本を藤森ちゃんが薦めると、一転して熱心に読み始めた。私は、そんな彼を「可愛い」としか思わない。
「うわ!凄いなぁ…………絵、めっさ巧ない!?」
「……お誉めに預かり光栄だよ」
「先生、やり手やな」
 いつの間に、呼び名が「おばちゃん」から「先生」に変わったのだろう?……もう、忘れてしまった。


 またしてもインターホンが鳴る。今度は早上がりしてきた夫である。
「ただいまー……」
かなり疲れた様子で、眼が泳いでいる。
 それでも、風呂に入る前に坂元くんに会いたいと言い、2階に上がってきた。
「なんで稀一が居るんだよ?」
「遊びに来た」
「おまえ、部活は?入ってねえのか?」
「入れへんよ。アホみたいやから」
「アホみたいって、おまえ……」
呆れたように言ってから、台所に向かう。
「悠介さん、おかえりなさい!」
「坂元さんこそ……おかえりなさい」
挨拶を交わしたら、夫は冷蔵庫を開け、いつものスポーツドリンクを取り出す。
 坂元くんが、当たり前のように手を出して それを受け取り、開栓して夫に返す。夫は「ありがとうございます」と小声で言ってから、3分の1くらい飲む。
「具合、どうすか?」
「おかげさまで。すっかり良くなりました」
「良かったっす……」
坂元くんが再び手を出して、キャップを閉めて返す。
「俺、風呂入ってきますね」
「はい、どうぞ」
夫は、ペットボトルを手に1階へ降りていく。

 夕食が出来上がる頃になって、倉本くんが帰ってきた。念のため、玄関まで迎えに行ってやる。
「おかえり」
彼は、もごもごと不明瞭な発音で「ただいま帰りました」と言い、その後も何か別のことを言ったが、よく聞き取れなかった。
「今日、例の坂元くんが復帰したよ」
少し大きめの声で言ってやると、彼は「そうですか」と言いながら、持ち帰ったリュックから空の水筒を取り出した。
 それを2階に持っていく。

 2階で坂元くんとの対面を果たしたが、稀一少年まで来ていて人が多いためか、倉本くんは縮こまってしまった。料理に関する坂元くんからの問いかけに、まったく答えられずにいる。
「少し、下で休んでくるかい?」
私が訊くと、彼は頷きで答え、そのまま下の階に消えていった。
「……彼、具合悪いみたいですね」
「外出で疲れたんだろうね。……とりあえず、寝かせてあげよう」
 彼は、誰かと「2人きり」なら よく話せるが、人目につく外出先や、同じ部屋に大勢の人が集まっているような場所では、今のように黙り込んでしまう。
「元来の性格も、内向的なんだと思うよ」

 施設の夕食の時間が迫る。まずは稀一少年一人だけが、北海道の美味しい鮭を白いごはんと共に味わい、私が彼を送り届けて戻ってきてから、残りの人員が夕食を摂ることになった。鮭を中心にした豪華なメニューである。私は、彼の味噌汁が楽しみで仕方ない。
 倉本くんも起きていて、緊張した面持ちで夫の隣に座っている。
 配膳が終わり、学校給食のように「いただきまーす!!」と、みんなで挨拶をして、食事が始まる。
 本日の【主役】は、坂元くんである。私や夫が あれこれ訊いて、彼が律儀に答えるのを、若い2人は黙って聴いている。

 食後、後片付けを終えた坂元くんと藤森ちゃんが明日以降の互いの出勤日について話し合うのを、私も隣で聴いていた。「毎日、どちらか一人が出勤する」のが理想的だが、必ずしも強要はしない。ゼロの日があっても良いし、2人の日があっても良い。
 出勤日時は「カレンダーに書いておいてね」としか言わない。(カレンダーに書かれた青色のSが坂元くん、緑色のFが藤森ちゃんの印である。時間帯も、通常と違う場合は併記されている。)
 また、同じカレンダーに書かれている赤色の丸印は、夫の休日を示している。

 出勤日の相談は明日以降に持ち越され、黙々と私の最新作を読んでいた倉本くんのもとへ坂元くんが歩み寄り、改めて挨拶をした。隣に座り、「このくらいの声で、聞こえますか?」と確認してから、明日以降の食事について、彼に再度確認を取っていた。
 食事中の会話で坂元くんの人となりが判って安心できたのか、倉本くんは、初めよりは話すことが出来た。
「他の人に揚げ物を出す時、倉本さんは別メニューのほうがいいですか?」
「そ、そうですね……油は、本当に、最小限にしないと、腹が……」
「わかりました」
 倉本くんは、ずっと読みかけの絵本を離さない。
「ところで、和室の掃除や、布団を干すのは……僕らがしてもいいですか?」
「じ、自分で、やり、ます……」
「そうですか、わかりました。……もし、何か僕らに頼みたい雑用があれば、いつでも言ってください」
「は、はい……」

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 ハウスキーパー2人が退勤した後、私はリビングで座布団を並べた上に倉本くんをうつ伏せで寝かせ、岩くん直伝の整体術を伝授していた。猫背改善が期待できる『肩甲骨はがし』である。上半身はTシャツ一枚になってもらい、肩甲骨を体から引き剥がすつもりで、指先を背中に食い込ませる。
「い、い……!」
痛みに悶える彼に「終わればスッキリするから!」「嘘みたいに肩が軽くなるよ!」と、効能のみを伝え続ける。
 うつ伏せから、横向きに体勢を変えてもらい、更に深いところまで指先を入れる。
「うぅっ……!」
「私は、これを『自分でやる』のが大好きなんだ」
もちろん、体の向きを変えて反対側にも入れる。
 ひとしきり施術が終わると、彼は起き上がって肩を回した。
「お……!?」
「どうだい。スッキリしただろう?」
「す、凄い技ですね、先生……!」
「これを続けて姿勢が良くなれば、深く息が吸えるから、体調が ぐっと良くなるよ」
「は、はい!」
「それから、難聴に効くツボというのもあってね……」
私は、自分の耳周りの、該当する箇所を押したり、揉んだりして見せる。彼は、自分の手で同じようにやってみる。時折、痛そうな顔をする。
「両側を同時に、息を吐きながら押して……吸う時に緩めるんだ」
彼は、素直に実行する。
「ここは、押したからといって、すぐには効果を感じないとは思うよ。毎日、コツコツ続けるのが良いだろうね」
「はい……」

 私達が思い思いにツボ押しを続けていると「パソコンの部屋でゲームをしていた」という夫が2階に上がってきて「俺も肩を揉んでほしい」と言い始めた。(彼は『応接室』という呼称を使わない。)
「しょうがないなぁ……」
私は要求に応じ、座布団に座った彼の肩を揉み、上腕も充分に揉みほぐしてから、肩関節をよく回す。
 彼が仕事で酷使する肩と腕は、いつも凝り固まっているか、ぱんぱんに張っている。特に、左の肘にかかる負担が大きく、傷みやすい。(義手を着けていない時、その部分が「手」に等しい役割をする。何かを書く時に紙を押さえたり、受話器を耳に押し当てるのに使ったり、右手を空ける必要がある時に鞄などを肘に引っかけて持つ。)
 有り余る袖に隠れた断端を持って、左腕を左右に何度も捻ったり、肘の関節をゆっくり回したりする。小さな声で「いててて……」と言う彼に、私は「肘を着いてゲームするのをやめないとね」と返す。
 彼は苦笑で応える。

 倉本くんは、風呂に入るため1階に降りていった。

 施術が終わった後、夫は事務机の上に積んだままになっていた私の【最後の絵本】を一冊 手に取った。
「そういや、これまだ読んでなかったわ……」
いちばん近い座布団に座り、胡座をかいた脚の上で絵本を開く。
 彼は「全部 読まないと哲朗さんに顔向けできない」として、私の絵本は全て読んできた。
 とはいえ、私に告げる感想は大抵「すげぇなぁ」か「巧いなぁ」である。いつも、あまり細かいところまで言及しない。(岩くんにだけは、詳しく話しているようだ。)
「何つーか……『あぁ、諒ちゃんと哲朗さんの本だなぁ』って感じがする」
彼は珍しく しみじみと感想を述べるが、私はそれが こそばゆい。
「何だ、それは。ただの『事実』じゃないか」
「いや……この2人が揃うって、やっぱ、凄いことだぞ?国宝級の『ゴールデンコンビ』だ」
いかにも少年漫画的な言い回しだ。
「……漫画の読み過ぎだろ」
「なんでだよ!?」
「……【国宝】は、彼一人だけだ。私は違う」
「謙虚だなぁ……」
「何とでも言え」
私は、あえて腕を組んで そっぽを向いた。

 彼は、読み終わった絵本を閉じ、食卓に置く。
「いやぁ……。絵本そのものが久しぶりなのに、これが【最後】だなんてなぁ……。やっぱ、寂しいな」
「そうかい?……私が暴れたり叫んだりしないほうが、おまえも気が楽だろ」
「んー……それとはまた別の話だよ」
彼は、頭をぽりぽりと掻いている。
「私はもう、絵本に未練は無いよ。……充分すぎるくらいに、素晴らしいものを遺せた。悔いは無い」
「もうすぐ死ぬみたいな言い方やめてくれよ」
「あと30年もしないうちに、死ぬだろうよ」
「もっと長く、生きられるだろ。日本なら……」
「どうだかね」
この身体が、80年を超えるほど長く生きるとは思えない。どんなに長くとも、60歳かそこらで、力尽きるような気がしている。
 私は、それで充分だ。

「これからは、どういう本書くんだ?やっぱ、動物の話か?」
「いや……次からは、人間の話を書きたいな。せっかく文字数の多い分野に転向するんだ。人間の【心理】とか【記憶】について、物語の中で、しっかり書いてみたい。……あとは『人間と動物の関わり方』なんてのも、良いテーマかもね」
 未公開作品の構想について、あまり詳しくは語れない。相手が家族とはいえ、盗用防止のためには重要なことだ。
「諒ちゃんは、やっぱり【心理】と【記憶】の専門家なんだな」
「とんでもない。……私は ただの『学者崩れ』だ」
「俺は……諒ちゃんは、今でも『学者』だと思うなぁ。あれだけ たくさん本を読んでさ。テレビが嘘流してたら、すぐに気付くし」
「テレビの信憑性は低いよ。使われている言葉が、もはや【日本語】とは呼べないほど貧しいし、『金と数字が全て』の業界だからね。どこから どこに、どのくらい金が流れているのか、見えてくるだけさ。もう、何でもかんでも『スポンサーの言いなり』だ。学術的な情報でさえ、そうだよ。今どきのメディアや研究機関にとっては『情報の正確性』よりも『いくら貰えるか』のほうが大事なんだ。信用に値する放送局なんて、ごく僅かじゃないかな?」
「また、難しいことを言い始めたな……」
「テレビなんか見てる暇があるなら、漫画でも良いから、良質な書籍を読むことだね」
「……耳が痛いな」
私は、あえて何も言わず、ただ笑ってみせた。
「作者の人生が詰まった 架空の物語の中にこそ、本当に大切な【真理】が隠されていると……私は思うね」
 彼は、大きな欠伸で応えた。
「ははは。……先に寝るかい?」
「そうすっかな……」


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 翌朝。夫が欠伸をしながら電子レンジで弁当用の おかずを温めている横で、私は3人分の朝食を用意する。ついでに、夫の弁当箱に ごはんだけは入れてやる。(彼は毎朝、弁当を2つ持って出かける。)
 やがて、倉本くんが のろのろと起き出してきて、もごもごと不明瞭な発音で「おはようございます」と言う。私達は、至極 当たり前のように「おはよう」と返す。
 彼には、何度も「無理して私達と同じ時間に起きなくてもいい」と伝えてあるが、彼は「毎朝 必ず悠さんを見送る」として譲らない。
 大抵、彼が朝食を食べ終わるより先に、夫は出かけていく。
「じゃあな、和真!」
「い、いってらっしゃい……」

 夫が出かけ、自分も朝食を食べ終えたら、一休みしてから、3階で携行する本を選び、倉本くんに留守を任せて、日課の散歩に出かける。
 帰宅して2階に上がると、リビングで倉本くんがスマートフォンを使って障害者向けの求人サイトを観ていた。私が隣に座っても、閲覧を続ける。
「良さそうな所は、見つかった?」
「よく……わかりません……」
「焦らなくていいと思うよ。年金から、部屋代が出せるわけだし……」
「でも……やっぱり、悠さんや先生を見ていると……『自分も、働きたい』と、思います」
「そうかい?……真面目だねぇ」
「……誰かの役に立つって、誇らしいじゃないですか」
「そうだね」
無理をしてほしくはないが、以前は「働くのが怖い」と泣いていた彼が、就労に関して前向きな言葉を口にするようになったことは、喜ばしい。
「今の僕には……何が出来ると、思いますか?」
「んー?何だろうね……工場で何かを組み立てるとか……ネット通販の裏方さん なんて、どうだろう?」
「僕、パソコンは……苦手です」
「難しいよね、今どきのは。……私も、あまり得意じゃないな。執筆以外は、ほとんど何も出来ないよ」
どんどん新しいものが出てきて仕様が変わっていく「パソコン」というものの発展に、私は もう ついていけない。
「まぁ……何にせよ、どんな職種でも良いけれども。
 前向きに、自分らしく、楽しく……仕事ができたら、良いよね」
「前向きに、自分らしく、楽しく……」
 彼が復唱した それは、私にとって、少なからず思い入れのあるフレーズであるが、それは【秘密】なのだ。

 インターホンが鳴り、合鍵を使って坂元くんが入ってくる。
 2階に上がってきた彼に、私は朗らかに挨拶をする。
「おはよう!」
「おはようございます」
「お、お……おはよう、ございます……」

 さぁ、新しい一日が始まるぞ。

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【完】



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