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完璧じゃなくていい。私は私のままで素敵なんだ。

【注意】

今回は私の過去のものすごく暗い話が出ます。

そういうのは読みたくない、という方はスルーが吉です。



完璧主義と「素敵な自分」の呪縛

完璧主義を乗り越えたと思っていたけど、まだ心の中にいることに今日気づいた。

ここ数年の私は、「クセや価値観を整理して生きやすい人生にしたいなー」と思って取り組んでいたのだけれど、心の中まで、「不出来な部分や悶々とした部分を完璧に取り払う」ことに注力しすぎて、自分の「アラ探し」をしてしまっていることに気づいた。


「私のどこを変えていけば、素敵な自分になれるのだろう?」


もうやめて。
やめていい。


変わっても、変わらなくても、私は私なのだ。


友人や親しい人たちには、事あるごとに「あなたはそのままでいいんだよ」とよく言ってきたのだけれど、これは、自分が言われたい言葉だったのだ。


私も、そのままで、十分素敵なのだ。


そして、ずっと変えようとしてきた「今までの自分」は、悪ではない


確かに生きづらかったし、生きづらさから解放されたくて色々ともがいたけれど、「ダメ」ではないのだ。


今の自分でも十分素敵で、「全然ダメ」じゃない。


これは、昨日退職の挨拶回りをしたときに感じたこと。


「本当によくがんばった」

「あなたならどこ行っても大丈夫だよ!」

「一緒に仕事ができて楽しかった」


私としては「いっぱい迷惑かけたなぁ…」と思っていたのだけれど、職場のみんなからそう言ってもらえて、初めて、「私ってちゃんとできてたんだ、全然ダメじゃなかったんだ」と心から思えた。


と同時に、自分自身への「全然ダメ」という厳しい思いが根深くあったことにも気づかされた。


「全然ダメ」な子ども時代

「全然ダメ」という思いは、子どもの頃から自分ですりこんでいたように思う。

子ども心に、褒めてもらえなかった時や、物事がうまくいかなかった時、眉をひそめるような顔を向けられた時、「あぁ、私がダメだったんだ」と思っていた。


私が悪い子だから、いけなかったんだ。

私が相手の条件に達しなかった、求められる正解を出せなかった、だから認めてもらえなくても仕方ないのだと、思っていた。

いつも、「誰かの正解」を出すために、必死だった。


消えてしまいたいくらいつらくて、隙あらば「死にたい」と思いながら、迷惑がかからない方法が見つからなくて死ねないのでずっと生きていた。


小学生の時には、「私なんかいなくなればいい」と、家で一人泣きながらティッシュを一枚一枚投げていた。

ティッシュを投げていた理由は、物を投げたかったのだけれど、投げて壊したり、大きな音を立てたりしたら迷惑がかかって怒られると思ったからだ。


そして、私には妹がいるのだけれど、ずっと心の中で比較し続けていた。


妹は明るくて要領もいい。話が上手で、人気者。

私は暗いし、不器用だ。話もうまくできないし、周りにうまくなじめなくて、友達は少なかった。


私の目には、妹の方が両親にかわいがられているように見えた。

(大人になって、妹も私に対して同じようなことを思っていたことが分かるが、これはまた別の話。)


社会人になって実家を出るまで、家には居場所がないと感じていた。

ずっと苦しかった。

家族だけど、「話してもどうせわかってもらえない」とずっと思っていた。

素の自分、特にダメな部分を見せて否定されたら、と思うと何も話せなかった。

両親に、「自分の好きなこと」を話すのも怖かった。

それを否定されたら、「自分を否定された」と感じてしまうから。

だからひっそりと、自分の世界だけにとどめていた。


ひとりでいる時間だけが、唯一ほっとできる時間だった。


大人への気持ちとクラスメイトへの軽蔑と羨望

「優秀でいい子でいなければ、大人たちにそう思わせなければ、生きていけない」と感じていた。

感じていたと書いたが、これはほとんど無意識で、「そうするのが当たり前」だと信じて疑わなかった。


いい子でいれば、先生に怒られることもないし、よい評価をもらえる。

「この子はなんの問題ない」と思わせたかったし、先生たちは実際そう思っていたと思う。


勉強をすること自体は別に嫌いではなかったので、「問題のない生徒」としてふるまうのは容易だった。


ただ、無意識のうちに我慢していたからか、やんちゃなクラスメイト達のことはほとんど軽蔑するような気持ちで見ていた。


だって、そんな恰好じゃ「先生や大人には認められない」から。


本当は、自由に自分を表現できている彼らがうらやましかった。

バカなことも全力でやって、毎日楽しそうに生きている彼らが、まぶしかった。


私には絶対できない、そういう人生じゃない、と思っていた。


今、あの頃に戻りたいとはまったく思わないし、彼らのように派手な格好をしたいとは思わない。

ただ、子ども時代から「自分らしさ」を殺さずに生きられていたら、もっと楽しかったのかもなとは思う。


やっと息ができるようになってきた

大学生を経て大人になって、やっと、「息ができるようになってきたな」、と思う。


それは、心理学を学んだり、HSPやマルチポテンシャライトなどの気質について知ったりして、「自分の特性」の正体が少しずつつかめるようになったからだと思う。

そして、自分には合わない環境で窒息しそうになりながら生きてきたのだということも少しずつ理解できるようになった。


それまでの人生は、形もサイズも合わない狭い箱に無理矢理押し込めているようなもので、息もできないし苦しいしどこもかしこも痛い、みたいな感じだった。

ぎゅうぎゅうで自分の姿なんて全く見えないから、自分が本当はどういう生き物で、何がしたいのかもわからない。

言うなれば、自分がヒトなのかネコなのかすらも分からないような状況だった。


そんな状況から、知識を得る度に自分自身のつらさをゆるめるためのとっかかりが増えて、少しずつ思考のクセを修正したり価値観の枠を外したりと、様々なアプローチをするようになった。

完璧主義についても、緩和したり、逆に利用して新しい思考をインストールするのに使ったりと、使い方次第で楽になるのだと学んだ。

色々な思い込みや価値観を手放したおかげで、ここ2~3年でだいぶ生きやすい思考と人生になってきたように思う。


完璧主義の私と「いい友達」になる

完璧主義は長い間、私の「鎧」だった。

それはサイズがあっていなかったしなんなら着方も間違っていたから、私を苦しめていたしいろんな弊害もあったけれど、それでもずっと私を守るためにいてくれたのだ。


だから、そろそろ休んでもらおうと思う。


「完璧」でなくても、私を好きでいてくれる人たちはたくさんいる。

好奇心旺盛で、ちょっと変な「ありのまま」の私でも、好きでいてくれる人たちがたくさんいる。

この事実は、私にとっては人生が180度変わるほどの、とても大きな発見だった。


だからもう大丈夫なのだ。


「完璧主義」の私、ずっと守ってくれてありがとう。

しばらく休んでもバチは当たらないから、ゆっくり休んでほしい。

本当に長い間よく頑張ってくれたので、時間をかけてゆっくりとねぎらってあげようと思う。

そして、私たちはきっといい友達になれると思うので、その時はゆっくりお茶でもしよう。


ここまで読んでくださったあなたへ

ここまでお読みくださりありがとうございます。


正直、このnoteを出すかどうか、迷いました。

あとで思い直して消すかもしれません。

でも、今は憑き物が落ちたような、そんな気持ちです。


ここまで読んでくれたあなたも、「私の大切な人」の一人です。

大切なあなたへの恩返しは、私がこれからも面白おかしくいろんなことに挑戦していくことで代えさせていただけたら嬉しいです。


私の過去が、あなたの何かしらの救いになったら、これまでの人生とこのnoteを書いた時間が報われるかもしれません(笑)



今後とも、どうぞよろしくお願いします。





しまこ


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