見出し画像

読書感想文「東京都同情塔」九段理江 (著) / 小説の書き方を語る / 小川哲(SF小説家)

扉絵はこの本の出版元のWebサイトから。

実際に読んだのは文藝春秋2024年3月号。

上の新潮社のサイトやAmazonのサイトで本にして7頁ほど試し読みできる。

内容のまとめは日経新聞の日曜読書欄が的確。
記事を一部引用する。

物語の舞台は、現実世界とは異なった過去を持つ近未来の東京。変更点は大きく2つ。国立競技場がザハ・ハディドの設計案のまま建設されたこと。2020年に東京オリンピックが予定通り開催されたこと。社会学者で幸福学者のマサキ・セトの提唱によって「犯罪者」「受刑者」を「ホモ・ミゼラビリス=同情されるべき人々」と呼ぶ動きが広がり、新宿御苑にホモ・ミゼラビリスが収容ならぬ入居する高層ビル「シンパシータワートーキョー」が建設される。主要登場人物は3人。横文字による意味の中和を嫌い、タワーを「東京都同情塔」と敢えて呼ぶ女性建築家の牧名沙羅。不幸な生まれ育ちでありながら、牧名との運命的な出会いによってタワーのスタッフになる青年拓人。トーキョートドージョートーにかんする記事を書くべく来日した三流ジャーナリストのマックス・クライン。物語は最終的にタワー建設後の2030年に至る。

東京都同情塔 九段理江著 近未来ニッポンの思考実験《評》批評家 佐々木 敦

文藝春秋に掲載されたインタビューと別項の「小説家vs AI」を中心に(引用を含め)感想を書きたい。小説そのものの引用は極力避けることにする。

インタビュー

インタビュアーのネームが記載されていないが、著者の受け答えでユニークな内面がうかがわれる。

──『東京都同情塔』は、ザハ・ハディドによる新国立競技場が建設された東京が舞台です。(中略)九段さんの小説の主題は作品ごとにガラリと変わるので予想がつきません。どのように小説を書かれているのでしょうか。

九段  まず、小説を書く前にものすごい量の資料を集めます。私は一人の人間の妄想だけで小説を書くのは無理だと思っていて、最低百冊は資料を読まないと書けないと考えています。資料を読んでいる中で具体的な形が見えてくるのですが、今回建築の話を書くにあたって一番参考になったのは、建築家が書いた本。丹下健三、隈研吾など建築家が書いた本をまず最初に読んでいき、やはり建築家を主人公に書いてみたいと思い至りました。

文藝春秋2024年3月号

物語を作るために資料集めが必要だというのはよく分かる。
でも「百冊」?

以下、九段氏がインタビューで語った中で、小説の書き方として印象に残った言葉を挙げておきたい。

いつもなんとなく頭に浮かんでくる主題を手がかりに書き進めていくのですが、ラストやそこに至る流れを決めて書くことはありません。


書き進めていると、〝絶対的にこの小説が求めている言葉〟がふっと出てくるんです。


その言葉に応じて、人物や設定を変えていく……というのが私の小説の生成過程です。


小説がその言葉を求めているから、私はその指令に従って、求められる言葉が収まる必然性を持った小説をつくっていかなければならない。だから、最後まで書き切れるか、毎回すごく怖いんです。


A Iに書かせた」という意味に受け取られているのであれば、訂正させてください。小説内で生成 A Iが出てくる場面では A Iの言葉を使う必然性はありましたし、実際によい効果が生まれたと考えています。しかし小説の構想や、生成 A Iが登場しない場面の地の文と会話文、 A Iに言葉や思考が侵食されていく人物造形などはすべてオリジナルです。


言葉って、実体を持たないものなのに、なぜこんなにも人間や世界を変えてしまうのだろうと、不思議でしょうがない。言葉でどこまで行けるかを見てみたい。


苦しくて言葉のことを考えるのを止めたいとすら思うのに、小さい頃からもはや宿命かのように言葉について考えてしまいます。言葉がなかったら傷つくこともないけど、幸福な気分になることもない。色々な問題の根源にあるのが言葉だと思います。


 ──今後の目標を聞かせてください。

九段  前作『しをかくうま』で野間文芸新人賞を受賞したとき、保坂和志さんがスピーチで「いい小説というのは、一作ごとに作家が成長できる小説なんだ」とおっしゃっていて、私はその言葉に心から同意しました。成長するということは、過去の自分に戻れないということでもある。でも、過去にやってきたことを全部忘れてでも、一作ごとに成長できる、新しい自分を発見できる小説を書いていきたいです。

文藝春秋2024年3月号

小説家vs AI

文藝春秋2024年3月号に掲載されている、「小説家vs.AI ▼小川哲」が、AIと小説家の未来の関係をポジティブに捉えており、その理由を次のように語っている。

生成 A Iが小説を執筆することの壁となっているのが、「読者としての能力」である。小説家が書いた文章を最初に目にするのは読者ではなく、編集者だ──と思われがちだが、実は編集者よりも先に読む人物がいる。小説家自身だ。(中略)小説家はそれぞれ、一人の読者としての自分を抱えており、自分で書いた文章(あるいはこれから書こうとしている文章)を読者の自分がジャッジして、適宜修正を加えたり、場合によっては一度書いたものをすべて消してしまったりする。

「なぜ生成 A Iがある種の小説を書くことができないのか」という問いの答えは、「小説家はすべての創作プロセスを言語化することができないから」という身も蓋もないものになってしまう。(中略)そもそも小説家が一人の愚かな人間で、能力不足によって自分が何をやっているのか完全に把握できていないからである。

大袈裟な言い方をすれば、「意図せず書いてしまった文章の総体が作家性である」と表現することもできるかもしれない。

そもそも「書物」という物質ではなく、その「中身」にこそ真の価値がある(中略)本の「中身」とは、一般的に人々が使用している、ありふれた言語の組み合わせでしかない。

もし「中身」の正体が単に「言語の組み合わせ」であるならば、生成 A Iが書いた小説を電子書籍というメディアで楽しむ行為は、小説の本質そのものであるということになる。

「本を読む」という体験は、本の「外側」にある物語も含めて楽しむものだからだ。その本とどのようにして出会ったか。誰がすすめたから読もうと思ったか。その本を読んでいる間に、自分の身にどんなことが起こったか。本の感想を誰と語り合ったか。その本を読んだことで、どう価値観が変わり、人生にどういう変化があったか。僕たちは一冊の本の「中身」と、その「外側」にある自分の人生を交差させながら、本の価値を決めている。もっというと、「中身」と「外側」を区別することなく、総合的な一つの「物語」として本を受容している。それはきっと本だけでなく、音楽や絵画や漫画も同じだろう。  僕たちが「中身」と「外側」を区別することができないのは、僕たちが人間だからだと思う。それぞれが弱さや愚かさを抱えているから、本来は別個のものである「外側」の物語を作品そのものと一体化させてしまう。人間がそういう性質を持っている限り、「言語の組み合わせ」のみに価値を置くことは難しい。

「面白い小説」のプロセスが完全に明らかになり、生成 A Iが途轍もないペースで傑作を生みだす時代になるなら、それはそれで楽しみだ。もちろんそうなったら小説家としての僕は廃業せざるを得なくなるかもしれないが、「読者」としての僕が満足できたらそれで構わない。  ちなみに、小説家として廃業したとしても、僕はきっと小説を書き続けていると思う。僕があくまでも「楽観的」なのは、「小説を書くことの楽しみ」を、いかなる生成 A Iも僕から奪うことができないからだ。

文藝春秋2024年3月号

どうでしょう?

MOHが腑に落ちる箇所のみを引用したので、読む人によっては「それは違うよ」と思う方もおられるかも知れない。

九段理江氏、小川哲氏ともに小説を書くことを職業とする三十代のアーチスト。数々の賞も受賞しており、彼らの言葉を否定は出来ないと思う(少なくとも日本国内では)。


「東京都同情塔」を読んで

前振りが長くなってしまった。
芥川賞選者9名が文藝春秋に選評を書いている。

文藝春秋2024年3月号

誰の選評とは書かないが「(昔の)自分の作風のように書いて欲しかった」みたいな選評もある。
素人目で読んでも??な感じ。
(そんなものを盛り込んだら、この小説の良き冷たさが無くなってしまう)

ただ、私が思うに、このディストピアに生きる当事者たちの狂気や抵抗をもっとアクションとして作品に盛り込んでいたら、より多くの読者のシンパシーを獲得できたはず。

お国から勲章をもらい、現在どこかの大学教授
昨年出版した新刊に、Amazonの評価は3つのみ、コメントは無い


選評の中で「九段氏の感性を理解して選評を書いているな」と感じたのは、平野啓一郎氏と川上弘美氏。二人とも「東京都同情塔」を一番推しにしている。
著者が考えた作品の構造、そのバックグランドとそこに至る才能を掴んでいる。

この小説、純文学のカテゴリー故、一本調子の筋書きがあるわけではなく、歪んだPolitical Correctnessをテーマにし、世の中を多面的に批評しながら物語が進んでいく。

素人の物書きが読んで感心するのは、物語の中で人称や視点が次々に変わっても、それに違和感を感じさせないところ。これは参考にしたい。

小説の中に出てくる新宿御苑の記述を引用する。
偶然だが芥川賞受賞から10日後、この小説の内容を知らずに同じルートを歩いて千駄ヶ谷門を抜け入苑料を支払い苑内を散策した。
 
物語の中で主人公たちは、深夜にフェンスをよじ登り無断で入苑する。

高架下をくぐり抜けてまた数分歩くと、小規模の低層マンションが立ち並ぶ住宅地にひっそりと新宿御苑の千駄ヶ谷門が現れ、彼女は足を止めた。フェンスに手をかけて寄りかかり、御苑の内部を凝視し、周囲に人の気配が失せて、蝉の声だけが体の中に充満していくのを待つ。そして、たぶんそうするんだろうなという予想はしながらも現実に起こるまでは信じられない行動を、彼女は現実に、いとも簡単に行なってしまう。ヒールを脱ぎ、ハンドバッグと一緒にフェンスの向こう側に放り投げる。石塀に足を引っかけ、「新宿御苑ご利用案内」の看板を蹴りながら、「この柵の錆びてるところ気を付けて」と冷静にアドバイスしたかと思うと、門柱の石の上に起立し僕を見下ろして、「どう?  ヨガで鍛えた柔軟性」と微笑み、気付けばあちらの世界へ体をするりと運んでいる。

「東京都同情塔」
門柱の右にあるのが「新宿御苑ご利用案内」の看板


MOH

この記事が参加している募集