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影響を受けるって悪くない

マネしてるわけではなくても、文体はうつるのかもしれない。読んだ本とか、好きな人が書いたブログとか、自分が今まさに触れてるものに影響されることは、きっとたくさんあるんだろうな。

私は山本ゆりさんの文章が好きで、ブログはもちろん、書籍も何度も読み返すほどなのだけど、ゆりさんの文章に触れると、頭の中に発生する言葉が全部、関西弁になる。

なので、ゆりさんの文章に触れたあとは、自分でも関西弁の文章が書きたくなるのだけど、いかんせん私は関西弁を喋ることができない。喋ることができないということは、文章を書くこともできないということで。たとえ文章にしたとしても、きっと変な言語が生まれることになるので関西弁で文章は書かないけれど、できれば自分の頭の中に発生した言語通りの文章が書きたいなぁとよく思う。

その「自分の思った通りの文章」の中に、「ですます調」と「である調」がある。

私はこのnoteで「ですます調」を使わないようにしていて、けれど実際に人と会話する時は「ですます調」ばかりだし、どれだけ仲良くなってもなかなか敬語が抜けないぐらい、わりと他人行儀な人間だったりする。タメ口がとても苦手。

そんな自分を変えたくて、noteではわざと「ですます調」を使用しないことにしているのだけど、でも時々「である調」の文章が自分の中でしっくりこない時があって、それはきっと普段使い慣れていないからなんだろうなと思ったりしている。

しかし最近はそのしっくりこない感じが減っていて、このnoteではスラスラと言葉が出せるようにはなってきた。人は慣れていく生き物なのだなと、こういう時に実感する。ということは、慣れない関西弁であっても、書いていくうちに慣れることができるのだろうか??なんて夢をみたくなるけれど、そもそも自分の引き出しの中に関西弁が無ければ、出せるものがないから、これは慣れる慣れないの話じゃないよね?と気づく。


そんな最近の読書は『泣きたい夜の甘味処』

疲れた心に染みる話がいくつもあって、感動してしまうだろうと思ってはいたものの、おじいさんと猫ちゃんの話でもうね、ダメでした(涙)。動物ものには弱くて、だから猫ちゃんが出てきたときに、これはヤバイ気がすると自分の中で警報が鳴っていて、でも先が気になるから読んでしまって、おじいさんの気持ちと猫ちゃんの気持ちがね、もうね、ダメでした(涙パート2)。

感動すると謳われるもの全般が、お涙ちょうだいに感じてしまって苦手だった。それは泣くのが苦手という面もあるし、悲しい話に影響を受けまくるので、その感動に触れた後もずっと一人で悲しみのどん底にまで落ちていくのがイヤだったからこそ、こういう本などには触れないようにしていた。

けれども今回『泣きたい夜の甘味処』を読んでみて、感動するものっていいなぁと思えた。人の優しさを素直に受け入れられずに、頑なだった心がほぐれていくような、なんとも不思議な感覚を味わうことになって、自分としても驚いている。

影響を受けることは、悪くないんだと気づかせてもらえた、ただそれだけで読んで良かったと思える本だった。出会えて良かった。

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