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小説 「僕と彼らの後日談」

 僕は一人で札幌駅に居た。千秋は、ついて来なかった。僕は「いつの日か、両親の墓前に彼女を連れて行きたい」「彼女を両親に紹介したい」という願望を捨てきれないのだけれど、生憎あの墓地は古くて通路が狭く、石畳の状態も悪くて車椅子は進入できそうもないので、それは未だ実現には至っていない。
 また、千秋は自身の両親と、彼らが所属する【教団】への警戒心がとても強い。あの頃は受傷と離婚の直後だったからこそ、土地勘のある場所へ引き揚げてきていたわけで、再婚して生活の基盤が近畿地方へと移った今、彼女が札幌に近寄る理由は無くなった。
 僕が「一緒に里帰りをしよう」と誘っても、彼女は頑なに同行を拒んだ。


 勝手知ったる駅の中、目当てのローカル乳酸菌飲料を買ってから、巨大な赤い足のオブジェの前を通り過ぎ、バスターミナルへ向かう。バスを待つ間に頭痛薬を飲んで、今宵の宿の主にショートメールで連絡をする。瞬時に「了解」と返信が来た。
 既に両親を亡くし、兄弟も居ない僕には、帰省先となる「実家」が無い。安いホテルに素泊まりをするか、友人宅で世話になるのが通例だ。


 一時間ほどバスに乗り、降りてからは10分ほど歩いた。すっかり通い慣れたアパートの、1階のとある部屋でインターホンを押す。
 家主は何も言わなかったけれど、すぐにドアが開いた。
「坂元です。ご無沙汰しております」
「おぉ、来たか。……まぁ、入れや」
「失礼します」
 もう還暦を過ぎた部長は、お会いするたびに白髪が増えている。しかし、ご本人はご自分の外見に無頓着で、髪型や白髪の量、服の組合せについて、誰かに訊いてまで整えようとはしない。寝ぐせの有無は触って確かめ、直す方法は「帽子を被るだけ」である。(そもそも、部長は基本的には坊主頭に近い短髪で、乱れるといっても知れている。)

 部長は壁を伝って歩きながら、途中で見つけたスイッチを押して廊下と居間の照明をつけてくれた。後からついて行った僕は、居間に立ち入った際に廊下の照明だけは消した。
 部長は、迷わず食器棚に歩み寄る。自宅にある家具の位置は、全て体で覚えているという。
「好きなとこに座れ。座布団なら、そこらへんに在るだろ」
「はい」
部長が食卓にグラスを2つ置くのを見届けてから、僕は自分で座布団を拾い上げ、部長が座るであろう場所の向かい側に座った。
「まぁ、しばらく休め。長旅で疲れたろ……」
部長は、冷蔵庫から取り出したピッチャーから、食卓に並べたグラスにお茶を注ぐ。音を頼りに注いでいき、零すことなく止める。少なすぎるということもない。片方を注ぎ終わるとすぐに、僕の居るほうへ置き直してくれた。
「いただきます」
僕はそれを、丁重に頭を下げてから頂く。
 部長も、ご自分用の一杯を注いだら、すぐにそれを飲み始めた。そこで僕は手土産の かりんとう饅頭を取り出し、箱ごと食卓に置いた。
「これ、奈良で買ったお饅頭です。よろしければ、是非……」
部長は箱に触れた瞬間に「でかいな」と呟き、更には商品名を言い当てた。そして、中のあんが5種類あることもご存知だった。
 そのまま「抹茶のやつを食いたいな」と言いながら包装紙を破り捨て、箱の蓋を開けたら、僕に中身が見えるよう箱を回した。
 僕はすぐさま抹茶餡入りのものを全て箱から取り出し、部長の手元に並べた。部長は、その中の一つを取って開封しながら言った。
抹茶こいつらだけは『ノーマーク』で良いから、残りの奴は、味ごとに違いが判るようテープを貼ってくれ」
「わかりました」
 僕は かつての休職中、何度も部長のために飲料の紙パックに識別用のビニールテープを貼る作業をした。牛乳だけは、初めからパックの上部に凹みがあるけれど、他のものは「牛乳ではない何か」ということしか、全盲の人には判らないからだ。(そのため、僕が買い物に同行したこともある。)
 テープとはさみがどこに在るか、僕は ちゃんと憶えている。出してきた青色のビニールテープを細長く切って、饅頭の個別包装の袋に1本だけ巻きつけるか、あるいは2本並べて巻くか、十字に巻くか、巻きつけないで片側だけに貼るか……識別法を即興で考えて貼っていく。
 僕がそんな「内職」をしている間にも、部長は黙々と抹茶餡の饅頭を食べ、麦茶のおかわりを注ぐ。

 この須貝部長と同じアパートの隣の部屋に、僕の同級生の修平が住んでいたのだ。以前は、泊まるとすればそちらの部屋だった。しかし、彼は今……札幌には居ない。つい最近、一念発起して造園会社を辞め、北海道内陸部の林業会社に転職してしまった。彼の先祖は東北の南部地方で「木こり」をしていたらしく、彼自身も「木こりの血が騒ぐ」と言って造園会社に入ったのに、現場に出ることの無い管理職に昇進して以来、ずっと不満げだった。
 どうしても、現場でチェーンソーを振るう身分に戻りたかったらしい。

 饅頭を2つ食べ、再び麦茶を飲み干した部長が、違う話をし始めた。
「おまえに捌いてもらおうと思ってな……生のホッケを買ってある」
「部長は、本当に魚がお好きですね」
「美味いからな」
「僕も、魚は好きです」
「良いことだな。健康的だ」
魚が好きな部長は「北海道に移住して良かった」と、本当に何度でも言ってくれる。道産子どさんことしては、誇らしい。
 料理を始める前に、僕はテープを貼り終えた饅頭の袋を部長に手渡し、それぞれの感触の違いを確かめてもらいながら中身を伝え、了承を得てから、それらを全て箱に しまった。


 僕が台所に立つ間、部長は例の読み上げアプリでニュースを聴きながら、寝室の中を2人分の布団が敷けるよう整頓し始めた。

 夕食が出来上がり、配膳も終わったことを伝えに行くと、そこにはもう布団が敷かれていた。
 僕は部長を座布団の位置まで誘導し、食卓上の「何時の方向に何があるか」を端的に伝えた。名前が付くような大それた料理ではないから、何を焼いたか、あるいは煮たか、味噌汁と米はどこにあるか、その程度の情報しか伝えられない。それでも、部長は満足げに頷きながら聴いてくれた。
 僕も向かい側に座って、互いに手を合わせ、食事が始まる。部長は今も柔道を続けているから、食欲は旺盛だ。大きな丼に盛ったごはんを、おかずと共に ものすごい勢いで食べる。

 先に食べ終えた部長が手探りで食器を重ね始めるのを見て、思わず「後で僕が下げますよ!」と声が出た。部長は「すっかり、一端の家政夫だな……」と呟いて、食器に触るのをやめた。
 しばしの沈黙があってから、まだ食べている僕に部長が言った。
「修平の野郎がよぉ……一回、泣きながら俺のとこに来やがった日があってな」
「あいつは昔から泣き虫です」
「そうなのか?……まぁ、何にせよだ。その時に、俺は……聴いちまったんだ。おまえの嫁さんの話を」
それはきっと、修平の涙と気遣いが裏目に出て千秋の「逆鱗」に触れてしまった時の話だろう。修平のほうから、堪えきれず部長に話したということか。
「本州の高速で、派手に事故って……両脚あしが、ほとんど失くなっちまったんだってなぁ」
「……そうです」
僕は努めて冷静に、事実だけを述べる。それは、彼が上司だった頃から変わらない作法だ。
「修平の奴は、そのことが相当ショックだったようでなぁ……本人の前でも泣いちまったそうだ。だが、そうしたら家から追い返されて、連絡も取れなくなったって……更にまた落ち込んでいやがった」
「僕も、妻からその時のことは聴いています」
「おまえの嫁さんは……随分と、気が強いみたいだな」
「とてもつよい人ですよ。僕は、そこに惹かれました」
部長は「なるほど」と呟いて、小さく笑った。
「向こうで、元気にしてるのか?」
「はい。それは、もう……僕なんかより、ずっと。活動的で、多趣味です」
「連れて来れば良かったじゃないか。もう、修平と出くわすことは無いんだからよ」
「……次こそは、連れて来たいと思ってます」
「旦那との帰省より、仕事を選んだか?」
「概ね、そんなところです」
「……逞しい人だな」
それは間違いない。僕は、あんなにも逞しく毅い女性を、他に知らない。


 2人とも順番に入浴を済ませ、22時を過ぎる頃には「消灯」となった。部長は元から早寝だし、僕は一日がかりの移動で疲れていた。
 ところが……寝入り端、僕のスマートフォンが鳴りだした。千秋からの着信だ。
「何だ、何だ。こんな時間に……」
部長も目を覚ましてしまった。
 僕は「妻からです」とだけ答えたら、寝室を抜け出して応対した。
「どうしたんだよ、こんな時間に」
「ごめんね、稔……。北海道に居るあんたに言っても、どうしようもないかもしれないんだけどさ……」
「なしたの?」
さとるくんの行方が、分からないらしいの!」
その一言で、途端に目が覚めた。
「えっ!!?……え、いつから?なして?」
 彼女の説明によると、悟くんは、父親・哲朗さんが自宅敷地内の美術品保管庫の整理をするのを見物していたはずが忽然と居なくなり、自宅にも、祖父母の家にも、戻っていなかったという。(彼らの住居は二世帯住宅である。)家族で敷地内や近所を捜し回り、学校や警察にも連絡したが、失踪から2日経った今も見つからないという。
「一人で電車に乗って、吉岡先生の家に行ったりしてないかな!?」
「来てないって……」
そして、伯母の瑞希さん宅にも、来てはいないらしい。
(まずいぞ、これは……!!)
「稔、他に心当たり無い!?」
「え……何だろう。恐竜の博物館か、水族館が好きだよね、あの子……」
「お金の使い方知らない子でしょ!?電車、乗れる!?」
「あぁ……分からない……」
僕は、思わず額を押さえる。
 睡眠時間はどんなに短くても平気だし、日中も まるで疲れを知らないような彼なら、その気になれば、たとえ数百キロを歩いてでも、大好きな場所へ行ってしまいそうな気はする。
 しかし、僕がそれよりも危惧しているのは、服を着たままでの水遊びが大好きな彼が、自宅の風呂場で遊ぶのと同じ感覚で水辺に近寄ってしまうことである。独りで川へでも行ってしまったら……取り返しのつかないことになる。
「僕、明日そっちに帰るよ」
「帰りの飛行機、もう予約してあるしょ!?」
「別に、出張でも何でもないんだ。予定通りに帰ってる場合じゃないよ」
「……警察が、捜してくれてるよ?」
「信用できるかよ、警察なんか」
僕は「あの日」以来、警察などというものは少しも信じていない。

 電話を切って寝室に戻ると、部長が現場に居た頃を思わせる風格で座っていた。
「誰か知り合いの子どもが、居なくなったのか?」
「そのようです……」
「いくつの子だ?」
「8歳の……自閉症の子です」
「まずいな、それは……」
部長の顔が、険しくなる。
「僕、どうにも心配で、墓参りどころではなくなりました……」
僕は自分の布団の上に正座し、僕のために連休を取ってくださった部長に頭を下げてから「早急に帰らなければならない」と伝えた。
「誰の子なんだ?……その子の親は、おまえが そこまでするほどの相手なのか」
「僕の……僕の【恩師】の子です。その人が居なければ、僕は……結婚なんてしないまま、死んでいたかもしれません」
「吉岡の先生に、子どもは居ないだろ?……恩師ってのは誰だ」
「先生の、担当編集者だった方です」
「担当さんが、おまえの恩師?…………よく解らんが、まぁ良い。おまえがそこまで言うなら、俺は止めない。一人でも、休暇は休暇だ」
「痛み入ります、部長……!」
僕は、改めて頭を下げた。
「おまえは、どうしてそう頑なに『部長』と言い続けるんだ?俺はもう、ただの『弁当屋の事務員』だ。パートのおっさんだ」
「……須貝部長のもとで働いた時間は、僕の人生における【最高の時間】です。僕は、それを……生涯、忘れずにいたいのです」
「変わった奴だ……」

 僕は翌朝には部長宅を発ち、空港で手元にあった航空券を払い戻して当日分を買った。


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 大阪の自宅に帰り着くなり、僕は大急ぎでシャワーを浴び、悟くんの捜索に出かけようとした。しかし、風呂上がりに服を着ている最中、千秋に「今日は やめときな」と反対された。
「バカ言うでねぇよ。何のために帰ってきたと思ってるんさ!?」
「ど素人が勝手に捜し歩いたって、どうにもならんしょ!!」
「マッポなんぞに何が解る……!」
「稔。少しは休まないと……あんたが倒れてしまうよ」
「……僕は行くからな」
千秋の反対を押し切り、僕は家を出た。
 哲朗さんの家から歩いて行ける範囲で、池や噴水がある公園を しらみ潰しに当たってみた。

 しかし、そうそう簡単には見つからない。目撃情報さえ得られない。哲朗さんに頼んで送ってもらった悟くんの写真を、何十人という人に見せたけれど、駄目だった。
 この日は何の収穫も得られないまま帰宅し、千秋に叱られながら夕食を摂る羽目になった。

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 その翌日も、僕は早朝から悟くんを捜し回っていた。前日には行かなかった公園を中心に、川沿いにも捜索範囲を広げ、そこで暮らすホームレスと思われる人達にも、思いきって聴き込みをした。
 しかし、何も収穫は無かった。


 昼飯時になっても、飲料だけで空腹を誤魔化しながら、休むこともなく歩き回った。もはや「強迫観念」に近いような衝動に駆られていた。
 やがて、大きな池が近くにあるはずの公園にたどり着き、僕は遊具の周辺を歩きながら、水場の気配を探していた。広い公園の奥のほうに、バケツと、魚を獲るための青色の網を持っている少年達が見える。
 そちらに向かおうとすると、ふいに頭の上から声が降ってきた。
「おっさん、こんなとこで何してるん?」
(無礼なガキだなぁ……!)
思わず舌打ちをしながら顔を上げると、滑り台と雲梯うんていが一つになったような遊具の上に座っているサンダル履きの小僧が、昔ながらのプラスチックチューブに入ったアイスを吸いながら、僕を見下ろしている。
「おまえ、稀一きいちか……!!?」
「せやでぇ」
僕の問いかけに応じる顔は、なんとも憎たらしい。漫画に描いたような「悪戯小僧の笑い方」だ。
 こいつは……中2だか中3だか、忘れてしまった。吉岡先生の「ペンフレンド」を名乗る少年だ。とはいえ、先生宅に手紙が来ることはめっきり減って、本人が顔を出す頻度が上がっている。そして、こいつは僕ではなく藤森さんが出勤している日を明確に狙って訪ねてくる。……要するに、藤森さんのことが好きなのだろう。
「おっさん、上から見たら……だいぶ『きてる』で」
「何が!」
「頭頂部の毛根に、元気が無いわ」
「やめろぉ!!」
確かに、最近になって抜け毛が増えたという自覚はある。あるけれども!
「降りてこい!“しばき回して“やるから!」
「いーやーやぁー!」(※「嫌だ」という答え。)
(ムカつくなぁ……!)
 いかにも素行の悪そうな中学生が上を占拠しているためか、同じ公園に居る他の小学生や幼児達は、その遊具に近寄らない。
「僕は今、大事な人の子どもを捜してるんだよ!!邪魔しないでくれ!」
「『大事な人』て何やねんな。……妾か?」
「げんこはっぞ、マジで!!」
(※「げんこはる」……北海道弁で「げんこつで殴る」を意味する。「はっぞ」は「はるぞ」という脅しが訛ったもの。)
 しばらく「意味わからん!」と言いながら笑い転げていた稀一は、やっと少しだけマトモな事を言い始めた。
「捜してるんは、どういう子?……何歳?男子?女子?」
「8歳の男の子だよ!4日前から、行方が分からないんだ……!!」
「……『いわした さとる』くん?」
「なんでそれを!?」
「そこにおるで」
「はぁ!?」
稀一が指した方向を見ると、少し遠くに、本当に そのくらいの年頃の子どもが独りで ぽつんと しゃがんでいた。「まさか」とは思いつつ、僕は近寄って確かめる。
 随分と砂で汚れた服を着て、植え込みを囲う小洒落たコンクリートブロックの上に、黙々と小石を並べている。痩せ型で耳が大きい、お父さん譲りの癖っ毛を、丸刈りにした男の子……。
「本当に悟くんだ……!!」
彼は今、いつも自宅の庭で玉砂利を並べて遊ぶのと、同じことをしているつもりなのだろう。(誰かが その石の列を散らかすと火がついたように怒るので、本人が納得して片付けるまでは安置するしかない。強風や、野鳥などの動物によって列が乱された場合でも、彼は激怒する。)
「悟くん!僕、稔だよ!こんにちは!」
自分も近くにしゃがんで、挨拶をしてみる。しかし、彼は依然として小石を探し、摘み上げて並べるのに忙しい。それはまるで、渾身のアート作品の制作に勤しむ芸術家のような姿だった。
「先生や父やん達が、ずっと悟くんを捜しているんだ!」
僕がそんなことを言ってみても、当人は「どこ吹く風」で、全く脈絡の無い独り言が返ってくる。(芸能人の名前とか、地名や店舗名らしきものの羅列だ。テレビで聞いた音声の記憶だろうか。)
 0歳の頃から何度も会っている子だけれど、彼が僕の言葉掛けに応じることは まず無い。彼を先生宅で預かったとしても、会話が成り立つのは先生だけである。そして、彼は先生か藤森さんに対してなら、手を掴んだり物を見せたりして要求を伝えようとするけれど、僕や悠介さんには近寄ってこない。僕らが何か食べ物を与えれば喜んで食べてくれるけれど、それを きっかけに絆が深まるということは無い。彼にとって僕らはまるで空気のようで、依然として「知らない大人」のままかもしれない。

 僕が悟くんとの対話に難儀していると、遊具から降りてきた稀一が近寄ってきた。手には、アイスや菓子を食べた後のゴミを詰めたレジ袋を提げている。
「おっさん、全然アカンやないか」
「……この子は、昔からこうだよ」
「俺には、ちゃんと喋りやるで」
いつの間にか、稀一の一人称が「俺」に変わっている。
「なぁ、さとる。俺と、ずっと一緒に遊んどったもんなぁ?」
「はい」
(返事した!)
「きーちさんと、あそびに行きました」
悟くんは相変わらず小石ばかり見ているけれど、脈絡のある報告が出来ている。
「お話、上手になったね……」
「小2舐めとるんか、おっさん!」
「おっさん言うな!!『稔さん』と言え!」
 僕はずっとしゃがんでいるけれど、稀一はポケットに片手を突っ込んで、立ちっぱなしだ。
「稀一。この悟くんを、どこで見つけた?」
「ここと違う公園。噴水の中入って、きゃあきゃあ言うてたから……ちょっと、一緒に遊んだ」
(やっぱり、水場に居たか……!)
「そっから、ずっとついて来る。しゃーないから飯食わして、服も何回かあろたで」
「意外に、面倒見が良いな……」
 しかし、その後の稀一の“供述“から浮かび上がってきたのは、彼らが、少なくとも2日以上ずっと一緒に居るということだ。稀一は学校にも行かず、更には、知り合ったばかりの小学生を家に帰らせず、交番にも送り届けずに連れ回していることになる。僕は、その点について問い質した。
「俺、今また不登校やしなぁ……施設になんか、滅多に帰らん。空き家の庭に作った『秘密基地』が在るから、毎晩そこで寝る」
「おまえ!それ【犯罪】だからな!?」
「俺は『存在せえへん』から、捕まれへんねん」
「そんなわけ、あるか!!」
どうやら、稀一はまだ「無戸籍」のままらしい。
 とはいえ、不法侵入も誘拐も、許されざることである。悟くん自身が本当に「帰りたくない」と言ったのだとしても……。
 持ち主が居ない家の、ジャングルのようになった庭にテントを張って、コンビニで買った物を飲み食いしながら寝泊まりしていたなどという、にわかには信じられない話に対し、僕は成人としての使命感から「正論」をぶつけ、稀一にだけは懇々と説教をした。
「警察には黙っててやるから、すぐに片付けて施設に帰れ!」
 稀一は、返事すらしないで、ずっと不貞腐れた様子で聞いていた。それでも、悟くんの側を離れることは無かった。

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 並べるのに適した小石が、手近な地面にはもう無いのだろう。悟くんが、しゃがみ込んだ体勢から、そのまま四つん這いに近い格好になって移動を始めた。誰も小石に手をつけていない「未開拓」の場所を探しているに違いない。
「悟くん!父やんに電話して、迎えに来てもらおうね」
「おい、待てや。“稔さん“」
「何だよ」
「この子は……『お母ちゃんに叩かれるんが嫌で、家出してきた』言うてたで?帰して大丈夫か?」
さすが、児童養護施設で暮らしているだけのことはある。「虐待」への警戒心が、染み付いているようだ。
 そして、その指摘は決して的外れではないのだ。悟くんが5歳くらいの頃に、激しい癇癪かんしゃくを起こして母親・千尋さんの手に噛みつき、頭を叩かれた……ということが起きたのは、僕も知っている。当時の千尋さんは、深く反省していたというけれど……悟くんの癇癪かんしゃく自体は今も頻繁に起きているわけだし、再び叩かれるようなことがあっても、決して不自然ではない。千尋さんだって、人間だ。我慢の限界というものは、あるだろう。
「それでも、お父さんが叩くことは絶対に無いから、お父さんを呼んで訊いてみれば良い」
「何やねん、その自信……」
「君も知っている人だから」
 何も言わずに目で問い返すその顔は、あの「ろくでもない会社」に居た頃の、僕をスカウトしに来た時の善治にそっくりだった。

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 哲朗さんに電話で連絡し、悟くんの声を聴かせて無事を知らせた後、迎えが来るまで、僕らは日陰で待機した。公園近くの自販機で大きめの缶ジュースを3本買って、それを飲みながら、3人での談話を試みた。……しかし、やはり僕は悟くんとは波長が合わない。僕が作る文章では、彼には伝わりにくいのだろうか?それとも、今の彼は「好きな遊びを中断させられた」という事実に対する困惑や不満で頭が一杯なのだろうか。
 いずれにせよ、素直に水道で手を洗って、大人しく木陰のブロックに座ってジュースを飲んでいるのだから、上出来だ。稀一を真似て、ジュースを垂らして蟻の隊列を分断するようなこともない。

 断腸の思いで警察に捜索を委ね、やむなく義父と共に出勤していたという哲朗さんは、同僚が運転してきたと思われる見慣れない車で駆けつけた。その車は、公園の入り口で彼を降ろすなり走りだし、どこかへ消えた。
 僕は立ち上がってスマートフォンを持った手を振り、彼に自分達の居場所を伝えた。よく見るポロシャツ姿の彼は、いつものリュックを背負って、ふぅふぅと息をつきながら、小走りと大差ない速度で歩いてくる。
「……『岩くん』やないか!」
稀一が、声を張り上げる。
 僕らの側まで来た哲朗さんは、一人で砂遊びをしている悟くんの姿を確認してから僕に何度も頭を下げ、2人分の空き缶を手にしている稀一にも礼を言った。
「ありがとう、稀一くん。私の息子を見つけてくれて……」
稀一は気恥ずかしそうに、はっきりとしない返事をしてから、哲朗さんの目に涙が浮かんでいるのを、何やら不思議そうに見ていた。
 哲朗さんは、4日ぶりに会う息子の側に腰を下ろし、いつものように、彼の両手を取った。
「悟。どこに居たんだ……」
悟くんのほうも、いつも通り父の手をじっと見つめている。重度の相貌失認があって、家族も含め「人の顔」を識別することができない彼は、乳児の頃からずっと、人物の顔に着目する習慣が無い。声や体型、手の形で、人を見分けている可能性が高い。
「とーやん、おしごと終わりました」
「おまえを迎えに来たんだ」
哲朗さんは、息子の手を固く握り「無事で良かった」と涙声で言ったのだけれど、当の悟くんは呑気なもので、砂だらけの手で父親の手を握り返したまま、ふらふらと上体を揺らしながら「楽しかった」と言った。少し、笑った気がする。
「楽しかったのか?」
「ポテトが、おいしかった」
「誰かに、買ってもらったのか」
「きーちさんと、買いました」
「良かったなぁ……お礼は言ったか?」
「ごちそうさまでした!」
「……よろしい。完璧だ」
 千秋から電話を受けた時には予想だにしなかった、和やかな時間が訪れた。
 稀一がどこから小遣いを得ているのかは知らないけれど、悟くんは、ファーストフード店で稀一にフライドポテトを買ってもらって食べたことが、何より嬉しかったようで、その時のことばかり話している。家を出た理由とか「秘密基地」での寝泊まりのことは、何も言わない。


 帰りの足について哲朗さんに尋ねると、先ほどの車で自宅に送ってもらう予定だという。運転してきたのは、僕の予想通り同じ会社の人だそうだ。
「よぉ、主任。駐車場が見つかったぜー」
 噂をすれば何とやらで、随分と毛深くて大柄の、外国人かと思うような風貌の五十絡みの男性が、車の鍵らしいものが たくさん付いた輪を指先に引っかけ、それをジャラジャラいわせながら歩いてきた。
 呼び方こそ「主任」だけれど、年齢や語り口からして、会社での立場は彼のほうが哲朗さんよりも上に違いない。僕の勘が正しければ、この人は部長クラス以上の大物だ。貫禄が凄まじい。
 哲朗さんは速やかに立ち上がり、彼に一礼してから「まずは自宅に帰ってから、警察に連絡したい」という旨を、先生に話す時のような淀みの無い敬語で彼に告げた。彼は「あいよ」と頷いてから、発見者の僕らに興味を示した。
 哲朗さんによる紹介で僕が「吉岡先生宅のハウスキーパー」だと知ると、彼はさも嬉しそうに笑い、小さなボディーバッグから名刺入れを取り出した。
 受け取った名刺には哲朗さんの名刺にあるのと同じ社名と共に「営業部長代理」「穂波 佑」と記載があり、下部には連絡先も併記されていた。そして、裏面には全く同じ内容が英語で記載されていた。
 僕はその「Tasuku HONAMI」という名に、覚えがあった。それについて、ご本人に確認したくなったけれど、まずは悟くんを無事に連れ帰るのが先決だ。邪魔をするわけにはいかない。


 哲朗さん達と別れ、僕と稀一だけが公園に残された。僕は、途端に空腹を感じた。
「稀一。昼飯は食べたかい?」
彼は、僕の問いには答えなかった。悟くん達が歩いていった方向を見つめながら、独り言のように呟いた。
「俺の婆ちゃんやったら、見っけた瞬間に頭 叩いたと思う……」
哲朗さんの反応が、彼の経験や「常識」とは かけ離れていたようだ。
「哲朗さんは、絶対に子どもを叩かない人だよ」
「……ホンマに、ええ人やなぁ」
それは、僕も全く同意見だ。
「ああいう先生が、一人でも うちの学校にればなぁ……。俺、また学校行くんやけどなぁ」

「なぁ、稀一。僕が奢ってやるから、何か食いに行こう」
「え……?」
「悟くんを見つけて、守り抜いたのは『お手柄』だから。お祝いしよう」
「さっきまで、あんな怒ってたのに……」
「それの『詫び』でもあるんだよ」


 稀一に焼き肉屋のランチメニューを奢ってやってから解散し、千秋に連絡すると「早く部長さんに連絡しなきゃ!」という応えが返ってきた。悟くんが見つかったこと自体は、既に哲朗さんから連絡を受けて知っていたらしい。
 僕は徒歩で自宅に帰ってから部長に電話をかけ、捜していた子どもが無事に見つかったことを報告した。部長は、知らない子とはいえ無事を喜び、僕の功績を誉めてくれた後、何故か「嫁さんに替われ」と言いだした。
 初めはそれを渋っていた千秋も、僕が一夜の宿を借りたことについて礼を言う必要性を感じたようで、結局は応じた。普段の声とか方言とは全く違う「お仕事モード」で部長と話す彼女の姿は、とても新鮮だった。
 そして、どうやら、いよいよ部長ご自身から「次は一緒に来てください」とお誘いを受けたようで、彼女は顔を赤くしながら「ご縁がありましたら……」などと、言葉を濁した。

 部長を こちらにお招きしたほうが、早いかもしれない。



 僕は、その日の夜に布団に入ってしまってから、稀一の「秘密基地」のことや、焼き肉を食べながら聴いた「不登校の理由」とか、悟くんの「家出」について考えた。大人の僕は悟くんの安否が気がかりで やきもきしたし、稀一の不法侵入を「犯罪だ!」と叱ったけれど、彼らには「逃げて身を隠す」だけの【理由】があって、それは、大人の側に非があるからこそのものだった。そして、自分が小中学生だった頃を思い返すと、むしろ彼らの大胆さや行動力が羨ましく思えてきた。
 彼らには、自分達で考え、安心できる場所で生き延びようとする知恵があった。僕が思っていたほど、子どもというのは無力ではなかった。
「小さくても【人間】なんだよなぁ……」
思わずそう呟いたら、もう寝入ったと思っていた千秋がまだ起きていたようで、隣から「どうしたん?」と声がした。北海道訛りの関西弁だった。
「……何でもないよ。起こして、ごめん」
「悟くんのこと?」
「まぁ、そだね」
「そりゃあ【人間】に決まってるじゃない。ヒトのはらから、産まれてきたんだから……」
世界中の人が、そうではないか。人工子宮など、まだまだ実験段階だ。全ての人が、誰かしらのはらから産まれている。
(みんな、同じ【人間】ってことか……)
壮大な話だ。こういった事柄について考えていると、自分の体質や過去に関する悩みなんて、随分と小さな事のように思えてくる。

 
 千秋に改めて「おやすみ」と言ってから、意識を手放せるまでが早かった。その日は、おそらく数ヵ月ぶりに熟睡できた。


 【終】

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